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首都の元王宮にリリーが滞在して五日になる。
始めて作ったレースのリボンは、緩く編んだ三つ編みを飾っている。思いの外、余計なことを考えずに黙々と集中していられる編み物は性に合った。身構えたほど難しくもなく、基本をある程度覚えてしまえば規則的に手を動かしているだけでいい。
そして基本を覚えるためにいくつかリボンを編んだ後、毛糸でクッションカバーを作り始めて午前中には完成した。
昼食を終えた後に、リリーは今度は針を持っていた。
「ああ、そっか。こう、よね」
手持ちの古い日常着のドレスに刺繍をしているのだ。繕い物は戦でローブや服を直すのによくしていたが、刺繍は初めてだった。
ほつれた襟元を直して、縁飾りを施すだけで蓬色のドレスの古びた印象が薄れた。
「そう。リリ-、針の扱いも上手だわ」
「こういうの苦手かと思ったけど、やってみればできるものなのね……」
今までやろうとも思わなかったことが、実際にしてみれば手に馴染むことにリリーは驚く。
だけれどやはり両手にかかる剣の重みがないのは、落ち着かないものがある。
戦いたいと本能は戦を求めている。
だけれど我慢できないほどの退屈さは、今はまだなかった。まだ感情が状況に追いつききっていないせいもあるだろう。
数日経っても自分自身のこの状況を他人事のように遠くから俯瞰している感覚は消えない。
(これが、バルドがあたしに望んでることなのかな)
剣を持たずにこうして日常を過ごして生きていくことに、自分は耐え続けられるのだろうか。
「つっ、と」
意識が逸れて、つい指を針でついてしまった。血玉がドレスにつかないように気をつけながら、リリーは血を手巾で拭う。
「大丈夫?」
「大丈夫。軽く差しただけ。それにローブ作るときは血が必要だから、短刀で指先切ってたから慣れてるし」
「最初に会ったとき、ローブを作ってるところ、見たわ。まだ、あれから一年も経っていないのね」
しんみりとつぶやくカルラの表情に投獄生活の影が見えた。
お互い再会するまでに何があったかはほとんど話していない。わざわざ聞くことでもなく、注意を払って話題を避けるほど気を遣っているわけでもなかった。
ただ話題に上らない。それだけのことである。
「いろんな事が起こりすぎて、あっという間に時間が過ぎたって思ってもまだそれぐらいなのよね」
「出てきたら何もかも変わってしまっていて本当に何年も経ってしまったみたいだと思ったわ。……私、ずっと考えてたの。兄様が自決したと聞いて、同じようにするべきか。でも、私はディックハウトに忠誠心があるわけでもなかった。ただ自分のことを認めてくれるものが欲しかっただけだったんだわ。死ぬ理由すらなくてどうしたらいいかわからなかった」
カルラの異母兄もまたディックハウト信奉者で投獄されてすぐに自決した。
「死ぬ理由か。戦で負けたら死ぬんだと思ってたのに、今、こんな状況でどうしたらいいかあたしもわからないわ。でも、カルラは生きてることに決めたんでしょ」
理由なんて考えなくても、人は死ぬときは死ぬのだ。自分の場合は戦で負ければ終わりなのだとはっきりと最期が見えていた。
だけれど今は自分の先行きが見えなくなってしまった。
「あのね、何のために生きるかだとか、死ぬ理由だとか戦がなくなってしまえばそこまで考えなくてもいいんじゃないかしらって私、思ったの。リリーみたいに戦で負けて終わりでいいって思ってる人よりも、本当は死にたくないって思ってる人の方がきっと多いわ。そんな人達は家族や友達、そんな大事な人のためにだとか、自分自身の誇りのためだとか忠義心だとか何か死んでもいいと思える理由が必要なのよ」
「そうね。生きてる理由考えることはあっても、死ぬ理由はよっぽどのことがないと考えなくていいんだわ」
リリーは血が止まったことを確認して再び針を動かし始める。
「だから、私、ただ今まで与えられるものを受け入れて流されるばかりだったし、とにかく自分で生きてみないと駄目なんだって思ったの。死ぬ勇気も覚悟もないだけの言い訳かもしれないけど」
カルラはそう言って、自嘲した。
「そんな覚悟も勇気もなくったていいんじゃない。あたしは、カルラが生きていてくれてよかったわ。仕事探しの邪魔にはなってない?」
カルラは自分の世話係としてほとんど一日中ここにいる。まだ国の状況が掴めないとはいえ、このままではまともに身動きできないのではないだろうか。
「大丈夫よ。昔一緒にお針子をしていた人達に手紙を書く時間は十分あるもの。返事ももらってるのよ。これから、街の人も増えて何かしらの針仕事にはありつけるっていう話だわ。それに、リリーとこうして一緒にいられるのは私も嬉しい。……それで終わりね」
最後の一針を刺し終えると、カルラがリリーの手元を覗き込む。
「こんなものでいい?」
いささか最初の方の縫い目ががたついているが、注意して見なければよく分からない程度ではある。
「着てしまうと、些細なところはぜんぜんわからなくなるわ。リリーなら、すぐに上手くなるわね」
