エルフの老人
私の名はヴィンデルト。しがない村の長をしている老いぼれのエルフだ。
今日もまた村に同じ風が吹き、水は澄み渡り、小さな生命も滞りなく営みを進める。
村の空気や人の気も淀みない。この目に映るものは、そのものの在るべき姿であるだろうか。見定め、見守らねばなるまい。この村の長として。
さりとて、長と言っても何の事はない。村の者は皆が勤労にして堅実にして、心に余裕のある者ばかり。まとめ役たる私など居なくても村は勝手に回る事であろう。
しかし、長としては何程も働いていなくとも、やらねばならない事はある。
大陸の只中にあって緑の高台と呼ばれるこの地は、あらゆる点で特異な性質を持っている。
一つに、その地形だ。山数個分はあろうという広さの土地が、300メートルはあろう断崖絶壁の上に聳え立っている。だと言うのに、断崖絶壁の上はほぼ平面。その奇妙な地形より、巨人の寝台であったとか神の腰掛けであった等という御伽噺がある。
もう一つに、この地では決まった風しか吹かないのだ。無論、自分で扇を仰げば一時的に風は起こるだろうが、この地では常に同じ強さ、同じ向きの風しか自然には吹かない。
然程遠からず海もあるのだが、そこから吹く風もまた、この地に入った途端に忽ちその運命を変えてしまう。
何故そのような事が起こるのか。それはこの緑の高台を住処としており、尚且つ最強の魔獣と目される【空龍】によるものだと言われている。もしそうだとして、この広大な地の気候を定めてしまう程の存在がどれほどの力を秘めているというのか。少なくとも人類が敵う相手ではあるまい。
この地は兎角、鳥や虫といったもの以外ーー取り分け動植物の進化が断崖絶壁により隔離されている。
よって動物達はその多くが巨大にして好戦的。そう、その地における人の生存競争を脅かす程に。
そこで、長としては何程も働いては居ない私が専ら管理する結界塔だ。
一般に結界魔法とは、せいぜいが一時的な護身ができる程度の障壁を作り出す魔法だが、この結界塔を使えばより強力な、或いは多彩な効果の結界を扱う事ができる。
村の外周に展開した結界により物理的遮断、視覚的隠蔽、探知が可能となる。森に棲まう猛獣には十分な効果があるのだ。
人類にとり過酷な地にあって、結界塔は生活に欠かせない存在であろう。
それこそ、この地に辿り着いたばかりの頃には苦労をしたものだ。結界塔を始めとする生活基盤は一から作成をせねばならず、他の者の力は当然この高台に及ばない。彼らの生活圏は遥か断崖絶壁の下だ。我等の運命など、明日とも一刻先とも知れなかった。
だがそれでも、我等はここで生きねばならない。これまでも、これからもだ。
我等は今、人として在るべき姿をしているだろうか。世界は今、在るべき姿をしているだろうか。
一度は世の理に背いた我等が、この地から見守らねばなるまい。
この贖罪の地から。
◇◇◇
目を疑った。
村の者で親代わりとなって育て、やがて村の中で自立した生活を送るようになった獣人の兄妹。
彼らが里の外……森で一人の少女を拾ったという。この森に我等以外の人が居たことも、その時の状況も併せて聞いた私は奇妙に思った。
だが何より驚いたのは、回復したからと兄妹が連れて来た子供のその姿。
妹のルヨの元気な声を聞き、塔の私室に招き入れた私はその姿を認める。
黒い髪。
兄妹と同じーーいや、よくよく見れば僅かに違う。
可愛いらしくもあるが起伏の少ない顔立ち。肌の色も我々よりも僅かに濃い。そして鋭い一重瞼の下からこちらを見据える瞳もまた、髪と同じ黒い光を湛えていた。
普通なのは人族の耳くらいのものだ。
一体、この少女は何者か。
たった一人、それも鬼熊を仕留めた後にその場で倒れていたと考えられる状況で見つかったこの娘。普通では考えられない不自然な容姿。
「君は何者か。何処から来た?」
確認せねばなるまい。私は彼女に問いかけるが……。
「……???……ドウシヨ……ナンカキカレテルヨ……」
何やら未知の言語を口にしながら視線を泳がせ始めた。
こちらの言葉が通じない……いや、そういう事か。
どうやら彼女は我々にとり、この世界の未知の領域から来た者らしい。世界は広く、自然は甘くない。人類はまだこの地上全てを見た訳ではないのだ。
ともあれ、そういう事なら話は重くない。こちらの話であるが。
「おじいさん」
おもむろに兄のライが口を開く。生憎と人の心を読み取るのは得意ではないが、その目からは何がしかの意思が感じられた。
「この娘に言葉を覚えさせるために街に行かせたい。その時に、僕とルヨも一緒に街に行きたいんだ」
「……ふむ」
これは少々面倒な事になったか。