3-4
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もう少し浮ついた雰囲気でやってくると思っていた。
クラウスは数ヶ月ぶりにあったアンネリーゼの落ち着いた表情に、内心拍子抜けする。
みっつ年下の義姉はいつ見ても寸分の狂いなく完璧な美しさを纏っていた。自分で殺した父親の喪に服しているのか、飾り気の少ない黒に近い紺のドレス姿で佇む姿はどこを切り取っても絵になる。
だがやはり素直に美しいとは思っても生きた人間に対する評価というより、人形や絵画に対する感覚と似ている。
「クラウス、無事でよかったわ」
「義姉上こそ、ご無事で何よりです」
儀礼的に頭を下げてクラウスはアンネリーゼが先に座るのを待つ。椅子と小ぶりな円卓が置かれた部屋は天井が低く、床に敷かれた焦げ茶の毛織物の黒い色と相まって窮屈で重苦しい。
「……またすぐに戦に行ってしまうのね」
席についてすぐにアンネリーゼがぽつりとつぶやいた。
「行きます。こうやって話すのはこれが最後でしょうね」
クラウスは席につかないままアンネリーゼを見下ろす。
「どうして? わたくし、ずっと待っていたわ。あの人から解放されて、戦のしがらみからもなくなればずっとあなたと一緒にいられると思って精一杯やったわ……」
アンネリーゼが嗚咽を堪えるように息を深く吸い込んで沈黙した。
泣かれるのは面倒だなと考えながら、クラウスはため息をひとつついて腰を下ろす。
「義姉上の期待を知っていて利用したことは否定しません。俺はあいにく善人じゃない。利用できる物ものはいくらでも利用するし、逃げも隠れもする。本当ならこのまま会わずに終わるつもりでした」
ベーケ伯爵家に滞在する予定がなければ、このまま距離を置いて知らぬふりを通すはずだったことを包み隠さず告げる。
「でも、悪い人でもないわ。初めて会ったとき、あなたは優しかった」
「たったそれだけでしょう。兄嫁に対する最低限の礼儀を尽くした挨拶程度だったはずです。特別なことなんて、なかった」
アンネリーゼに具体的に何を話しかけたなど覚えていないが、自分がどんな態度だったかぐらいは想像がつく。
作り笑いと当たり障りのない言葉。結婚式の場にいた誰もが彼女に同じ態度で接していたことだろう。
「わたくしにはとても特別だったの。十二のわたくしには優しい言葉のひとつもかけてくれない十三も年上の夫がとても恐ろしかった。知らない家でその夫と暮らしていくことも不安だった。だけれどみっつだけしか違わない、あなたが笑いかけてくれて、安心したの」
アンネリーゼが青い瞳を真っ直ぐに向けてきて、必死に語りかけてくる。
「だけど、俺にとっては特別じゃなかった。義姉上の好意に気付いた時、利用できる手駒になりそうだとしか思わなかった」
「それでも、あなたの役に立とうと頑張ったわ。あなたのために、夫の目を盗んで情報を渡したわ。あなたを護るためにあの人を殺したの……」
クラウスはアンネリーゼの言葉に首を横に振る。
「俺のためじゃない。全部自分のためだよ。義姉上は兄上からずっと逃げたかった。それを俺を理由にして実行しただけです。みんな、誰かのためって言い訳しながら、自分のために動いてるんだ。……俺がそれを利用しているのは事実だけれど、だからって責任なんてとらない」
クラウスは静かに立ち上がる。
長々と話をするつもりはなかった。アンネリーゼを説得する気もまったくない。半端に優しさを作るよりも、本音をさらして切り捨ててしまった方がましだ。
「わたくし、あなたに置いていかれてどうやって生きていけばいいの?」
アンネリーゼは立ちあがらないまま、唇をわななかせる。
「死ぬ気がなければ生きていけますよ。自分で決められないなら兄君達がなんとかしてくれる。書簡で義姉上のことは全部兄君のベーケ伯爵に任せることになってたんです」
沈黙が下りる。
アンネリーゼはうつむいて固く両手を組んでじっとしていた。
「……あなたはわたくしを、誰かを利用して何がほしかったの」
そのまま踵を返して立ち去ろうとしたとき、か細い声で問いかけてくる。
「特に何が欲しいってわけでもなかった、父上達と心中するのだけはごめんだって思ってただけだな。今は、ちゃんと欲しい物があるけど、それは義姉上には関係ないことです」
クラウスはこれ以上の会話を打ち切って部屋の扉に手をかける。アンネリーゼが動く気配はなかった。
