異なる魔法
澄が姉弟に連れられて来たのは村の中心の塔型の建物。
ノックをしようとしたのか、弟君が据え付けられた木の扉に手を伸ばす。だが、その小さな手が扉を叩く前にお姉さんが大きな声で呼びかけた。
すると中から男性の声が聞こえた。了解の返事だったのだろう。三人で扉の中に立ち入る。
階段を登って二階の扉を潜る。中に居たのはやはりエルフの男性。少し長めの髪もご立派な口髭も白く染まっているが、背筋は伸び、青い瞳は……。
(あれ、なんか超見られてるんですけど)
真っ直ぐに澄を捉えて離さない。まるで観察するように、瞳の奥では思考を巡らせているのが分かった。
そしてその事を察知する澄もまた、鋭い一重瞼の下から相手の目を見ている。
澄が部屋の扉を潜って幾拍、異様な緊張感が部屋を支配した。
「》$→→^?g°<・>\^☆〒¥・w?」
おもむろににエルフの男性が口を開く。異様な緊張感からの不意打ち。更に言葉が全く分からない。これには澄ではどうして良いか分からなかった。
「……???……どうしよ…なんか聞かれてるよ……」
思わず視線を泳がせ吃っていると、少年が前に出てきて澄に代わり話し始めた。
「(弟君ナイス!後でもふもふさせてくれ!)」
取り敢えず話が移ったと見た澄は、肩から力を抜いたのだった。
だが、いざ二人が話始めると、簡単に事が進んでいる様子ではなかった。
少年の表情は真剣そのものに強張っており、エルフの老人もまたなんとも苦そうな顔をしている。
双方感情を表に出して声を荒げる様子は無い。それでも芯の通った声には明らかな意思が感じられた。
一方で澄は二人の話す様をまじまじと観察していた。元が他者にもそうそう興味が無かっただけに、こうして人を観察する事も無かった。
二人が何を話しているかをさておいて新鮮さを楽しんでいたミノーだが、もう一人はそんな様子では無さそうだった。
一対一で話すエルフの老人と犬耳の少年。あぶれた犬耳の女性はそんな二人におろおろと右往左往していた。
何か不謹慎な気もしたが、そんな彼女を見て澄はクスと笑ってしまった。
「まあ、落ち着きなよ。何言ってるか分かんないけどさ」
澄はそう言って落ち着かない様子の姉の肩を叩く。言葉は通じなくとも気遣いは伝わったのか、姉は澄にはにかんで見せた。
むにむにむにむにむにむに
但しその後、澄は二人の話が終わるまで耳たぶをこねられるのであった。
「ええ……まあいっか」
されるがままの澄は苦笑いで、その後ろから澄を弄るかの人は緩んだ笑顔で、二人の話が終わるのを待つ。
が、今度は澄の顔色が変わる番だった。
(……あれっ?でもこれ私の話だよね?それでこんなに揉めてるとか……えっ、ちょっと、あたし大丈夫?イケニエ?ムラハチブ?)
