壁の内側へ
四人は再び歩いていた。断崖絶壁の周辺はしばらく森林が続いていたが、やがて高い草木の無い草原へ出た。
森の中は控え目に言って獣道。一般に道なき道を進んで来た一行の足は、草原に出てからは速かった。決して整備されているとは言い難いが、街道がそこにはあったのだ。
意外にも健脚な澄だったが、鬱蒼とした森林の中を歩くというのは、気にしなければ気にならないとは言うものの、いい気分とは言えない。
今歩くそこは綿雲の浮く青空の下に穏やかな風が吹く草原。澄としては歩きながら昼寝ができそうだった。
途中に休憩を挟みつつ、一行は更に歩く。
そこで澄はちらと歩いて来た方を見た。
(よくもまあ、あんなとこに居たよね)
視界の端には不自然にせり上がった大地が聳えていた。
初めてこの世で目を覚ましたのは空を飛ぶ龍の背の上。そこから放り出された澄は森の中へと、遥か高空から落ちてきた。思えばよくぞ生きていたものだ。
そもそも思い返せば何者かにこの世に飛ばされた所から始まり、龍の背から転落、空から落ちてきた衣服、いつの間にか使えるようになっていた魔法、10メートルもある地峡を飛び越える熊に襲われ、気付いたら犬耳の姉弟に拾われて、再び目覚めるとエルフの集落。
まるで意味が分からない。
そして今だ。自分はこの三人に連れられてどこに向かっているのか。
高台から見た下界にはそれなりの規模の街が見えた。今正に街道を歩いている以上、そこに向かっているのだろう。
(でもその先は?)
金無し、身元無し、しかも言葉すら分からない。おまけに身体的特徴に於いてもかなり浮きそうだった。何せこの世ではエルフと犬耳にしか会っていない。もしやこの世界には自分の様な人種は少ないのではないかとさえ、澄は思った
(しかもみんな外人顔だし。
……で今更なんだけど、なんで私は連れて来られているのかな。最悪は「お前が商品になるんだよ!」って所かな?嫌だなあイヤーンな展開とかは特に。その時は逃げよう。魔法全開で)
それでも成るようにする他無いかと澄は視線を前に戻す。
澄はこの数日の出来事とこれからの事を溜息に乗せ、穏やかな風に溶かすのだった。
◇◇◇
「おお〜やっぱりアレかあ」
陽が上り詰めた頃、いよいよ目的地と思しきものが目に入る。高い壁に囲まれた街。それは高台から見下ろす景色の中にあったそれだった。
軽い口調とは裏腹に、澄は心の六割五分を占める不安を押し込めながら三人に続く。健脚にしても流石に疲れたもので、三割五分は落ち着いた場で休みたい気持ちで一杯なのだ。ここで逃げ出そうものなら野垂れ死ぬ。
とにかく、ついていくしか無い。
すっかり重くなった足の裏を地面から引き剥がしながら一歩を重ねる。あと少し、あと少しと思って進む澄の思いとは裏腹に、街を囲む壁は一向に近くならない。しばらく進み、澄は距離感が狂っていた事に気がつく。
(あの壁……めちゃくちゃ高い!)
あまりに高いその壁は、澄の距離感にもっと小さいものが近くにあると思わせていた。しかし現実は真逆。大きなものが遠くにあるのだ。
やがて一行は壁に辿り着く。澄は壁を見上げて如何にもお上りさんといった様子だ。いや、犬耳の妹も澄と全く同じ様子である。一方で兄とエルフの男性は落ち着き払った様子であるが。
一体この壁は何メートルあるのだろう。50メートル程だろうか。澄は自らの魔法を駆使すればそれも忽ち明かされてしまう事が分かっていたが、言葉の通じない三人の前では自重していた。
それはまたの機会に持ち越すとして、やはり気掛かりなのは……。
「こんなの何に使うのよ……巨人でも居るの?この世は」
街を何から守る為にこのようなものが作られたのか。不安が一つ増えた。なんだかこの街に居たら50メートル級の巨人に襲われるような気がしてならなかった。
ともあれ、街に入らねばゆっくり休む事もできない。犬耳の少年の声を聞き、妹と澄は二人の後をついていく。
街の入り口は壁に比して然程大きくは無かった。いや、十分大きいが、壁が大きすぎるのだ。入り口を潜って直ぐ、人の列の先には窓口が五つ。どうやらそこで軽い審査やらをしているらしい。時折硬貨を係に渡す通行人の姿も見られる。皆が渡している訳では無いが、金がかかる事もあるようだ。
それでも誰として揉める様子もなく、一人十数秒程度で列は進む。街に入る事は決して難しく無い事が分かる。そして一行の順もやってきた。
「→→<〆:…:×$%<<・>×1¥-/^」
係はやはり金髪碧眼の女性だった。澄の言うところの外人顔である。だがそれでも、澄は彼女との共通点を見出していた。
彼女の耳は澄と同じ丸い耳だったのだ。
「→→×○○〒%€£+<=<:々\\*♯°」
それでも尚、言葉は通じなかったが。
(うん!何言ってるかさっぱりわかんない!けどそのうち言葉覚えなきゃだしなあ……。語学とか苦手過ぎるんだけど)
などと考えていると係の女性がこちらを向く。そして澄に何か話し掛けるが言葉が分からない。すかさずエルフの男性が言葉を差し込んできた。
(これは多分、入国審査みたいに「何しに来たの?」的な感じかな?でもあたしも自分が何しに来たか知らないんだよね。んで、エルフのにーちゃんが「言葉分からないんだよ」とフォローを入れてくれた感じかな)
澄はとりあえず態度だけは前向きな印象にしておこうと一芝居。
にこっと笑っては小さく手を振り
「こんにちは〜」
一拍の間の後、係の女性も笑顔で手を振り返してくれた。多分成功だ。
そしてエルフの男性が茶色の硬貨を係の女性に支払い、無事に一行は街に入る。
(あれは銅貨だろうか?)
