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空の魔法使い  作者: テルヒコ
城塞の陰謀
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逃避

「ぐうう!離せッ!この野郎!」


 ベンソンに取り押さえられた男は肩を外されたというのに元気なもので、泡を食いながら未だ喚いて居る。


「ふむ、そうか」


 そう言ってベンソンは手を離す。


 かと思えば、双剣の片割れで手甲を砕いてしまった。中に収まる男の腕諸共。

 同時に男が聞くに堪えない絶叫を上げる。


 あまりの痛々しさにミノーは胃の辺りがムズムズしたが、次の瞬間には体が軽くなった。

 砕かれた手甲からは黒い霞が消えていた。


「どうだミノー、魔法は消えたか?」


「オッケー、です」


 ミノーはそのまま寝そべりながら答える。体重が元に戻っても起き上がる程の体力は無かった。


「起きれんのか?」


 ベンソンの問いには首肯で答える。喋るのも辛い。


「となれば歩けもせんか……まあ、ご苦労だったな」


 一先ずは、決着したらしい。ミノーがそう安堵した時だった。


 魔法によって何かが阻まれたらしい。背に鋭い痛みが走った。


「あら、やっぱり結界魔法の一種なのかしら?」


 その声は横たわるミノーの背後から聞こえてきた。


「昨日もそうだった。見事にしてやられたわ」


 体を動かせずに居るミノーはその女性の姿を認める事は出来なかった。だが言っている事には心当たりがあった。


 昨日の暗殺者だ。依頼元の少年を殺し、その罪をミノーに着せようとした。


「ミノー!」


 ベンソンが珍しく狼狽えた様子で駆け寄ってきた。


 どうしてそんなに慌てて?そう口にしようとしたその時、ミノーは漸く気が付いた。


 何かおかしい。


 痛みが消えない。空魔法が剥げる痛みは一時的なもので、直ぐに収まるのに。


 息ができない。いくら吸っても吐いても、呼吸になっていない。


 やがて喉の下が不快感を訴える。弱った肺が力一杯に小さな咳を吐いた。


 口の中に鉄の味が広がった。目の前には赤い飛沫が床に散っていた。


 魔法で守っていたはずだったミノーの背には、短剣が突き立っていた。


◇◇◇


 悍ましい感覚だった。


 胸の中はきっと赤く染まっている。吐き出そうにも、弱った肺ではままならない。


 吐き出す事も出来ない割にはどくどくと不快感が胸の中に溢れ出て来る。


 自らの血で肺が溺れる感覚。


 本能が勝手に息を求める。だが呼吸にならない。鼻を摘まれた訳でも口を塞がれた訳でも無いのに陸の上で溺れる。


 肺だけが血の池に居るのだ。


 苦しくて、苦しくて、怖くて怖くて悍ましくて苦しくて涙が溢れた。


 ミノーは気付けば目を強く瞑っていた。


 どうしてそうしたのかは分からない。


 耳にはベンソンの声が響いていた。


 耳も塞いでしまいたかった。


 どうしてそうしたかったのかは分からない。


 多くの感情と本能の警鐘が入り乱れて、判断がつかない。


 そして曲げた。恐怖を捨てる為に。


 やがて目蓋の裏側の闇が白く染まる。


 ようやく苦痛から逃れられる。その事実が表情を少しだけ柔らげた。


 そして彼女は眠りについた。










































 意識が覚醒した時、何かが顔に覆い被さっていた。


 寝起き意識があるのに体が動かない。これを半覚醒状態とかいうらしい事をミノーが知っていたのは、昔からこの金縛りに遭う事がごくたまにあったからだ。


 それはさておき、閉じた口も開けられずに生命線の鼻は布(のようなもの?)が覆い被さって非常に呼吸が困難である。


 ミノーは焦りから脈と呼吸だけが早くなった。


「ぶはっ!はあっ!死ぬわー!」


 ようやく動いた体で寝返って布を外す。この白い布はミノーの全身を覆っていたようだ。


 寝ていた寝台の上で呼吸を整えながら辺りを目で追った。

 知らない風景。そこは何処かの一室。だがミノーには壁模様や調度の意匠から思い当たるものがあった。


「ここはあの……そっか」


 思い出していた。ここはミノーとベンソンが殴り込んだ屋敷。その一室。

 場所だけでは無い。何があったのかも。


「マスターの前で……死んじゃったか」


 ミノーは無表情に独り言ちる。そして……。


「もうここには居られないや」


 そう、決めた。


◇◇◇


 これで三度目だった。


 最初はこの世界にやって来た直後。遥か高空から転落死。


 二度目は昨夜。暗殺者に頸動脈を切られ失血死。


