5-3
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もうしばらく帰還を待って欲しいという報告が皇都からバルドの元に届いたのは、戦が終わって四日目の夕刻のことだった。
南部の防衛の要であるベーケ伯爵家の動向への警戒と、今回の戦での戦果があまりに乏しく大量の離叛者が出たため、北が塞がれた現在最も安全と思われるルベランス城に数日留まっていてくれということだ。
バルドは寝室でつい先程、寝台の上で眠り始めたリリーを目をやる。
まだ松葉杖なしでは歩くこともできなければ腹の傷の痛みに苛まれている彼女が、ゆっくりと療養できるのはいいことだ。
戦のたびにリリーは火傷や刺し傷切り傷をつくってきたとはいえ、自力で歩けないほどの重傷は初めてだった。
夜も痛みに寝苦しそうにしているので、きちんと体が休めていないのだろう。
ほんの少し動き回っただけで疲れるらしく、横になったらすぐにリリーは眠る。彼女が帰って来て嬉しいのに、痛みに苦しむ姿に気分が落ち込んでしまう。
バルドはリリーを起こさないようにゆっくりと寝台に腰掛けて、寝顔が苦しくなさそうかまた確認する。
眉間に皺は寄っておらず、歯噛みもせずに穏やかな寝息を立ててリリーが眠っているのを見るとほっとする。
(今は大丈夫……)
リリーの戦が終わってからの様子も今までとは違った。
勝利して楽しかったと笑う表情はいつも通りだったが、その後には塞ぎ込んだ表情をしていた。
後悔ではないと、リリー自身も言っていて、自分にも彼女が悔いているとは思えなかった。
もう一度フリーダと戦いたいという気持ちは、よくは分からない。リリーがどんな思いでいるのか見えない時は、不安になる。
ここにリリーがいることは、本当にいいことなのか。彼女に再び剣を握らせたことは、正しかったのか。
(知っている)
拳を強く握りこんで、バルドは自分自身の心を恐る恐る覗き込む。
答はもう、知っている。
見ないふりをしているだけで、リリーが傷だらけで帰って来て、戦の終わった後に自分と同じではない感情を抱いているのを知った時にもう答はでていた。
バルドは固く握りしめた指を今度はそろりと、開いていく。握るよりもずっと力がいった。
そして開いた掌に目を落としてじっと考え込み、リリーを見ずに寝台から離れた。
***
ハイゼンベルクの軍司令部は予想以上の損失に悶々としていた。
勝利を大々的に喧伝しても、敗戦の足音をかき消すのには足らない。
砦ふたつの損害と皇主自ら率いた軍勢から数多の離叛者が出たという事実が落とす影は、あまりに濃すぎる。勝利よりも敗戦が間際に迫っているということのほうが、民衆に強く印象を残すだろう。
「クラウス離叛で宰相家として栄えてきたフォーベック家もこれで形無しですねー」
長い軍議の合間に設けられた束の間の休息の中、カイの隣に座る水将のラルスが茶を啜りながら声を弾ませて言った。
「てめえが、宰相嫌いなのは知ってるが、喜んでる場合じゃねえだろ」
カイは年下の上官の物言いに呆れながら、両腕を組む。
「皇家を蔑ろにする人間はそれ相応の位置にいるべきなんですよー」
「そうかよ。それで、戦勝祝いは結局やるのかよ」
軍議でも焼け石に水の戦勝祝いを整えてバルドに帰還してもらう方向で進んでいる。
戦に出陣したカイとしては、あの戦の内容で祝う気には到底なれなかった。自分が見た光景は、負け戦のものだ。
「こういうのは様式美ですからねー。次は総力戦かな」
「そろそろしまいか。……嬢ちゃんが死んだら魔術は消えるっていうのは、結局どういうことなんだろうな」
神器について曖昧なことしか教えて貰っていないカイはため息をつく。バルドの説明にもならない説明ではまるきり理解出来なかった。
「皇祖様の心臓が潰えれば、魔術も消える。道理は通ってますよ。詳しい事は、皇主様がお戻りになってからですね。さあ、そろそろ無駄な軍議の再開ですよ。寝ちゃおうかなー」
「寝てたら俺が後ろからぶん殴るからな」
すでに話題が行き詰まり堂々巡りになっている軍議に飽き飽きしているのは、カイも同じだった。
勝つことは誰も彼もが諦めきっている。口にこそはしないが、どうやって死ぬしか考えていない。
あるいは逃げ出す算段を始めているところか。
(ラルスは死ぬことしか考えてないな……マリウスの奴といい、死に急ぐことはねえのにな)
ラルスは軍議よりも皇主の指揮下で戦をしたがっている。バルドに忠誠を誓う者達は皆、皇主のため戦い抜いて死ぬことを何よりの誉れと思っているのだ。
自分より年下の若者達が名誉の死を遂げたがることに、忠義心の薄いカイはどうしてもやりきれないものを感じてしまう。
兄が遺した甥もまたそれを望んでいる。戦死した妻はどうだったのだろう。
