蜘蛛の糸
――二階層 箱の間
その日、ミレーユは最悪の気分で朝を迎えた。
ゴブリンに拉致され、ここに閉じ込められてから何日経ったであろうか?
城下にはゴブリンに警戒するようにとのお達しが出ていたが、まさか自分がその被害に合うなど想定もしていなかったのだ。
当初、この部屋にはは30人ばかりの女が居たというのに、次々と一人づつ呼び出されては数が減り、今では10名足らずとなった。
男に至っては更に悲惨である。捕虜となった者達はすぐには殺されず、縛り上げられた上で様々な武器の「試し切り」へと使われるのだ。
時には幼いゴブリンの練習台として、膾に斬られる事も珍しくない。
今日も一匹のゴブリンが女を閉じ込めておく「箱」と呼ばれる部屋の扉を開け、中を嫌らしい目付きで見回していた。
(どうか、こっちに来ませんように……!)
ミレーユが顔を伏せ、他の女達も一斉に下を向く。
目が合っただけで、そのまま連れて行かれる事も珍しくない。
いつかは国が、親が、自分達の失踪に気付き、救助隊を出してくれると期待していたのだが、それらは淡い夢と化した。
国がそんなものを出す筈もないし、親がそれらの依頼を出しても、そんな危険な仕事を引き受けてくれる物好きな冒険者など居ない。
怯える女達を見るのが愉しいのか、ゴブリンがゲラゲラと嗤う。
「ゲッゲッ、残念だが今日は違う。新しいお仲間が来るぞ」
その言葉に、陰鬱とした空気が流れる。
また誰か拉致されたか、上から来た冒険者が捕まるのだ、と。
「女が三人だ。捕まえれば、ここから三人向こうに運ぶ」
ゴブリンの言葉に、箱の中に絶望感が押し寄せる。
小鬼達が言う“向こう”など、想像するのもおぞましい。ゴブリンは嗤いながら唾を吐き捨てると、扉を閉めて出ていった。
ミレーユは思う――どうか、その人達が捕まりませんように、と。
だが、それは根本的な解決にはならない。捕まらなくとも、このままではいずれ向こうに連れて行かれる事になるであろう。
(その人達が、どうか逃げ延びてくれますように……!)
全員がそれを必死に祈ったが、祈る方向が少しズレていたのかも知れない。
逃げ延びるどころか、その内の一人はゴブリンを一匹残らず踏み潰し、蹂躙していく存在であった。
その頃、王子様の一向は――
5匹のゴブリンと向かい合っていたのが、小鬼達の口から流暢な言葉が放たれた事に一郎がギョッとする。人間とは違う生物の口から、自分達と同じ言葉が出る様は未だに慣れそうもない。
「人間、女が二人」
「後ろのは男か? 女か?」
「良い匂いがする。女だ」
「仲間を呼べ」
ゴブリン達が嫌らしい視線を向ける中、ミリが電光石火で動き出す。
一番近いゴブリンの首を跳ね飛ばしたかと思うと、オネアも魔法を唱え、一体が火に包まれた。
「角笛を鳴らす前に仕留めるわよッ!」
「はいでしゅ!」
一郎に格好良いところを見せようとしているのか、ゴブリンに追いかけ回された嫌な記憶を思い出したのか、二人の動きにまるで迷いはない。
慌てたように斧を振り被るゴブリンに対し、ミリの体が白い闘気に包まれた。
「――《剣閃》ッッ!」
斧を振り被った両手ごと、ゴブリンの首が飛ぶ。オネアも後方から詠唱したかと思うと、杖から火を帯びた鞭が噴き出した。
「ゴブ野郎、躾けてやるでしゅ――火鞭」
残り二体のゴブリンが火の鞭に切り刻まれ、焼け落ちていく。
この世界でのまともな戦闘を見て一郎は呆然としていたが、二人がゴブリンの耳を削ぎ落としていく姿を見て衝撃を受けた。
「……その耳も、何かの素材として売れるのか?」
「これはゴブリンを倒したって証拠なのっ! 一体で大銅貨一枚にはなるわ」
「なるほど……」
大銅貨と言われても一郎にはサッパリ価値が分からなかったが、害虫駆除の業者のようなものか、と無理やり納得する。
他にもゴブリンが持っていた武器や鎧などを手早く回収して、二人は背中の袋へと放り込んでいく。
(害虫駆除兼、山賊みたいなもんか……)
身包みを剥ぐ、という意味では山賊めいた姿でもある。
冒険者らはこれらも上で売り捌くが、質の悪いものが多いので殆ど捨て値で買い叩かれるものばかりであった。
ゴブリンには刃を砥いだり、鋳金したり、と言った鍛冶技術がない。
反面、農作物を育てたり、罠を仕掛けたりする器用さは持っており、人間と同じように集団戦を可能とする知恵も持っている。
それらの説明をミリから聞きながら、一郎は腹の中で唸っていた。
(得体の知れない連中だな……)
ゴブリンについての説明を聞きながら、一郎は「よく分からん」と言った感じで首を振る。ただ、人間の女を苗床にすると言う時点で「共栄共存」などは望むべくもないであろう。
(どちらかが死に絶えるまで、殺り合うしかないんだろうな)
最下層と人間の国があると言われている三階層を安全に繋ぐ、と言う意味においても、二階層の確保は必須であろう。
そんな事を考えていると、ピコは真剣な目でゴブリンの体や顔を見ていた。
咄嗟に嫌な予感を覚え、一郎はピコを片手に抱えて歩き出す。