貨幣に興味を示したのも束の間、襲われた。誰にとは言うまでもない。
「いやお姉さんちょっとは手加減しようか!?デイリー窒息……いや、乳息と名付けよう。死ぬから!いつか絶対!」
◇◇◇
(さてこれからどうしたものか、いや、付いていくしか無いのだけれど。)
先程から澄の頭はこればかり。「どうしよう、どうにもならない」である。
街中は石造りであったり木造であったり、かと思えば天幕が張ってあったり、なんでもありだった。
道行く人々は金髪、茶髪、銀に緑まで居る始末。瞳の色すら青に緑に灰と、こちらもなんでもありだった。且つ、耳が頭の上に付いている人も少なくない。
(うわあ……これはまた凄いな)
右を見れば紅髪の男性が天幕に滑り込み、左を見れば紫髪に豹柄の服のおばちゃんが露店のおじさんとお喋り中。
(これはなんか見覚えがあるぞ?)
「猫耳おじさんに……あっちの人は目が赤……いろんな人が居るのね」
しかしその中でも、四人の容姿は少々浮いている様だった。
犬耳美女に手を引かれて歩く澄はお馴染みの黒髪黒目。街を見渡す限り、黒を揃えた人は見当たらない。
澄の手を引きながら街の様子に目を輝かせる美女と、それを心配そうに見る少年は共に青い目。そこまでは普通の様だが、金糸の混じる黒髪はこの場では恐らく澄以上に珍しい。
そして最後に、先行くエルフの男性。
(エルフのお兄さん、めっちゃ見られてるよ)
街行く人々から注目を受ける。その視線は決してマイナスな感情では無いのだが、近くに寄って来る気配も無い。どうかと言うと珍しいらしく、視線は無遠慮だが行動には出ない。畏怖と尊敬の中間であろうか。
(やっぱり珍しいのかな、エルフって。見てもそれっぽい人は他に居なそうだもんねえ)
澄もこの場では珍しい容姿ではあったが、それ以上に同行者の三人も目立っていた。この分だとそこまで気にする必要も無さそうだと、澄は肩から力を抜く。どうやら街に入る前から随分緊張していたようだ。澄は少々頭が痛かった。
宿に辿り着く頃には澄は疲労困憊のヘトヘトで、部屋に入った途端に二つあるベッドへと仰向け大の字で倒れ込んだ。
「ぶはあー……むもっ」
疲労を溜息に乗せると犬耳美女が覆いかぶさるようにじゃれついて来て、質量兵器に口を塞がれる。余力の無い澄は今回は抵抗すらしなかったが、そもそも抵抗してどうにかなる腕力差では無かった。
諦めた。
不意にドアがノックされる。顔を出した犬耳少年に呆れ顔をされたが気にしない。あたしのせいじゃないと、澄は内心で独り言ちる。
宿に腰を落ち着けたのも束の間、澄は再び街に繰り出す。今度はエルフの男性に連れられ、他の二人は別行動だ。
荷物を宿に置いて身軽になった澄だが、疲労は抜けていない。正直動きたくは無かったが、いい年して駄々をこねるつもりも無かったので黙って付いていく。
やって来たのは街でも大きめの石造りの建物。三階建の様だが、どうも横に広い。建物を眺めると、壁に取り付けられた吊り下げ旗が目に入る。
描かれていたのは、正方形型の枠の中に収まる川と釣り針。
(……釣具屋さんですか?)