ため息をついて、カイは机にへばりついているラルスを軍議へと引っ張って行く。
「あれー、どうかしました?」
何かあったらしく、議場はざわついていた。
「ベーケ伯爵がご次男と共にいらっしゃっているそうだ。ご息女に会いに来たらしい」
軍司令部のひとりが、南の護りの要であるベーケ伯爵の来訪を困惑気味に告げる。
「こんな時に城をあけたっていうのかよ」
聞けば、嫡男に留守を任せていると聞いてますますカイの表情は険しくなる。
「御嫡男は、ハイゼンベルクに忠義立てしているわけでもなさそうでしたよね……」
ラルスの表情も真剣になっている。
「クラウスの差し金じゃねえか」
「そうですねー。エレン嬢が向かっていた先も南でしたよね。……宰相殿が屋敷に戻られたのですか……。宰相殿の御嫡男をアンネリーゼ嬢が殺害のした件を伯爵に秘密にしてたのばれちゃったかな-」
忠義心の厚いベーケ伯爵なら娘を自ら糾弾するなり、責任を直に取りに宰相家を訪れたのかもしれない。
「なんにしろ、いい状況じゃなさそうだな……」
嫌な予感は議場にいる誰もがしていた。しかし、伯爵は軍を率いてきたわけでもなく次男と最低限の共を連れて娘に会いに来ただけなのだ。
具体的に何が起こるかは予見できず、対処にも困りかねていた。
そうしている内に、次に飛び込んで来たのはベーケ伯爵の訃報だった。
フォーベック家の屋敷内で殺されたのだ。
そして、伯爵を殺害せしめたのは娘であるアンネリーゼだった――。
***
クラウスは馬車の窓にかけられた帳の隙間から、そっと外の様子を窺い見る。
ディックハウト領とは言いえ、ハイゼンベルクの光景と代わり映えはしない。戦で廃れた場所もあれば、人が集まり賑わっている場所もある。
「社に近づいてる割には静かだな」
真向かいに座るエレンに声をかけると、彼女は視線を下に向けたままうなずく。
「負けたことはこちらにも伝わっているのでしょう」
「だけど、ハイゼンベルクの方が痛手が大きいだろ。あれが、ディックハウトの城か。俺らに直接話したいって、十歳の皇主様ってどんな子供だろうな」
『杖』の社を囲んで築かれたディックハウトの王宮が窓の向こうに見える。
クラウスとエレンは皇主が会いたがっていると言われ、ここまでやってくることになたのだ。
実際用があるのは宰相の方だろうとクラウスは踏んでいた。わずか十歳のディックハウトの皇主が自分で政治的判断を下せるわけはない。
幼くして有能という可能性はあるかもしれないが、ディックハウトの皇主は伯父に当たる宰相の傀儡でしかないだろう。
王宮についてすぐに、クラウスとエレンは謁見の間に通された。
そこには雰囲気からして重臣と思われる者達が多く集まっていた。誰もが胡乱な眼差しをクラウス達に向けていた。明らかな警戒心を見せている者もいる。
(見た顔もいるな……)
数年前に離叛したハイゼンベルクの重臣だった者の姿も見えた。視線が合いそうになると顔を逸らされて、クラウスは思わず苦笑しそうになるのを堪える。
よほど負い目があるのか、後ろめたいと思うなら裏切らなければよかったものを。
クラウスがエレンと共に玉座から一番離れた末席へと立たさて間もなく、皇主は現れた。
背後に母親らしき女性と宰相と思われる男を従えた少年は、ベールで顔を覆い隠していた。
「皇主様の喉はまだ完治していらっしゃらないので、私が代弁をさせていただく」
そう告げた宰相に、皆が少々不安げな顔をする。どうやら以前から体調を崩していたようだが、顔を隠しているのも病のためだろうかとクラウスは訝しむ。
(あれが、皇太后だろうけど、いやに顔色が悪いな)
そして玉座の傍らに座る女性の様子が気になった。立ち位置からして皇主の生母であるロスヴィータで間違いないだろう。彼女の顔からは血の気が失せ、今にも倒れそうだった。
虚ろな様子でうつむいていたロスヴィータが不意に顔をあげて、クラウスはぞくりとする。
謁見の間にいる者達を見渡す彼女の瞳には、深い闇があった。視線に捕らえられた瞬間、深淵に引きずり込まれてしまいそうだった。
「……皇主様はここにおられません」
「ロスヴィータ!!」
そしてすっと立ち上がり、ロスヴィータが口元だけで笑いながら、宰相の制止も聞かずに皇主のベールを剥ぎ取る。
場内が驚きにどよめく中、皇主の顔を知らないクラウスとエレンは顔を見合わせる。
「こ、皇主様はどうされたのですか!?」
問いただす声が次々と上がって、偽の皇主らしき少年が今にも泣き出しそうな顔で宰相とロスヴィータを交互に見る。
「わたくしのアウレールは死にましたわ。わたくしのアウレールは死んでしまったのです! 最初から皇主様などいなかった! あの子は、あの子はわたくしだけの子だった!!」
嗚咽と哄笑を入り交ぜながら、ロスヴィータが叫ぶのを誰もが唖然としてみていた。
