自分を捨てる事
(おはようございます。
非常にお腹が空きました。喉も乾きました。後頭部もクッソ痛いです。おしっこしたいです。その辺はその辺でしてきましょう。
さて、思い出した。昨日突然ここに飛ばされ、歩いて来てここにいる。んで、魔法(?)が使えた。超痛かった。なんか拾った。今ここ)
澄は目覚めるなり状況を思い出し、立ち上がる。
ローブの上から、ポケットに入った木札を触ってみる。ここに来てから初めての、明らかな人工物だ。そう、自分は今飢え死にしつつある。少しくらいの空腹や孤独など何ほどの事も無い。慣れているから。
だが、この状況は拙い。簡単に言えば森で一人遭難だ。サバイバル術、そんなものは無い。
「早く森抜けなきゃ」
一人でも寂しくは無い。空腹もそこまで気にはしない。それでも、眼前に迫りつつある死は怖い。敢えて言うなら心細い。歩いて来た方に背を向け、澄は歩き始める。
歩くこと数十分。三食水抜きの身である。頭も冴えなければ体も重い。ローブは着ているが、何故だか寒い。本人が思う下着を着けてないからだとか、そんな問題では無かった。
しかし、早くも限界が近い澄の耳に、聞きなれた、懐かしいと言ってもいい音が入る。
(この音、川かしら?)
生まれ育った家はすぐそこに用水路が流れていた。田舎の用水路は比較的綺麗な水が流れており、幼い頃は魚を捕って遊んだりしたものだ。流石に泳ごうとは思わなかったが。雨が降れば雫がぶつかる音と共に勢いを増す水流の音。この音が好きだった。
懐かしい故郷の音故か、命を繋ぐ水への期待か、口に小さな笑みを浮かべながら歩を早める。
「ほほお〜」
水音に惹かれて歩く事数分。そこは地峡だった。
高さは二十メートル程だろうか。切り立った崖が向かい合い、その間を水が左手に向かい流れている。
木々に囲まれた地峡の絶景に思わず見惚れる。日本ではそうそう見ない絶景である。大抵の人は感銘を受けるだろう。だがここに居るのはしばらく無感動な生活を送ってきた人間ーー本人はまだ惚けている。
(先を急ぐんだった!)
冷静になった。
さて、川に人が作るもの。それは橋だ。橋があれば道がある。道を辿れば人が居るところに至る。そしてこの地峡に沿っていけば恐らく橋がある。
ならば善は急げというもの。さもなくば野垂れ死にだ。
「さて、ここは左手の法則とやらに従って「グルル」うぃいっ!?」
下流に向けて進もうと考えたその刹那、背後から聞こえた唸り声。
条件反射的に背筋が伸び、鳥肌が立ち、冷や汗が出、裏返った声が出る。
いや、こうなるかもしれないとは薄々思ってはいた。日本にも居る。故郷だと猿に引っ掻かれて怪我をしただとか、猪に突進されて大怪我だとか、熊に吹っ飛ばされて死んだとか。更になんと言ってもここは仮称異世界ーーその大自然の中だ。
意を決して振り返る。視界に入った草の緑の中に大きな黒。その中の鋭い二つの赤がこちらを睨む。
熊だ。とてつもなく大きい。
澄がその昔動物園で見た月の輪熊と同様に真っ黒な毛皮。だがその体躯はグリズリーやら白熊やら。見た事がある熊より明らかに大きい。
澄の知る熊ではない。ここはひとつ……。
「Don'tこーい!」
いのちだいじに!という戦法をとる他無かった。
さりとて、 眼前には大熊。背には断崖絶壁。文字通り背水の陣。絶体絶命といって差し支えない。
(まだ死ぬには若い。勿体ない)
言い訳じみた理由から、生きる道を探す。
まずは熊に遭遇したら目を逸らすな。何故そうするのかは知らない。だが中学校の先生が言っていた事だ。
鋭い一重まぶたの下から、赤い眼を睨みつけてみた。
(……こ、怖い、けど、目を離したら死ぬかも。目を離したら死ぬのにどうやって逃げろっていうの?もう!先生のお馬鹿!その後どうすれば良いのかも教えてよ!)
なんとか逃走できないかと澄は頭を捻る。
(逃げる、飛び込む?後ろの川に?)
