人ならざる者
その日もまた快晴だった。
昨日と変わらぬ夏空の下、宙に浮かせた鉄傘で作った日陰の下で眠る。
ハンモックの両端は空中で途切れていたが、危なげなく少女一人の体を支えていた。
広い浜の砂が風に吹かれる音と、遠浅の浜に波が押し寄せる音の中、ざしざしと砂を踏みしめる音が混じる。
足音がそこに近づくと、その場に不似合いな電子音が鳴った。
耳障りな音に目を覚ます。
ハンモックの中でぐっと伸びをしてから海を眺める。それから電子音の用件を思い出して口を開いた。
「やりますか?」
いつにも増して力の入っていない気怠げな声だ。音の低さすら感じる。
「儂はやらんでも良いがな。それで済む方法をお前も知っておろう」
言葉に、少女は慣れないハンモックから起き上がろうとしては砂の上にぺしゃと転がる。
長い髪や服についた砂を払いながら立ち上がりつつ、苦笑いを貼り付ける。
「そいえばあたしが言い出したんでしたね。やりましょう。じゃないと納得はしないまでも、先に進めないみたいですから」
ミノーの言にベンソンはやや肩を竦める。
「お前という奴は実に優しく、正直で、真面目で頑固者だ」
「ちょっと意味が分かりませんね」
「餓鬼が思い上がるなと言っておるのだ」
ベンソンはいつになく剣呑な目付きで、双剣を抜く。
「餓鬼にも分かるように言って貰えると助かります」
ミノーは鋭い目付きでベンソンを睨み、手帳の背を解いた。
ミノーが先に仕掛ける。
背が解かれた手帳だった紙の束から数枚が飛び出し、ガラス玉へと形を変える。
複数個のガラス玉はそのままベンソンに向けて飛翔し、炸裂した。
ベンソンは双剣の力で一気に跳び退き、一瞬で爆発から逃れる。
ミノーは手に持った鉄傘を通じて砂鉄を集め始めた。
魔剣で出来る事は空魔法と同じ。純金属ならなんでも出来てしまう。
瞬く間に大量の砂鉄が集まり、爆炎の向こうのベンソンを追う。
しかし、追った先にベンソンは居なかった。
爆圧から逃れたらすぐさま折り返し、爆炎の中を砂鉄とすれ違い、ミノーに向かって来たのだ。
「このっ!」
咄嗟に砂鉄を盾に換えるが、遅かった。
少ない砂鉄で作った盾は簡単に切り裂かれ、反射的に前に出した鉄傘でなんとかもう片方の剣を受け止める。
あまりの衝撃に手が痺れる。
次の瞬間、手から鉄傘が離れた。
しかし、おかしい。痺れたにしたって、手放さないようしっかりと持って居たはずだった。
「えっ」
瞬きの後に目に入ったのは折れ曲がった鉄傘と、深く切られた自らの手首だった。
更に理解が追い付くよりも早く、ミノーを衝撃が襲う。決して重くない体はそのまま数メートル吹き飛ばされる。
ベンソンの蹴りを腹に受けたのだ。
「ぁ……!、ッ……」
声にならない呻きを上げ、ミノーは砂浜に転がった。
右手は動かない。切り裂かれた手首は熱を帯び、どくどくと砂浜に血が染み入る。
「お前如きが、儂に勝てると思ったか?」
一方でベンソンは、全くの無傷でミノーを見下ろす。
これが、ベンソンの実力なのだ。
ユクテスでの鋼獣戦は確かに、ベンソンを含む精鋭部隊では手に負えず、結局はミノーが一撃で倒した。
しかし、だからと言って二人を戦わせたらミノーが圧勝してしまうかと言えばそうではない。
一つに、ミノーが鋼獣を一撃で倒す事が出来たのはベンソンの時間稼ぎがあっての事だ。一撃で鋼獣を破壊するだけのエネルギーを生み出すには相応の時間がかかるのだ。
そして更に一つに、ベンソンは鋼獣とはこれ以上ない程に相性が悪かったのだ。
全身が金属で構成された獣。鋼獣の防御力はあまりに高かった。ベンソンは自分の戦いが全く出来なかったと言って良い。
ベンソンが最も得意とする戦いとは、今しがたミノーを相手にやって見せた通り。爆発的な瞬発力と正確な剣術を活かした戦い。
瞬殺こそがベンソンの真骨頂なのだ。
ガチィ!ガチン!