はっきりと分かるのは、皇主の崩御。
跡目がいない以上、これでディックハウト家は断絶されたことになる。
すなわち、勝利を目前として戦う意義を失ったのだ。
「宰相殿! これは一体どういうことなのだ!」
糾弾は宰相へと向かう。玉座に座らされていた偽の皇主は玉座から降りて大人達の様子に怯え泣き始めている。
謁見の間は混乱のるつぼに叩き落とされていた。
その中で宰相は沈黙を貫き通している。
(どうするんだ、これ)
部外者同然のクラウスは成り行きを見ているしかなかった。
「兄様、今更足掻いたところで無駄ですわ。アウレールが皇主様の御子と偽って、皆を騙し続けてきたことを自分の口で弁明したらいかがかしら」
さらなる真実をロスヴィータが口にして、口々に疑問をぶつけていた者達は呆気にとられ、水を打ったようにあたりは静まりかえった。
「……戦は五年前に終結していたはずだったようですね」
驚きをわずかに表情に現わしながら、エレンがつぶやく。
「無駄な戦だったな」
クラウスも呆れかえってため息をつく。
グリザドの真実があろうがなかろうが、この戦がもはや茶番でしかなくなっていたのだ。この五年でも多くの死と裏切りが蔓延していた。
その全てが無駄だったのだ。
「あの獣に従わねばならんのか……」
絶望しきった声が上がって、混乱は深まっていくばかりだった。
「いまさら、そんなことができると思うのか! ハイゼンベルクの裏切り者は全て処刑に違いない。我らとて同じだ!」
「ハイゼンベルクの獣に狩られるよりも、先代の皇主様に殉ずるのが道理!」
ハイゼンベルクの離叛者達は顔を青ざめさせ、ディックハウトの重臣達も意見をまくし立てる。
誰も彼もが愚かだとクラウスは冷めた思いで、ひとつ息を吸う。
「皇家なんてものはとっくに必要なかったんだよ」
そしてざわめきに水を差す。
「この中で本気で皇家に忠誠を誓ってる奴は何人いる? ハイゼンベルクを裏切った奴らは我が身可愛さでこっちに来ただけだろう。俺だってそうだ。そもそもグリザドの血統ってだけで、どっちの皇主もまともに政はしてなかった」
クラウスはディックハウトの宰相に視線を向ける。
「いらないだろう、皇家なんて。まあ、皇家が絶えたら魔術は誰も使えなくなるけどな……」
皇家が絶えれば魔術が失われるかもしれないという憶測は昔からされていた。だが、それをただの離叛者でなく、長らくハイゼンベルクの実権を握っていた宰相家の跡継ぎが断言したことに一同が驚き、ディックハウトの宰相に真実かと確認する。
「……その可能性がおおいにあると長らく言われていたが、断言できる理由は何もない」
やっと、沈黙を保ってきたディックハウトの宰相がやっと口を開く。
「最近死んだ、皇太子……ラインハルトが皇祖の神聖文字を解読していたんだ。その中で、皇家の血が絶えたら長くとも百年以内には全ての魔道士が魔力を失うとあったんだ。そうだろう、エレン」
クラウスは嘘八百を並べ立てて、エレンに同意を求める。
「……ええ。皇太子殿下はそう仰っていました」
幸い彼女はこの話に乗ってくれたらしい。
「そもそも、魔術が必要か? 戦をするためだけの力に振り回されて、何度も何度も戦を繰り返すだけ。この力は恵みでもなんでもなくて、ただの災いだ。いっそ、もう皇家を滅ぼした方がいいんじゃないのか?」
クラウスの言葉に揺り動かされているのを表情に出す者は、すでに幾人もいた。
「よろしいですわね。それがいいわ。わたくしはこの先を見るつもりはありませんけれど……。さあ、もう行きますわ。アウレールをいつもでもひとりにしておくにはいけない」
最初に同意したのは、ロスヴィータだった。彼女はそのまま背を翻すが、誰も止めはしなかった。
誰の目にもロスヴィータは自分達を謀った悪女でなく、子を失って狂った母親に映っていた。
「……滅ぼして、どうする? まさか自分が新たな王にでもなるつもりか」
ディックハウトの重臣のひとりがクラウスを睨みつける。
「そんな面倒な立場なんていらない。そもそも血で引き継ぐのが間違いなんだよ。どうせ今までどっちも大臣連中と宰相で政をやってきたんだ。任期を決めて交代でやっていけばいい。なんなら民衆に決めてもらうのも悪くないかもしれないな。どうするにしろ、皇家を絶やさないことには何も始まらない」
できるだけ最小限の労力で戦をを終わらせる方法は、これしか思いつかなかった。
戦のない国を永続できるとは思わない。ただ、戦で疲弊しきった数十年は持つだろう。
この先、リリーが生きていく場所に戦がなければいいのだ。
「戦しか脳のないハイゼンベルクの雷獣に殺されるか、服従するかの道を選ぶのか。それとも新しい自分達の国を作るのか。どうするんだ」
クラウスが決断を迫って、突然道を失った者達は新たに示された道を選び取るしかなかった。