澄は困惑しながらもエルフの男性に付いていく形で扉を潜る。だが、そこはどう見ても釣具屋では無かった。
いくつかのカウンターが並び、その向こうではぴしりと統一された制服の従業員が来客に対応し、その更に奥では事務仕事をしている様子。
待ち時間用の腰掛けが並ぶカウンター前の領域も含め、全体が清潔に、整然と保たれている様子。
「こっちの世の釣具屋さんは進んでるわ……」
どう見ても釣具屋ではない。館内の様子は、例えるなら役所、銀行、郵便局などのそれであった。
エルフの男性に肩を叩かれ、目を向ける。どうやら座って待っていろという事らしい。指さされたソファに腰掛ける。
(……硬っ!)
ソファだと思っていたそれは、椅子に布を貼っただけの物だったようだ。
(危ねえ、ゆっくり座って良かったよ。勢い良くいってたらおケツが割れる所だったね。ソファみたいな見た目に釣られる所だったよ。釣具屋さんだけに)
下らない事を考えている間にカウンターに向かったエルフの男性が戻って来た。
(……なになに?ついてこい?)
肉体言語にも大分慣れてきたようだ。それでも、澄はこの後のことを考えて陰鬱な気分になるのだった。
(これから頑張って言葉も覚えなきゃなあ。はあ……語学やだー……)
語学だけはどうしても嫌いだったのだ。
◇◇◇
「んっ……朝かね……」
宿のベッドで目を覚ます。鎖骨の上辺りに違和感がある。腕だ。自分のものではない。横を向くと思わず見惚れる幸せそうな寝顔。毎度お馴染み犬耳お姉さんだ。二つベッドのある部屋でわざわざ澄のベッドに潜り込んできていたのだ。ご苦労な事である。
(あっ、起きた)
「おはよう〜」
犬耳美女がいつものように澄の耳に手を伸ばして来る。最初は戸惑ったものだが、澄もこれくらい別に良いかと気にしないようにしていた。
むにむにむにむにむにむに
「ん、おはよ」
むに……
「……」
「……いまなんつった?」
犬耳美女の顔が花が咲いたような満遍の笑みに変わる。そこからは一瞬だった。
「喋れるようになったんだね!やったー!」
「んーっ!むーっ!ぶはっ、ぐるじー」
「あっごめん」
一体何が起こったのか。澄は昨日の出来事を思い出していた。
あの後、エルフの男性に連れてこられたのは別室。例の仮称釣具屋の中、階段を上がって二階にある一室。十畳程度の広さの部屋に居たのは、一四、五歳程の少女。穏やかな青の瞳に艶やかな金の髪。透き通るような白い肌。
澄は眩しそうに少女を見る。こんなお姫様みたいな美少女に引き合わせてどうしようと言うのかと。下の階では皆が統一された制服だったが、この少女は違う。その辺で見た町娘よりも一段良さげなものを身につけている。
(良いとこのお嬢様と見た……ま、まさかお貴族様とか?)
そんな澄を他所に、エルフの男性と美少女との挨拶は済んだ様だ。心なしかエルフの男性の方は緊張してる様子だった。
(可愛いのは分かるけどしっかりしなさいよエルフでしょう)
偏見たっぷりの澄は席を勧められ、二人に倣って席に着く。小さなテーブルを挟んで三者面談の形で二人の会話は続く。当然、言葉の分からない澄の入る余地は無い。
おもむろにドアがノックされる。どうやらお茶を持って来てくれたようだ。下の階で見た制服に身を包んだ女性が盆に乗った三つのカップをそれぞれの前に置く。
他の二人が直ぐに手を付けたので、澄もなんとなくカップを口に運ぶのだった。
(うん、紅茶あるんだね、こっちの世界にも)
◇◇◇
(それであたしは……あれ、こっから記憶にございません)
澄の記憶はそこで終わっていた。そして気付いたら宿で寝ていたという訳だ。要するに……。
「んはは……一服盛られたかしら……」
どうやら睡眠薬を盛られ、寝ている間に何かされたようだ。いや、何かとは一体何か、大体分かる。
「大丈夫?」
回想から戻った澄の顔を犬耳美女が覗き込む。澄がうん大丈夫と言えば、良かったと返って来る。
言葉が通じている。
寝ている間に言葉が分かるようにされていた様だ。どうやって?魔法に決まっている!
細かい事は気にしなかった。澄は喜びを噛みしめる。やがて抑えきれない感情を爆発させた。
「語学無しやったあああああ!」
そこまで語学が嫌いか。
嫌いなのだ。