だが知っている。熊は泳ぎが得意だ。飛び込んだが最期、シャケにされるとミノーは考えを捨てる。だいたいが、熊を抜きにして考えても飛び込んだが最期、這い上がっては来れないかもしれない。
(走る?……無理だなあ)
かと言って、熊は足も速い。相手が陸上オリンピアンの方がまだ勝ち目があるというものだ。
考えがまとまらないまま、永遠にも感じられる一秒が過ぎて行く。澄はこの睨み合いの中でどれほどの時が過ぎたのか感知できない程に緊張していた。
思考の内容に緊張感など感じられないが、正常な答えが弾き出せない程に混乱していた。
その刹那、澄自身もそれに気付く。
(ーー邪魔だなあ)
瞬間、澄の全身から表情が抜け落ちた。
焦りと恐怖と強がりを孕んだ表情筋は無表情な整体に。
震えた脚はただそこに立つだけ。
手や背中の汗腺は過剰な活動を辞めた。
相対する物と合わせた目はどこまでも黒い。
完全に無意味な人間が、そこに立った。
◇◇◇
異変は相手にも伝わった。
獣は森の強者として生きてきた。別に獲物が食えようが食えまいがどうでも良い。ただそこにある生命で戯れる。傍若無人が許される力の持ち主として。
目の前に居るのは自分の玩具だった物。だが解らない。玩具でなければコレは何なのだ。獣の思考の外側から本能が警鐘を鳴らす。未知の敵を殺せと。
だが、巨大な獣が地面を踏み締めると同時、それは自らをその背の崖に投げ出す。
澄は答えを手に入れた。今の自分にはこれがある。痛みと引き換えに風を操る力が。
記憶の端……テレビで見たことがあった。スカイダイビングの練習の一環として、下から人工的に人体を浮かせる程の風を作る。
(風の速さは200km/h位とか言ったっけ。それならあっちに向けて……)
「これくらい……ッ」
背と布が突風を掴み、運動エネルギーはその向きを変える。
「えっ、ーーーーーー!!」
声にならない悲鳴を上げる澄の誤算。それは風が強過ぎた事。そもそも200km/hなどという速度がどの程度かよく分かっていない事が一つ。澄が纏うローブは明らかにスカイダイビング用の装備よりも空気抵抗が大きい事が一つ。
突風を吹き上げ自らの身を対岸に渡そうとした澄であったが、その身は対岸の木々よりも高く舞い上がり、バランスを崩して錐揉みしながらーー
バササバキパキッ
対岸の木々に突っ込んだ。
脳が揺れ、クラクラと目が回る。
錐揉みしながら木々に突入した澄の意識は、衝撃から数拍の後に再起動した。
状況を見渡すと、どうやら太い枝に引っかかった状態らしい。次第に頭が覚めてきたのか、体の各部が痛みを訴え始める。
澄は視線を虚空の一点に向け、全身から力を抜いた。
ただでさえ空腹に疲労に心労が蓄積していた。気にしなければ気にならないと、自らをひた誤魔化し歩を進めて来た。
そして今しがた、明確な生命の危機。野生動物に襲われかけた。
心を強く保つ力も、柔軟に受け流す余裕も、既に無くなった。
枝に引っかかったその姿勢のまま、涙を流した。だがその心根は、怒りだった。
(クソッなんだってあたしがこんな目に!クソックソックソッ!許せない、なんかもういろいろ許せない!)
おおよそ理不尽というものを知らない、幼げな怒りだった。
しかし瞬間、澄を引っかかっていた樹木を大きな衝撃が襲い、そしてその幹が軋み折れる音と共に傾き倒れた。
「ッい"っ……あ"っ……けほ……」
腹部に落下の衝撃を受け、呼吸が困難になる。木の枝に抱かれたままの澄は、そのまま倒れ込んだ木に組み伏せられていた。
「なんで木が……」
なんとか動いた首から上を上げる。そして澄の目に映ったのは黒く巨大なシルエットと、その中で不気味に輝く一対の目。対岸で見たものと同じものだった。
対岸で遭遇したものと違う個体か、はたまた同じ個体が10m程もの幅の地峡を飛び越えて来たのか。ここに再び巨大な熊が佇んでいた。
だが事これ自体、澄にして見ればどちらでも良かった。問題は再び訪れた命の危機。それも今度は枝に組み伏せられ、首から下は身動きが取れない。
一拍を重ねる度、頭が自らの置かれた状況を一つ一つ理解する。それにつれ頭が冷え、目元には新たな理由で涙が促される。それは恐怖からだった。
そして件の獣が一歩をこちらに向け始めた。
だが、涙を溜めた顔に表情は無かった。
「ぶっ殺す」
澄は魔法を思い描き、放つ。
抵抗なく切断された樹木は滑らかな断面を晒し、地に落ちる。ローブの袖もかなり裂けたがどうでも良かった。
バラバラになった枝を抜け出し、立ち上がり、敵を視界の中心に捉える。
なんだか感覚がおかしかったが、魔法の影響であろう。思考の大半が痛みに埋め尽くされているのだ。
よく分からないままに、頭の中が白く染まってきた。
面倒臭いからと残った殺意をぶつけるだけぶつけ、心置きなく眠りに落ちた。