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ベーケ伯爵家の騒動によっての行軍の遅れはなく、エレンは生家のベレント男爵家へと予定通り立ち寄ることになった。
父は男爵家に仕えている全ての魔道士に、すでに進退をきめさせていた。三分の一はすでに皇家軍へと向かい、叔父を含めた残る兵の大多数は革命軍に加わることになった。
そうして、父を含めた少数は何もしないことを選んだ。
何もせずにただ流れに身を任せるままの父らに眉を顰める者は多かった。それもひとつの選択だろう。
主君に刃を向けるつもりはなく、かといって自ら滅びを望む主に追随することもできない。
ならば流れに身を任せる他にないではない。
「……本当に、こんなに早く皇都に戻るとはな」
ベーケ伯爵家での騒動の後も動揺も何も見せていないクラウスが、晴れた空の向こうに小さく見える王宮にそうつぶやいた。
今日は空気が澄んでいるので小高い丘の頂上にある王宮がよく見えるが、到着までまだ二、三日はかかるはずだ。
「……ええ、そうですね」
二度と戻ることはないと終ヵ月前に背にした王宮を見上げて、エレンは素直にうなずく。
クラウスからの言伝を預かって宰相家を訪ねた後、皇都に行くのはこれが最後だと思っていた。
しかしこんなにも早くに戻ってくることになるとは、まったく考えていなかった。
革命軍の魔道士達も皇都に近づくにつれて、これから大きく国が変わる前触れに期待と高揚を隠し切れずにいる。
(だけれどあそこに、皇主はいない)
バルド率いる皇家軍はマリウスの救援に向かったという報告が届いていた。今王宮にいるのは前の皇主のみである。
それでも千年の間皇主が君臨し続けた皇都を、皇家の支配から解放するということには大きな意味がある。
(もし、まだ生きていられたらあなたはどうしたのでしょう)
王宮にラインハルトがいたならもっと革命軍は苦戦することになっていたかもしれない。
そんな意味のないことをつい考えてしまう。あの場所で主君の側で終焉を迎える皇国を見ていたかったのは、やはり後を追いたかったとまだ思っているのかもしれない。
(それでも、あなたは私に生きろと仰るのでしょうか)
しかし、状況が変わったところで結局は同じ事をラインハルトは命じる気がした。
エレンはそっとため息をついて再び王宮を見上げる。
王宮を破壊するまでにはいたらないだろうと言われているがどうなるかはわからない。
しかしこの景色はいつもでも残って欲しいと思わずにはいられなかった。
離れたこの場所から見るこの光景には初めて皇都に向かった時の不安と緊張、そして去った時の寂しさや悲しみ全てがある。
ラインハルトに仕えた最初から最後までの記憶に留まる景色が消え去ってしまうのは、どうしても耐えがたく悲しいことに思えた。
自分はこんなにも感傷的な人間だっただろうか。
うっすらと視界がぼやけてエレンは瞳をぬぐう。一瞬の仕草に自分の感情の波を誰かに気取られることはなかった。
「バルド殿下は皇都が陥落したらどうするのでしょう」
帰るべき城をなくしたとしても、バルドがここで簡単に終わるとも思えない。
「北ぐらいしか、行くところはなさそうだな。ここで早く決着がつくといいんだが」
クラウスもバルドは崖っぷちに追い込まれるまで戦い続けるのだろうと思っているらしく、深々とため息をつく。
彼女は終わりまで一緒にいられるのだろうか。
エレンの胸に引っかかるのはバルドの行く末よりもリリーのことだった。
ゼランシア砦で囚われのリリーが逃亡するのを見送った。自分の叶えられなかった望みを、彼女はなそうとしている。
それが昔はひどく妬ましく苛立ちすら覚えるものだったが、今はどこまで思いのままに走り続けるのか見てみたくもなった。
不意に曲がりくねった道の中で山の陰に王宮が隠れて見えなくなると、エレンは視線を足下に戻して流れに身を任せて前へと進んでいく。
やがてあちらこちらで戦闘が勃発している情報が入ってくる。だが皇都はまだ静からしい。
だけれど、その静寂が長く続かないことは皇都へ攻め入る誰もが知っていることだった。
***
「バルド、バシュクでも戦闘だって」
行軍の休息の途中、新た入ってきた報告をリリーは木陰で座り込み目を閉じているバルドに告げる。眠っているわけではないので、すぐに彼は目を開けた。
「生き残った者は合流。この先も同じ」