「ちょっ、待って下さい! 何処か食べられる部位があるかも知れません!」
「ねーよ! 俺を殺す気か!」
「王子、あまり先走らないでっ! 何処に罠があるか分からないんだから!」
迷路のような道をズンズンと歩く。
途中、槍が飛び出してきたり、虎挟みのようなものが喰らいついてきたが、槍は一郎の手によって払われ、虎挟みは逆に刃の方が粉々に砕け散った。
解除もクソもない、歩く罠ブレイカーである。
「あわわ! 王子しゃま、上からクソ粘液が!」
「ん?」
降ってきたスライムに一郎がアッパーをかますと、パンッ! と激しい破裂音と共に液体が瞬時に蒸発した。
本来、粘体種は殴打に対して非常に強い魔物なのだが、この男の攻撃力は破滅的であり、素手で何でも殴り殺せる域にある。
「一郎さんっ、あそこに迷宮トンボが! 羽が美味しいらしいです!」
「食わねーよ!」
「あそこにも迷宮ナメクジが! 見た目はドロっと――」
「おいバカ、ヤメロ!」
抱えたピコが呟く内容に一郎は早くここを抜けようと速度を上げる。
ここに居たら、何を食わされるか分かったものではない。そのまま歩き続けていると、一際大きな部屋へと出た。
途端、前の通路からゾロゾロとゴブリンが現れ、振り返ると後ろや左右からも続々と集団がやってくる。
その動きは小慣れており、普段からここで待ち伏せしている事を伺わせた。
「まずいわね……囲まれたわ」
「王子しゃま、どうしましゅか?」
「とにかく進もう。ここに居たら俺の胃が危ない」
一郎が前に踏み出すと、ゴブリンの群れから立派な鎧兜を付けた一体が周囲を掻き分けながら現れた。
集団を纏める個体――小鬼の長である。
「乞食人間、女を置いていけ」
こんな訳の分からない生物に乞食、と呼ばれた事にカチンとくる一郎であったが、自ら望んでこのボロボロのローブを纏っているのだから反論出来ない。
「置いていったとして、どうするつもりだ?」
「黙れ。抱えている女も置いていけ」
長がゴミでも見るような視線で言う。
彼らにとって、この部屋に入った時点で勝敗は既に決しているのだ。ピコは女と呼ばれた事に怒りを露にしながら叫ぶ。
「小鬼めっ! 僕は男だ!」
「女にしか見えん。なら、使える」
さり気なく長がトンでもない事を口にしていたが、一郎は先程から込み上げつつある心臓の鼓動を宥めるのに必死であった。
妙な真似をしなくとも、身体能力だけで十分に対処出来るのでは? と思ったからである。
「俺達は上――に――行――」
しゃべっている最中にも鼓動が高らかに始まりを告げ、文字通り、戦いの火花が散る。一郎の纏う気配が変わり、三人はそれを敏感に察した。
ピコは慌てて後ろの二人の下へと向かう。
「判断の遅い人間め。もういい、こいつは殺して後は箱に入れろ」
「箱、ね――そこに人間の女を集めているのか?」
「……この俺に向かって、何か言ったか? 人間」
「あぁ、言ったさ。が、お前の耳はもう無いようだがな」
「なに、を……うがぁぁぁぁッッ!」
気付けば、一郎の手に二つの耳が握られていた。両耳を引き千切られた痛みに、長が地面を転げ回る。
一郎は血の滴るそれを、ゴミのように壁へと叩き付けた。ベシャン、と奇妙な音が響き、耳だったものが四散する。
「お前は残して、後は一匹残らず消し去る事にしよう――」
この場だけで、軽く百体は居るであろう数を考えると馬鹿げた台詞であったが、一郎にはそれを実行出来る力が備わっている。
「殺せッ、早く、その男を殺ぜぇぇぇぇぇぇッ!」
長の声に、一斉にゴブリン達が動き出す。
が、次の瞬間――彼らの足が止まった。何時の間にか、足元には蜘蛛の糸が張り巡らされており、白い糸が両足をがっちりと掴んでいたのだ。
――貪欲な土蜘蛛
一郎の口から不気味な魔法が紡がれる。
やがて、糸はズルズルとゴブリン達を地面に引き摺り込み、次々と地中の中へと埋没させていく。
穴の下には、恐ろしく巨大な蜘蛛が目を光らせており、ゴブリン達が絶叫した。
何も言わずとも、その目が語っている――お前達を“喰う”と。
「知っているか? 蜘蛛はかかった獲物に牙を突き立て、毒液を注入して動けなくする。その後は開けた穴から消化液を流し込み、全身を溶かしてストローのように吸い上げるんだ」
一郎の言葉に、ゴブリン達が益々、声を上げて絶叫した。
自分達の足元に、“それ”を実行する蜘蛛が実際に居るのだ。
「た、助けっ!」
「勘弁して下さい……もうしませんから!」
「か、解放! 女は解放します!」
「――断る。貴様らに、似合いの結末だな?」
その指が軽やかに鳴らされると、ゴブリンの群れが一斉に地上から姿を消す。
地の下では何がおこなわれているのか、空恐ろしいものがあったが、三人は飛び上がるようにして喜びを露にした。
これまで、やりたい放題にやられてきた小鬼に対し、容赦のない鉄槌が下された事に爽快な気分が込み上げてきたのだ。
一郎は後ろの騒ぎをよそに小鬼達の長へと歩み寄ると、その体を掴み上げた。
「案内して貰おうか、“箱”とやらに――」
「は、はひ……っ!」




