逃れた先で
引き上げた人を特に問題無しと見たか、彼女は掴んでいた手を離した。
「とりあえず、上がったら?」
「あ、ああ、そうだな」
思い切り滝壺に転落したのだ。来ていた服から背負っていた背嚢までずぶ濡れである。いつまでも川に浸かっている事もない。
「じゃ、服脱いで待ってて」
殆ど裸の様な格好の少女に突然そう言われて呆然とする少年。
「……乾かさないといけないでしょ、それ。あたしだってアマゾネスじゃないんだからさ……」
補足により誤解は解けた。アマゾネスとは何かという疑問は残ったが。
ちなみにこの女がアマゾネスだった場合には少年は後で殺されるのだが、彼には知る由もない。
川の畔、少女は木々の向こうに行ったかと思えば着替えて戻ってきた。随分と早着替えである。そろそろ暑くなる時期なのだが、体が冷えたのだろうか。シンプルだが見かけないデザインの長袖長ズボン姿だった。
着替えのみならず、何やら荷物まで持ってきた様だ。
(あれ?この娘もう髪が乾いてる?)
少年の茶色い短髪は未だ乾いていない。しかし、少女の後ろでまとめられたの銀色の長髪は既に乾いていた。
少年が内心で首を傾げていると、大きなタオルが渡された。
冷えるからと渡されたタオル。暑くなってきても、濡れたままでは辛い。有り難く借り受けた。
「……ん?このタオル、あの娘も使ったんだよな?」
思春期ならしょうがないながらもしょうもなかった。
少年はちらと向こうを見る。件の少女はこちらの方など興味無しとばかりに、大きな岩に腰掛け、ぼんやりした様子で滝を眺めている。
(……)
思えばあの少女はこんな所で、あんな格好で何をしていたのだろう。
そんな事を考えながら、少年はタオルを堪能していた。
粗方水分を拭いた少年は岩に腰掛ける少女に向かった。ぼんやりと滝を眺める彼女に声をかけると、首をあまり動かさずに目でこちらを見やる。
鋭い一重まぶたの下から灰色の瞳だけがジロと動くものだから、少年は睨まれた様な錯覚を一瞬受ける。
「君……ええと、名前は?」
普段人の事を「君」などと呼んだりはしない彼だが、仮にも命の恩人だし……というのは上辺で、緊張してつい変な言葉遣いになったのだ。
問いかけに少女は視線を彷徨わせるが、口を開く。
「…………ミノー、だよ」
少々間が空いたが、彼の気には留まらなかった。
「ミノー、お前が助けてくれたんだよな?」
「うん」
何故か当然の事を聞いてしまう。
「だ、だよな。えと、ありがとな?」
「はい、どういたしまして」
そう言うや否や、少女は岩から降りて少年に歩み寄った。その手には畳まれた毛布を持っていた。
(……あれ、この娘さっき毛布なんて持ってたか?)
「タオル」
「あ、ああ、ありがとう」
咄嗟に手に持っていたタオルを渡す。代わりに少女は手に持った毛布を差し出してきた。
「はい。パンイチでは寒いでしょ」
パンイチって何だと、濡れた服を脱いでトランクス一枚姿の少年はそう思った。
「なあ、ミノーはここで何をしてたんだ?」
毛布に包まった少年はそう切り出す。
「別に何も」
ただ一言、そう返された。
「……いや、なんか無いのか?その、なんかだよ。
こんなとこで一人なんておかしいだろ?」
「それだと君はかなりの不審人物という事になるんだけど……。突然たった一人落ちてきて」
うぐっと少年は言葉に詰まる。いや、そうだが違う。違うのだ。
「俺は依頼で採取に来てたんだ。落ちて来たのは足を滑らせただけだ」
「そう、次から気を付けてね」
「おうよ……っていやそうじゃない。
女一人でこんなとこ、何か用事でも無きゃ来ないだろ?」
少年もつい先程恐ろしい猛獣に襲われかけたばかりだ。そんな場所に少女一人、何をして居たと言うのか。
「別に、用事があった訳じゃ無いよ。偶々ここに居ただけ」
だが返って来た答えは少年の疑問を何ら満たす事は無かった。
「はあ?いやそ「ねえ」」
ミノーは少年の言に言葉を被せる。妙に響いた声に、少年は思わず口をつぐむ。
「服、乾いたんじゃない?」
「……いや、さっき干したばっか……」
「乾いてるよ」
そう言うが早いか、少女は立ち上がった。