 三度目は先程。溺死とも窒息死とも、いずれにせよ酷い死に方だった。


 尤も、ミノーに言わせれば死因に良いも悪いも無いが。どうあっても恐ろしく怖いものなのだから。

 当然ながら、ミノーは前の世界では死んだ事は無い。だが少なくともこちらでは死ぬ事は無い。死んでいるのかもしれないが、そうだとしても生き返る事になる。


 それは何故か。


 そんなのは不死身の本人が一番知りたい事だった。

 前の世界でも不死身だったのかどうか、今となっては確かめる術は無い。


 だが前の世界ではミノーは空魔法は使えなかった。

 この世界に来る時に、謎の存在から与えられたらしい空魔法。不死性が身に付いたタイミングとして、思い当たる節といえばその時だ。


 しかしそれ以上は分からない。

 兎角、この事実は決して人に知られてはならない。

 公に知られてしまえば、どうなったものか知れたものではない。


 秘密を守れる相手ならだとか、そんな考えがよりによって臆病なミノーにある筈もなかった。

 そしてベンソンの目の前で一度死んでしまった以上、もうこの街に居る訳にはいかない。


 ミノーは部屋から外を見やった。

 この屋敷に乗り込んだのは午前の事だったが、既に日は落ち始めていた。

 朝を待っても良いが、誰かが遺体の回収にでも来るかもしれない。


 ミノーという人間が生きているとバレるのは誰が相手でも良くない。ならばさっさと立ち去るべきだ。


◇◇◇


 ふと視線を落とすと自らの長い黒髪が目に入った。

 黒目で黒髪の人間はこの辺りには他に居ない。しかもミノーは腰程まである長髪だ。


 目立つ事もまた避けたかった。

 そこで魔法を一つ。


 空魔法で髪に吸着し易い粒子を設定する。髪に付ける。後から粒子の吸光度を弄る。

 そしてミノーは自らの髪を持ってよくよく確認した。問題無しと見てその髪を後ろで一つにまとめる。


 元の艶はそのままに、放つ光の色が変わった。元の黒色とは対照的な、銀色が靡いた。

 髪を銀色に変えた所で、眉毛と睫毛も染める。こればかりは確認出来ないが、髪で出来たのだ。大方は問題無いだろう。


 そこでミノーはもう一つ逡巡したが、それはまあ良いだろうと別の魔法に取り掛かる。


「ゴム質で皿形……これもグレーで良いか。大きさは……15ミリ位かな?入らなければ調整しよう」


 そう言って形作られたのはコンタクトレンズ。瞳の部分はグレーに色付けされている。


「さて、これを……」


 それをなんとか目に入れようとするが、なかなか入らない。睫毛に引っかかったり入れる時に瞬きしてしまったりと、結局……。


「後で良いや……」


 時間がもったいなかった。


◇◇◇


 ミノーは窓枠から首を出して周囲を確認した。既に日は落ち、辺りは暗くなり始めていた。道にに通行人は見当たらない。


 ミノーは空魔法で足場を作り、空中に踏み出した。


 通行人が居ないにしても、闇に紛れられる夜なら好都合。


 ミノーは屋敷の屋根を越え、更に上へと登った。


 街の名物である巨大な外壁の高さを越えた所で、沈みかけた太陽から夕焼け色の光が射した。


 街の東側に、一際大きな建物を見た。


 太陽が完全に沈み、今いる場所が夜に覆われるまでその一点を眺め続けた。


◇◇◇


 フォーネン公国の東端にあり、隣国を睨む要衝ブルーニカ。

 ミノーがこの世での殆どを過ごした場所でもある。


 そこから東に進むには国境を越えて行かねばならない。身分を保証できないミノーが行くには厳しい。恐らくはベンソンに回収されたのだろう。首から下げていた冒険者の身分を保証するプレートは無くなっていた。


 ならば行き先は西。

 ミノーは身を翻し、太陽の沈んだ方向へと歩き出す。


 空魔法で作った足場を動かせば、歩まずとも済む。だが歩いた。


 焦りとも悔しさともつかぬ不快感がミノーを支配する。

 人はこれを胸が張り裂けそうだと言うのだが、ミノーには分からなかった。


 やがてその表情は意味を失う。

 いつものように、自分を消すのだ。

 感情を御せなくなった時、それを感じる自分が居なければ何も感じなくて済む。


 だがそれでも、ミノーは歩き続けた。


 喉の下の熱が消えないのだ。

 自分を歪めて収まり、なんとか凪を作り出そうとする。

 だが歪める人間が既に限界だった。

 器を変える事は出来ない。残された手段は平衝だけだった。


 夜空に感情が溢れる。


 ただ一人の熱は世界にしてみれば極々小さな熱でしかない。

 感情が空に溶けた。消えてしまった訳では無い。人の身には感じられない程に霧散しただけだ。

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