ジア・ニーラス
大国、フォーネン公国の中南部。海に程近いながら、四方を山で囲まれた場所に巨大な湖がある。
四方の山から湧き出る幾多の清流は全てが湖に流れ込む。しかし、その湖から出て行く水流は無い。
いずれは湖が溢れかえってしまうのでは無いかと言う人も中には居るが、その水位は周期的に満ち引きを繰り返すばかりで、人々の生活圏にまで至った事はほぼ無い。
溢れかえってしまうのではと思っていた人もそこで気がつく。
『ああ、海と同じではないか』
この世に海が溢れる心配をする者など居ない。
ここはジア・ニーラス。それがそのまま湖の名前でもある。
ジア・ニーラスの周辺は人類がそれなりに栄えてもいる。
豊富な水源、それだけでもアドバンテージ。水産資源も、独特な立地の中で形成された文化もその理由だ。
清流のほとり、湖畔から湖の島にまで及ぶ都市や村落。
その中には何れも一際目立つ塔が聳えていた。
少年は鬱蒼とする山林の中を一心不乱に駆けていた。
一五歳の彼もまたこの地で生まれ育った人物であり、山を駆けるのは慣れたもの。冒険者という職に就いてからは、より一層磨きがかかったというものだ。
しかし、今そんな事を考える時ではない。
背後の草叢を掻き分け恐怖が迫り来ていたのだ。
彼も心の何処かでは、自分だけは大丈夫だと高を括って居たのかもしれない。
ギルドで白い影を見かけたと聞いた時は、それは白蛇かとギルドではちょっとした騒ぎになっていた。
白蛇は極稀に現れるという巨大な蛇だ。その名の通り全身が真っ白い鱗に覆われているらしい事を彼も知っていた。
らしいというのは、彼がその白蛇を実際に見た事が無いからだ。もし本当に見た事があるならば、人をも簡単に飲み込むというその恐ろしさも知って……いや、分かっていたかもしれない。
そんなデカイ蛇なら、見かけたらすぐに逃げれば良いと思っていた。それがいつの間にか、姿も見とめぬまま付け狙われいるのだ。
激しく草を払い退けて駆ける中、背後から静かに草葉を掻き分ける音が妙に耳に響いていた。
気付けば自分が何処に居るのかを見失っていた。近くに強い水音が聞こえる。後背の不気味な気配は無くなっていた。
肩で息をしながら歩みを緩める。走ったからばかりではない、背中にかいた嫌な汗が背筋を冷やし始めていた。
しかし、そこで気まで緩めてしまったのがいけなかった。
「あ」
一言、間抜けな声を出して彼は真っ逆さまに落ちていった。
鬱蒼とした足元は滝壺との境目を隠していた。
彼は滝壺の中に勢い良く飛沫を上げて落ちた。
陸に落ちなかったのは不幸中の幸いだったが、まだ助かった訳ではない。
呆気に取られた間に落ちた彼を着水の衝撃が襲う。滝壺の中は水流が激しく渦巻き、気泡を含んだ冷水と共にかき混ぜられる。
耳や鼻に水が入り、水流と気泡にもみくちゃにされる。早く上がらなければならない。なのに上も下も分からない彼はパニックに陥っていた。
だが、その違和感に彼は我を取り戻す。
どういう訳か水中で息が出来ていた。
ぼやける視界に激しく回る気泡。そこは紛れもない水中であるにもかかわらずだ。
(なんで息が?いや、それよりも…)
そう思うが早いか、何かが彼の手を掴んだ。掴まれた手は水中を何かに引かれ、彼の体を引き始めた。
何がなんだかよく分からなかったが、彼はされるがままにした。そして礫の水底がぼやける視界に入った。もう足が着くところまで来ている。
彼は腰を折って水中に足を着き、立ち上がった。
「え……あ……」
その姿見とめるや、吃ってしまった。
手を掴んでいたのは同い年くらいの少女だった。
少女は濡れ細った銀色の長髪を上げながらこちらを横目で見ていた。
彼女の格好は、それこそ大事な所しか隠せて居ない様なぴっちりとした布切れしか身に着けて居なかったのだ。
気が付いたら視線が一点に留まっていた。哀しいかな男の性。背丈の割に大きく実ったものに視線は吸い寄せられてしまう。
「何見てんの」
その一言に少年は我に返った。慌てて視線を上に戻す。
可愛いらしくも、起伏の少ない顔立ち。一重まぶたの鋭い灰色の視線は、何処か呆れを含んでいる様だったが、少年にはそれどころではなかった。