今更そこに気付いてしまった澄の方は、途中から嫌な汗が止まらなかった。
◇◇◇
(こんにちは。突然ですが皆さん、高い所はお好きですか?あたしゃ別に高い所は嫌いじゃないよ。少なくとも、スカイツリーくらいなら良い眺めだなーで済んだ。けどね、それはあたしがニッポンの、それも最新の建築技術に全幅の信頼を置いているからであって、状況が状況なら分からない。いや、状況次第では凄く怖いんだと知ったよ)
誰に向けたものか、澄はそんな事を考える。
そんな澄が現在歩いているそこは断崖絶壁に設けられた細い道。そこに手摺や柵は無い。
この世界では【緑の高台】と言われる秘境から下界に通ずる唯一の道だった。
エルフの老人と犬耳の少年との会話が終わった一晩の後、澄は朝から連れられるままに集落から出た。
同行者は例の犬耳の二人と一人のエルフの男性。
彼の見た目は二十歳そこらだが、落ち着いた雰囲気からそれ以上の年齢にも思えた。エルフはやはり寿命が長かったりするのかもしれないと、澄は内心で独り言ちる。
そして澄も含めた一行の荷物はそれなりに多い。澄は背嚢一つだが、犬耳の姉に至っては大きな背負子を持っていた。
そして三十分も歩けばそこには断崖絶壁。どうやらここは高い場所にあるらしいと、澄も事ここに至り知る。
眼下には森に、平原に、川に、山に、海。そして細い線ーー道があり、その先には円形に建てられた壁に囲まれた街が見える。
絶景に澄は目を瞬く。だがその時、呆気に取られる澄の肩を犬耳の女性が叩く。
彼女が指差す先……そこに確かに道はあるのだが……。
「し、死ぬう……」
こうして断崖絶壁の細道に至る。
澄は歩いているだけで寿命が縮む思いだったが、道は長い。しかも日が暮れて暗くなる前に下り切らねばならない手前、同行者の犬耳二人とエルフの男性は無情にも澄を急かす。行くは地獄。行かねば地獄。落ちれば文字通り地獄行きの道程。
それにしても集落の住人三人は全くなんともない様子である。澄は断崖絶壁だけでなく、そこに物怖じしない現地住民三人もちょっぴり恐ろしく思っていた。
辺りが暗くなる頃、一行は無事に断崖絶壁を下り切る。予め用意していたのだろうか。四人は絶壁に設けられた洞窟に身を寄せた。
浅く掘られた洞窟で、四人は宿の準備に取り掛かる。と言っても、澄はほとんど何も出来なかったが。精々が他の三人の真似事である。それでも野生動物に襲われるのは怖かったので、誰とも離れる事は無かった。
四人が揃った頃、エルフの男性が洞窟の入り口の内側に立ち外に向かった。
「【----、--、----】#/_☆€#%」
そして突然何か言い始めたと思えば次の瞬間、鮮やかな白い光が幾何学模様を描いた。
「魔法……」
ずばり、澄の見たものは魔方陣だった。
開いた口の塞がらないその人を他所に、魔法陣は姿を消した。そして一瞬、洞窟の入り口に油膜の様な紋様が現れ、次の瞬間には岩の壁になってしまった。
澄はつい岩の壁に手を伸ばす。だが手が壁に触れる事は無く、煙を掴むような感覚と共に手が壁に埋まってしまう。
(これはもしや)
澄はそのまま壁に向かって歩き出し、そして壁の向こうに足を踏み入れ、通り抜けた。
今しがた自分が通り抜けた壁を振り返る澄。そこに洞窟など見えない。入口が完全に壁の姿をしていた。
澄は再び壁に向かって歩く。そして煙が体に当たる程度の抵抗も無く通り抜ける。
(……凄い!何これ!幻覚?マボロシ?ニンジャ!?)
その後も壁に手を突っ込んだり引っ込めたりして遊んでいた澄。やがて視線に気付く。
エルフの男性と犬耳の少年は僅かに目尻を下げ、口元に微かな笑みを浮かべている。所謂温かい目という奴だ。片や犬耳の女性は両手で口元を押さえ、悩ましい目で澄を見つめながらソワソワ揺れている。
ここに至り、澄は三人の表情の意味に気が付く。
(くっそ!恥ずかしいんですけど!?やめて、そんな目で見るな!)
澄が顔を赤らめると、二人はうんうんと頷く。「いいんだよ」と聞こえて来るようだった。
そして犬耳の女性は辛抱堪らず、風を切るような速さで澄に飛び掛かる。
「ひいっ!」
澄も堪らず壁の向こうに逃げようとするが、一歩踏み出す事も叶わず捉えられる。
「むっ!むーっ!むぅーっ!」
(た、助けて!溺れる!おっぱいで溺れる!てか本当に何この力!ぬっけだせないい!)