「足下、気をつけてね」
そう言い残して、少女は何処へやら去って行った。
服を着た少年はなんとか川に沿って下流から街を目指す。
依頼の報告は常設のもので、緊急ではない。報告は明日にする事にした。
白蛇の事もあったが、実際に姿を見た訳じゃない。森の中、一人錯乱して無いものを幻視するのは冒険者の中では稀に聞く笑い話だ。姿も見てない白蛇に追いかけられたなど言っても笑われるだけ。そう思って少年はこのことを忘れる事にした。
むしろ少年の頭の中では先の出会いが繰り返されていた。
濡れ細った銀髪、桜色の小さな唇、こちらを射抜く様な鋭い視線、柔らかそうな体……思い出すと顔が熱くなった。
なんとか思考を引き剥がすように頭を振り、足を早める。だが、やはり足下が疎かになっていたのだろう。
「ぬわっ」
木の根に躓いて転んでしまう。起き上がる時、右肩にかけていた背嚢から中身が飛び出ていた。
「……あ、毛布」
ミノーから借りていた毛布だ。返さぬ間にミノーは何処へやら去ってしまった。
「……明日もあそこに居ねえかな」
ミノーは確かに偶々そこに居たと言った。だが、あそこに行けばもう一度逢える。そんな気がした。
尤も、そうあって欲しかっただけかもしれないが。
彼女はそこで微睡んでいた。
下から見上げる水面は日の光を曖昧に揺らめかせる。
透明度が高くとも、水。波長の短い光はろ過され、世界は僅かに青色になる。
もう何日かそこに居たのかもしれない。
礫の水底は決して良い寝心地では無いだろうが、水中ではそこまで気にならない。
流れる水の中は心地良いのだ。
目に入る世界は曖昧にぼやける。しかし水面が作り出す光の波は一定不変に変化を繰り返す。退屈に見えて、結構楽しんでいた。
滝が流れ込む音も、なぜだか落ち着く音だった。故郷の音と同じだからかもしれない。
冷たい水は体を冷やす。ずっと前から喉の下が熱かった。体が冷水の温度に馴染んでも、喉の下の熱は消えなかった。だがそれも、大分落ち着いてきたらしい。
もう、上がっても大丈夫かもしれない。
でももうしばらくここに居ようと、ミノーは目を閉じる。せっかく人より長くここに居られるのだからと。
しかし滝の音に聞き入って居た彼女の耳に、徐に異なる水の音が響いた。
気になって空魔法で気泡を捕まえ、集めた空気の塊を水眼鏡にして辺りを見やる。
人が居た。運悪く滝壺に落ちてきたのだろうか。水流に揉まれてもがいているようだ。
なんだか目も覚めてしまったので、助けてやる事にした。
一先ず、自分と同じように空気の塊を口と鼻に持っていってやる。これで溺死は回避。
それだけで十分といえば十分なのだが、せっかく助けてやるのだからとことん助けてやる。
ミノーは元々泳ぎは得意だった。と言っても競技の類で通用するものでは無い。泳げる一般人だった。だが、今はその限りではない。
自らの体を気泡で覆い、滑るように水中を進む。見る人が見たら魚雷と見紛う光景だ。
そして落ちてきた少年の手を掴み、浅瀬に向けて引っ張った。
そしてあっという間に浅瀬にたどり着く。
ミノーは数日ぶりに地上に出た。
青みがかった景色に慣れた目に、水の外はやや赤みがかって見えた。
引っ張ってきた手から力が伝わる。どうやら助けた彼も気が付いたらしい。
「え……あ……」
まとわりつく髪を退けながら見やると一五歳くらいの茶髪の少年だ。
じっと観察してみると、彼は最初は驚いたようにつつも、明らかに自分の胸を見ていた。
「何見てんの」
はっとした様子で少年は視線を上に向ける。
(いつぞやみたいにスルーされるのもアレだけど、こうもあからさまだとあんまり気分も良いものじゃないね)
そもそも水辺に水着で居るのがそんなにおかしいかと思うミノーだったが、一つの可能性に至る。
先ず以って、この世界に水着文化はあるのだろうかと。
日本にいた頃には普通に着れたビキニだが、この国では……。ミノーは短パンを下着と間違われた時の事を思い出していた。
あの線で行くと自分は思春期の獣の前にとんでもない格好で居るなと、今更ながらに思ったのだった。
どうていにはしげきがつよすぎた!