「待って」
しかし、半歩だけ部屋を出たところで制止の声がかかって、クラウスがもう一度だけきちんと別れを告げようと足を止めたその時だった。
近くで魔術が発動する気配がする。
アンネリーゼではない。廊下の方からで、反射的に部屋に戻ったところで目の前を風の刃が通り過ぎた。
「クラウス!?」
「奥にいろ! くそ、狭いな」
クラウスは駆け寄ってこようとするアンネリーゼを部屋の奥に移動させて、自分の剣を抜く。
この城の廊下は狭く、部屋もさして広いわけではない。長剣を振り回すには不便だ。
幸いなことは部屋の入口も狭いので一斉に斬りかかってくることがなさそうだということか。
「伯爵の差し金、ってわけでもないか」
ここで自分を襲撃したところでベーケ伯爵になんの特もない。かといって革命軍ということもないはずだ。
「覚悟!」
先鋒の男が炎の魔術を放ちながら斬り込んでくる。クラウスはそれを水の魔術で押し返し、一刀のもとに斬り倒す。
間髪入れず風の刃が部屋に吹き込んでくるのをローブで躱しながら、ふたりめを斬り捨てる。そこで敵方も様子見のつもりか、一旦攻撃は止むがまだ廊下に数人いるのは気配で察せる。
「……お父様の、側近だわ」
アンネリーゼが絶命した襲撃者ふたりを見て呆然とつぶやく。
「まあ、それしかないか」
ベーケ伯爵家も前の当主に仕えていた者達が全員革命軍につくことに納得いっているわけではない。主君の仇討ちのつもりだろう。
「まさか、わたくし達を彼らは殺すつもりなの」
「俺は確実にそうだろうな。義姉上は、どうかな。こいつらの中ではまだ俺に騙された可哀相なお嬢様だといいな」
実際に画策したのはアンネリーゼの兄達だが、城内で騒動が起これば面目は丸つぶれにはなるだろう。
「わたくしが話をするわ。皆、すぐには攻撃しないはずよ」
前に出ようとするアンネリーゼに、クラウスは思案する。誰かが気づいて救援にくるまでの時間稼ぎにはなるとはいえ、彼女の命の保証はなかった。
(……さすがに盾にするのは寝覚めが悪いな)
クラウスは耳をそばだてて廊下側の様子をうかがいながら、アンネリーゼを自分の側まで手招く。
「とりあえず、俺のすぐ後ろに立って声だけかけてみてくれますか」
「ええ。……あなたたち、一体どういうつもりでこんなことをするの」
アンネリーゼが声を振り絞って問いかけると、廊下から足音が聞こえてきた。クラウスは剣を構え、攻撃に備える。
「お嬢様、ブルーノです。覚えていらっしゃいますか」
そして初老の男が入口の前に立った。彼は腰の剣の柄に手を置いているものの、仕掛けてくる気配はない。
「ええ。覚えているわ。もちろんよ。子供のころにたくさん遊んでもらったもの……」
アンネリーゼが幾分か緊張を和らげた様子で首を縦に振る。
「それは嬉しい限りでございます。お嬢様はお変わりない。本当に嫁がれるまえのままでいらっしゃる。人を斬るなど、できる方ではない」
ブルーノが襲撃者とは思えない穏やかな顔で目を細める。
「……でも、夫もお父様も殺したわ。わたくしが、この手で殺したの。夫はひどい人で、お父様はわたくしを殺そうとしたの。わたくしは抵抗しただけよ」
「御館様は苦しんでおられた。罰を下すのなら、せめて己の手でとは仰っていました。お嬢様はそれだけのことをなさったのです。しかし、誠に悪いのはその者でしょう」
敵意の目が向けられて、クラウスは否定する。
「殺されるような真似したうちの兄が悪い」
兄が死んだのは自業自得だ。もとより傲慢な質でアンネリーゼに対しても不遜だった。
「貴様、どこまでもふざけた真似を。お嬢様に対して責任を果たすならば、命は取るまいと思っていたが……お嬢様も、もうよいでしょう。ここで私が御館様に変わって討たせていただきます。不貞の末、夫殺し父殺しまでして捨てられたなどと後ろ指を差されて生きていくよりも、ここでこの男と死んだほうがよいはずです」
ブルーノが剣を抜く。彼は本気で自分とアンネリーゼをまとめて始末するつもりだ。
「……ええ。そうかもしれないわ」
抑揚のない声でそうつぶやくアンネリーゼに、クラウスは眉根を寄せる。
「義姉上達がよくても、俺はよくない」
勝手に話を決められても困る。ここまできて死ぬ気はまったくないのだ。
クラウスはアンネリーゼには気を回さずに、ブルーノと対峙することに専念することにする。それほどの強敵でもないが、自分の命を惜しまず向かってくる者をあなどると痛い目に合う。