そう告げてバルドは再び目を閉じてしまった。リリーはその言葉を他の者達に告げて、バルドの傍らに座る。
バルドは眠たいわけでも疲れているわけでもなく、いつも以上に戦の空気に高揚しているのだ。気を鎮めるためにこうして眠っているような状態でじっとしている。
(もう四箇所目だものね。あたしだってそわそわしてる)
行軍を始めてから今まで沈黙していた者達も次々に行動を起こし始めていて、周辺でも小規模の戦が勃発している。すでに内乱で腐りきった皇国は、今になって砂の城のようにぼろぼろと崩れ始めていた。
あちらこちらで起こる闘争に、戦狂いのバルドも自分も落ち着かない気分でいた。
(でも、なんだかそれだけじゃない気もする)
バルドがこうして周囲と意識を遮断していることが、戦前の高揚を鎮めるためであることにはちがいない。
しかし、何かほんの少しだけ胸騒ぎがする違和感がするのだ。
リリーはバルドの手に自分の手を伸ばしかけてやめる。その代わりそっと寄りかかってみる。
バルドは身じろぎひとつせずにいて、おかしいところは何ひとつない。
(思い過ごし、かしら)
なにもかも満たされすぎているから、些細なことが変に気になりすぎているだけかもしれないとリリーは考えるのをやめる。
(明日ぐらいには合流できるのよね……)
今現在、マリウスの軍は敵勢を引きつけながら目的地の近くで睨み合っているという。もう少しこちらへ寄ってくれば戦闘に入れる。
(演習したいけど、バルドが無理だから諦めるしかないわね。皇都の方が戦は面白くなりそうなのも気になるわ)
じっとしていられずに今すぐ愛刀を鞘から抜きたいところだが、剣を向ける相手がいないことにはどうにもならない。
皇都の方へはすでに本隊に加えて、さらに革命軍の中核たる者達が率いる軍も合流しいよいよ派手な戦になりそうだった。
「バルド、ちょっとその辺歩いてくるわ」
リリーは一応声だけかけて、気分転換の散歩をひとりでしてこようかと立ちあがろうとする。
「リーは、ここ」
だがバルドが目を開けないままそう言って、リリーは動くことをやめた。だったらいっそ寝てしまおうかと考えるものの、自分の手をしっかりと握っているバルドにまた違和感を覚えてしまう。
「いるわよ。あたしはちゃんとバルドの側にいるし、手の届かない所に行ったりしないわ」
戦の高揚に別れの不安でも混じっているのだろうかと、リリーは囁いてみるがバルドの反応は何もなかった。
何かすっきりしないと、リリーは晴れ渡った空を見上げて途方にくれるしかなかった。
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マリウスの率いる部隊は負傷者を出しながらもひとりも欠けることなく、逃げる素振りで敵軍をゆるやかに目的地へと誘っていた。
「もう、あとひと息だ。そうすれば皇主様のお力を得ることができる」
山中の行軍が続き疲労が濃く見える部下達にそう告げながら、マリウスは自分自身を鼓舞する。ここまで誰ひとり失わずにやってこれたのだ。
気を緩めずに進めばバルド達と問題なく合流できるはずだ。
マリウスは近くに沢が見えるとそこで一度足を休めることにした。周囲には敵の気配はない。
だが皇都へ向かう最短距離を取っていると、敵が認識しているなら追いつかれるのもすぐだ。休息と言っても気を休める暇はない。
しかし、疲れ切った体で緊張を緩めるなというのも難しいことだった。
マリウス達の休息する沢の向かいにある山の斜面から、凍てついた暴風が来る。
即座に複数の杖が動いたものの、足並みが揃いきらなかった。
複数の魔道士が足下を凍らされて形勢は一気に不利になる。
「動じるな! 向こうも消耗している。落ち着いて退避しろ!」
マリウスはまだ全体像が見えない敵兵に向けて青い炎の礫を放って、向こうの攻撃を押さえる。
そしてその隙に軍の体勢を取り直し、予定通りの方向へと進もうとする。
しかしそちらにも数人の敵の影があった。
「……姉上」
マリウスは目の前に現れた白いローブを纏ったヴィオラの姿に、歯噛みする。
姉が裏切ったことよりも、生きていること喜んでいる自分に戸惑った。
「わたくしは、生きる方を選んだわ、マリウス」
ヴィオラの切っ先がマリウスに真っ直ぐに向けられる。
かつての実力をよく知る将が敵として立ち塞がっていることに、皇家の軍は動揺を隠しきれない。
ヴィオラの切っ先から深紅の炎の花が咲く。
マリウス達は一瞬で窮地へと追い込まれたのだった――。