「じゃあ、明日これ着てみるわ。それにしても、結構首と肩凝るわよね、これって」
リリーは固まった肩を回して首も動かす。
剣を扱うのとはまた違う疲労感は、そう嫌なものでもなかった。ひとつ作り終える達成感は、戦って勝つときほどとまではいかないものの心地いい。
少し休憩をとお茶を始めたところで、使用人がクラウスから伝言を持ってくる。
今この元王宮にいる使用人は皇家に仕えた魔力を持たない者達で、そのまま施設内の清掃や政務を行う官吏らに食事を提供したりと以前とさして変わらない雑務を任されているそうだ。
「……今日は、カルラとふたりだけでって伝えて置いて下さい」
クラウスからの伝言は夕食を一緒にしてもいいかということだった。
毎日訪ねてくるつもりなのかと思ったクラウスは、今の所三日だけ夕食か昼食、合わせて三回だけしか来ていない。来る前には事前に連絡もあった。
今日はなんとなしに、クラウスと食事をする気になれなかった。
「律儀な方ね」
カルラが感心するのに、リリーは眉根を寄せる。
「そうなのかしら。自分でくるのが面倒くさいんじゃない? だいたい、ひとりでふらっと来て勝手に居座るのがいつもなのに……」
クラウスに気をつかわれているのが苛々するのは、彼に自分を託したバルドのいらない配慮を見ているようで感情が波立つからだ。
「ここを出た後は、クラウス様のお屋敷に招かれているんでしょう。リリーが居心地よく過ごせるためじゃないかしら」
「まだ、一緒に暮らすって決めたわけじゃないわ。……一緒に暮らすってことは、求婚を受けたことになるのかしら。あ、クラウスにね、前に、求婚されてもう二回か三回は断ってるわ。一回は面倒ごと避けるのに、婚約したってことにもなってたし」
この手のことは相変わらずよく分からないので、リリーはカルラに問いかける。
「……クラウス様がリリーに結婚しない意思があるのがわかってても、周りから見たら結婚も同然とみなされてしまうわね。何も言わずに外堀を埋めてしまうのは、ずるいわね」
カルラがクラウスへの印象が変わったらしく、難しい顔で考え込む。
「それなら爺様の所の方がいいのかしらね」
クラウスと一緒に暮らすのはまだしも、やはり結婚となるとまったくの別問題だった。
「リリーが一番行きたいのは、やっぱり戦場?」
カルラが寂しげに問うてきて、リリーは迷いながらもうなずく。
「戦いたいわ。まだ、戦っていたい」
自分の感情を噛みしめるように、リリーは繰り返す。
戦場に出たい気持ちが消えることはない。以前の自分なら迷わず双剣を手に入れる方法を模索しただろう。いっそ革命軍でもいい。バルドと戦うことも厭わない。
彼と命懸けで剣を交えることができれば最上の戦となるだろう。
だけれど、きっとそれは叶わない。
バルドが自分に生きて欲しいと思っている以上、少なくとも彼はどこかで手を緩める。以前もそうだったのだ。今度はその時よりもバルドの意志がはっきりしすぎている。
「……でも、今は剣もローブも持てないし、クラウスも持たせてくれないわね」
紅茶を飲み干して、リリーは長椅子に深くもたれかかる。
「そうね、大事な人には傷ついてほしくないし、死んでほしくないもの。私も、そうよ。せっかく仲良くなれたんだから。……そう言ってもリリーは行く時は行ってしまうわね。自分で選んでしまう」
カルラと以前の別れ際の時に話したのと似たことを話すカルラに、リリーはフリーダを思い返す。
彼女もまた、似たことを言った。
今の自分は何も選べていない。バルドに置き去りにされて途方にくれているだけだ。
「ねえ、もっと時間がかかる大きいもの編みたいわ」
リリーはもう少し時間が欲しいと、カルラに訪ねる。
「それなら大判のショールなんてどうかしら」
表情を陰らせていたカルラが、ほっとした顔で微笑んでそう答えた。。
***
それからさらに、五日が過ぎ。首都に来てもう十日目になった。
夜中にリリーはカルラと始めたショール造りをひとりで進めていたが、すぐに手を止めた。一昨日に月の障りがあり、初めて経験するほど重たく二日は横になっていたので、ほとんど進んでいなかった。
しかし、確実に月日は過ぎていく。あと二日で首都内での外出は許され、そして五日ほどで王宮を出ることになっている。
まだ結論は選べていなかった。
まだ首都の外で居住する許可はまだ出ないので、もし祖父の所に行くのなら少しだけ王宮での滞在は引き延ばしてもらえるらしい。
バルドはもう北に落ち延びたのだろうか。
そう考えると、突然首根っこを掴まれて感情の嵐に呑み込まれる。
真夜中にひとりでいると時々そうなる。全身を叩きつける激情に、為す術もなく打たれるままになって気がついたら朝になる。
その間の記憶がすっぽりとない。眠っていたのか、起きていたのかすら分からない。
窓辺から朝陽が差し込んでいて、頬がほんの少し濡れている。
泣いては、いたのだろう。
自分が何を思い、何を求めていたのか思い出したいのに何も思い出せない。
リリーはふらつく足取りで起き上がって、帳を開けて光を部屋全体に入れる。わずかに窓を開けてみるとすきま風があまりにも冷たく、すぐに閉めた。
今日も一日寒そうだと、リリーは白い吐息を零した。