必死の抵抗虚しく、澄は弟が止めるまで揉みくちゃにされるのだった。
美濃澄。彼女が最後に人前で笑ったのはいつか。しかし彼女が笑う様は、『人を幸せにする笑顔』と言われた事がある。
今回もそうだったらしい。
◇◇◇
ほぼ逝きかけました。
結局、あたしは例のお姉さんに揉みくちゃにされました訳でございます。おっぱいで溺れて死にそうになったあたし。今ならイ◯ローの気持ちも分かるってものよ。
散々な目に遭ったものだから、一旦お姉さんから距離を取る。間に弟君を挟む形でだ。
てかあたしじゃなくてもさ、目の前にこんな可愛い弟君が居るだろうに。あたしが理性的な方で無かったら襲ってるね。うん。
弟君も流石にあたしが危ないと見たか、防波堤役を買って出てくれている。色々大きなお姉さんも、小さな弟君の言うことは素直に聞いて大人しくしていた。というか弟に叱られてしょげていた。
その光景は側から見れば、年の離れた弟に叱られた姉がしょげているというもので、実に奇妙なものだった。
「弟君、クールだよねえ」
「?」
焚き火を前にして隣に座る少年の頭を撫でてみる。髪の毛は人並みだが、犬耳の毛は細く柔らかい。いつまでも撫でまわしていたい気持ちだったが、そこは自制心を利かせて手を離す。しかし行動こそ抑えたものの、その表情が控え目に言ってだらしなかったのは仕方ないと思う。
当の少年からの返答は苦笑いだった。
◇◇◇
ところで、四人洞窟の中で焚き火である。一応、魔法で作られた壁を煙はすり抜けて出て行くようだが、澄としては一酸化炭素中毒的なものが怖かった。
「そこで空魔法!持ってて良かった魔法の力」
「「「?」」」
三人が突然どうしたと視線を向けるが、当の本人は気にしなかった。
澄は早速どんな魔法にするか考える。焚き火から出る体に悪そうなものをあまり吸い込まないように換気がしたい。洞窟の入り口の下から吸い込み、上から吐き出す。そういう風の動きをイメージ。
風を作り出す体表の面積からなるリソースを小さくし過ぎると、体が痛みを訴える。流石に学習したものだから、今回は左腕全部でそよ風を起こす。
風の動きと強さは決まった。最後に……。
「その名も【喫煙者と過ごせる優しい世界】だよ」
これである。
魔法の名前はその効果に一切の影響を与えない。洞窟の下方から吹き込み、風は焚き火の煙を浚って入り口を抜けて行く。
左腕は日光に当てた程度の熱も感じない。澄はスムーズに天井を流れる煤煙を見て目を細める。
だが、そこでもう一つ思い至った。
「これ、効果持続しないのかしら」
澄が使える魔法は今の所、『吹けと言えば風が吹く』である。であるならば、『吹いておけ』ならば『吹き続ける』のだろうか。
澄は【喫煙者と過ごせる優しい世界】を取り消す。そして……。
(朝まで吹いといて)
である。
結論から言うと、風は吹き続けた。そっぽを向いても、夕食を食べても、硬い何かの干し肉に苦戦しても、犬耳美女に襲われかけても、犬耳少年に叱られる犬耳美女をなんとも言えない気持ちで眺めても、犬耳少年の頭を撫で回しても、眠っても、風は夜が明けるまで吹き続けた。
そして魔法の名前は「喫煙者と過ごす夜」になった。二度目になるが、名前はその効果に一切の影響を与えない。……ないのだ。
「ん……まだ暗い……」
あまりの早寝は現代日本人であった澄を暗い内から目覚めさせた。他の三人は未だ寝ていた。
炎が引いた焚き火の跡はまだ紅い光を放ち、そこからは白い煙の帯が線香のように立ち昇っていた。
そこで流れる煙を見、昨夜の魔法がまだ効いていることを確認した。
「風の強さに向きに時間まで……なんでもありなのね」
(そう、なんでも……なんでも……)
澄は線香の様に立ち昇る細い煙を見つめる。
「止まって」
場を支配する静寂を切り、澄の声が響く。
そして、立ち昇る煙は動きを止めた。美しく流線を描いた帯はその場から微動だにせず、その間を新たに発生した煙がすり抜ける様に立ち昇る。
澄は右手を伸ばす。完全に動きを止めたそれは、手に触れても微動だにしない。動かぬと見た澄が腕に力を入れても、煙の時が動き出す事は無かった。
そのまま下から上へ動かぬ煙を眺めた澄は手を離す。その時、ちくりと右人差し指に痛みが走った。
煙が描く鋭利な曲線が当たり、澄の手を傷付けていた。指先の傷口から血の珠が浮き出る。
空魔法とは単に風を操る魔法などではない。遅まきながらその事実に気づいた澄の表情は何を示すのか。
喜びか、好奇心か、驚きか、納得か、恐怖かーー或いはその全てか。