ブルーノが剣を振るい、炎の飛沫を撒き散らす。
「いやああっ!」
クラウスは水の魔術とローブで防ぎきれたが、アンネリーゼはいくらか被ったらしく悲鳴が上がる。
「死にたくないなら、下がってろ。そうじゃないなら好きにしろ!」
クラウスは舌打ちして、一瞬ブルーノが動揺した隙に間合いに入り込んで風の魔術を打ち込む。
炎以外の魔術を使うのは不得手なのでさした威力はないが、切っ先を喉元に突き立てるまで相手が体勢を崩していればいい。
反撃の刃が腕を掠める。しかし、クラウスは確実にブルーノの首を割いた。
ちょうどその時、廊下でも剣戟の音が上がる。やっと異変に気づいて救援が駆けつけたらしい。
「ブルーノ……」
その場にへたり込んだアンネリーゼが放心した顔で事切れたブルーノを見る。彼女のドレスにぽつぽつと焼け焦げた痕があり、唇の横にも火傷が見られるものの大した怪我ではなさそうだった。
「死にたいですか、義姉上」
アンネリーゼが糸に引かれたように、ゆるゆるとクラウスを見上げる。
「あなたに置いていかれるなら、死んだ方がましだと思ったわ。それなのに、恐かった。わたくし、まだ死にたくないの……」
造り物めいた青い瞳から涙が伝う。そしてアンネリーゼは両手で顔を覆って子供のように泣きじゃくりはじめた。
クラウスは剣をしまい、慰めることはもちろんアンネリーゼに目をむけることもなくなく眼鏡に散った返り血を拭いながら人が来るのを待つ。
(みんな自分のため、だな。俺も)
戦場で死ぬよりも戦のない世界で生きる方がリリーのために一番いいと言いながら、自分とて彼女を手に入れたいがゆえのことでしかない。
ばたばたと人が駆け込んできて、先に泣き止まないアンネリーゼが他の部屋へと治療のため連れて行かれた。
立ち去る時、アンネリーゼがクラウスを振り返ることはなかった。
***
騒動から一夜明け、アンネリーゼはいつも通り自分が朝を迎えたことを漠然と受け入れていた。
『玉』の魔術の治療によって火傷は痛まない。後のことは知らない。兄達が謝罪に奔走したことは、聞いた気がする。
「……クラウス」
アンネリーゼは夜着の上にショールを羽織って部屋から出ようとして立ち止まる。
クラウスに見捨てられたら、生きていく意味はないと思った。自分で死ぬよりもブルーノに殺される方が楽だろうと、諦めたはずだった。
アンネリーゼはうっすらと火傷の痕が残る顔を撫でる。
クラウスへの想いは自分への言い訳でしかなかったのだろうか。ずっと夫から逃げたかった。父に殺されたくもなかった。
それもまた本心だ。だけれど、クラウスがいなければ行動に移せずにいたはずだ。
夫を殺さなければ、父を殺すこともなかった。だけれどあの家で夫とずっといる過去に戻りたいとは微塵も思わない。
ただひとつ確かだと言えることは、自分は今ここで生きていることを悔やんでいない。
「お嬢様、具合はいかがですか? 食事をお持ちしますけれど、食べたいものはございますか?」
隣の部屋にいた侍女が、物音で目覚めたことに気づいてやってくる。
「いらないわ。クラウスは、もう行ってしまった?」
「今、ちょうど出立するところですが、お見送りになるのですか?」
侍女が困り顔で訊ねてくるのに、アンネリーゼは自分がどうしたいのか考える。
クラウスはもう、自分と話すつもりもないだろう。会ったところできっと目もくれないかもしれない。
「東棟の窓からなら、姿が見えるわよね」
アンネリーゼは侍女に付き添われて前庭が見える三階の窓辺へと向かう。
下をのぞけば沢山の魔道士達が隊列を組んでいる所だった。皆同じ白いローブを纏っていてクラウスを見つけることは難しい。
「あ……」
日の光が反射する銀の髪を見つけて、アンネリーゼは身を乗りだす。後ろ姿だった彼が振り向いて、クラウスだと確信する。
(でも、やっぱりあなたのことは好きだったわ。わたくしにとって、特別な人だった)
アンネリーゼは硝子窓に指をはわせて瞳を潤ませる。クラウスがこちらに気づくこともなく、行ってしまう。
これで終わりだ。自分の恋は終わってしまった。
アンネリーゼは嗚咽を呑み込んで窓辺から離れる。
恋を失っても、死にたくないなら生きていくしかない。
「……温かいスープが飲みたいわ」
侍女の付き添いを断って、アンネリーゼはひとりきりで自室へと戻った。