金属音がした方に目を向けると、折れ曲がった筈の鉄傘がぴしりと真っ直ぐ元通りの姿をとっていた。
ミノーの方に目を戻すと、未だ息を荒げながらも動き出していた。
「ケホッ……勝てるかどうか、関係、ありません……」
痛みから目に涙を溜めながらミノーは起き上がり、魔法で鉄傘を手繰り寄せる。
「勝つだけ、です」
「もうよせ」
「なら降参してくださいね」
しかし降参などしないのは分かっている。
左手で鉄傘を突いて立ち上がり、再び砂鉄を集め始めた。
砂鉄の腕が幾数と伸び、ベンソンの進路を妨害し、動きを捉えようとする。
しかし、その全てが躱され、断ち切られる。
どころかその砂鉄を潜り抜け、一瞬で距離を詰めて来る。
「これは」
ベンソンの体がミノーの目前で急に減速する。
大気を水質化させ、動きを封じたのだ。
そのベンソンに後ろから砂鉄の腕が迫る。
しかしその時、魔法が剥げる感覚がした。
「空を操るのはお前だけではない」
いとも簡単に躱される。
水中に等しい抵抗の中で回避されるという予想外の事態に対応する前に双剣が迫る。
「うっ!」
ミノーの側頭部を双剣の腹で殴る。
衝撃に一瞬訳がわからなくなる。
その一瞬で、ミノーは砂地に組み伏せられた。左手を捻り上げられ、鉄傘も手放してしまう。
「くっ」
大粒の涙を零しながら、ベンソンを睨み上げる。
二人の周囲にガラス玉が落ちる。
「!」
ベンソンは一瞬でミノーから離れた。
が、ガラス玉は炸裂する事なく、そのまま空中に霧散する。
「フェイクか」
ミノーは答えず、魔法で体を支えて無理矢理立ち上がる。
「もう、分かったろう」
依頼を受けるに、誰が相応しいか。
ミノーはベンソンに手加減をしながら戦っていた。
ミノーは確かに強いかもしれない。しかしミノーは危険な依頼にも関わらず、敵を殺す気は無い。
だからこそ、殺しも厭わぬベンソンと不殺を突き通すつもりのミノーがこうして戦っているのだ。
尤も、いくらミノーが不死身とて、殺してしまうのは憚られるのでベンソンも手加減はしているのだが。
それを加味しても、対人戦も手加減の上手さもベンソンに軍配が上がる。
「お前はまだ弱い。にも関わらず、多くを望み過ぎておる。
それは徒らに自分を苦しめるだけだ」
「それは……あなたたちの話です」
ミノーは指で頬の涙を掬い上げる。
指に付いた雫を眺めながら続ける。
「こんなの、ただの名残です。痛みなんて……寝て起きれば明日には治ってる傷の痛みなんて意味はありません」
「ミノー、それは……」
「あなたが気にする事じゃ無いですよ」
「馬鹿者が、そんな訳があるか!」
ベンソンは早足にミノーに詰め寄る。
「ミノー、お前が魔人だろうがなんだろうが構わん。所詮は幾許か変わった只の人だろう。だが痛みと心を忘れてみろ、それは化け物と何も変わらん!」
「マスター……」
ベンソンは双剣を鞘に収め、両の手でミノーの肩を掴む。
「ミノー、お前は何故そうして居られる」
この娘は矛盾の中に生きて居る。
「何故自らをもっと気にかけてやれん。何故……人の心を理解しようとはせんのだ」
その心の中に自分は無いのに、その意思には自分しか居ないのだ。
ベンソンの問いかけに、ミノーは小さく笑みを浮かべた。
「マスター、あなたは本当に立派なお父さんですよ。きちんとあたしを気にかけて、優しさのあまり叱ってくれて」
やがてミノーは俯き、声に震えが混じる。
「前居た所でも、そうでした。自慢の父と母と弟もあなたみたいに、多分、色々な形で愛情ってやつをあたしに注いでくれました」
「ミノー……」
「だからあたしは……」
「あなたが嫌いです」
俯き、涙を浮かべた顔。そこに表情は無かった。
「ぐっ!」
瞬間、ベンソンは弾き飛ばされた。
突然の事だったが、なんとか受け身をとって着地する。
「どいつもこいつもこの身に余る、クソみたいな幸せって奴だよ本当に」
ミノーは鉄傘を拾い上げる。
「別に、人と生きたいだなんて思ってない。
あたしは、やりたいようにやるだけなのにさ」
「ミノー、お前はそれで良いのか」
「どうやら良くないらしいです」
その時、鉄傘はその姿を変えた。
何度折れ曲がってもぴしりとその姿を正してきた鉄傘は、銀色のまま液体のような不定形をとり、宙を漂った。
「やりたいようにやるには、今のままじゃあ」
「違う、違うぞミノー!」
「だからこの際」
そしてミノーは鉄傘だったものを手に取り、胸元に押し込んだ。
瞬間、ミノーは何処からともなく現れた白い煙に包まれる。
その姿が見えなくなり、しばらくして煙は晴れた。
「お前は……」
煙から現れたのは長身の女。
目に付く長い銀髪はギラギラと光を反射する。艶と言うよりは、光沢と表現した方が良い。
しかしベンソンの目には明らかだった。
体格も、髪の色も変わってしまったが、起伏の少ない顔立ちに鋭い一重瞼。
「この際、化け物でも良いです」
それはミノー。その人だった。




