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棺の皇国  作者: 天海りく
終天崩落
59/115

2-4

***


 日暮れ近くになって運ばれて来た湯桶に浸した布で体を拭くリリーは、寝台の上に置かれた着替えに目をやる。

 今は上半身だけ脱いで寝台の影にいる格好だが、誰もいないので着ていた服をすぐに持ち去れる心配はない。

「着替えはどうしよう……」

 戦となれば十日近く湯浴みどころか、体を拭くことも着替えることもできないことはよくあることだ。かといって今は夏である。できることなら汗を拭って新しい服に着替えたい。

 リリーは最後に湯桶で髪も洗って乾いた浴布で水気を切り、元来ていた上衣を羽織る。

 用意されている新しい服は、くたびれた萌葱色の簡素な木綿のドレスだった。さっき湯桶を運んできた侍女の手伝いをしていた少女も、同じ服を着ていたのでおそらく下位の下働きのお仕着せのお古だろう。

「でも、これなら戦闘になった時にちょうどいいかしら」

 逃げるときのことを考えれば、着替えた方が城内の人間の中に紛れやすくていいかもしれない。下働きのためのドレスなので裾の広がりや装飾も控えめで、動きやすそうだった。

 リリーは着ていた服を全て脱いで、用意されていた服を纏う。身頃はちょうどよいぐらいだった。

 動きにくくもなく、これならば問題ないだろう。

「食事はとらないわけにはいかないんだけど……」

 残る問題はそれだった。毒殺の心配はしていないものの、また身動きが取れなくされてはたまったものではない。

 かといって、飲まず食わずではやはり動けない。

 昨日の今日で軍は動きそうにないので、明日ぐらいまでは平気かもしれない。だが、万一一服盛られてバルドからさらに遠いところまで移動させられたらと考えると、食事を口に入れることを躊躇ってしまう。

「……おなかすいたわ。喉も渇いた」

 丸一日以上何も食べていないリリーは空腹を訴える腹を撫でた。

 夜が来れば、周囲は真っ暗になって身動きが取りづらくなる。虜囚の身で破格の待遇とはいえ、部屋に火は灯されないのだ。

 暗くなったら眠る以外にないので、空腹が酷くなる前にもう寝てしまおうかと考えたところで部屋の鍵が開く音がした。

 下働きの少女が入ってきて、湯桶を取りに来たのかと思えば後にフリーダが続いた。

「やあ。夕餉を一緒にとらないかい?」

 そう言うフリーダの後ろには、湯気の立つ盆を保った侍女がいた。

「……一緒にですか」

「君が食事を取らないというから、私が毒味をすることにしたんだよ。皿はひとつだ」

 机にたっぷりの麦粥が入った大皿がひとつ置かれる。塩漬け豚と鮮やかな緑のそらまめも入っていて、からっぽの腹が鳴った。

「……いただきます」

 リリーは笑いを噛み殺しているフリーダから顔を逸らして、椅子に座る。後から侍女がもう一脚椅子を持ってきて、フリーダが向かいに座った。

「何も入っていないよ。味気もないが」

 皿にそのまま入れられているふたつの木匙のうちのひとつを使い、フリーダが先に麦粥を食べる。

 リリーもほんの少し掬ってゆっくりと匙を口に入れる。確かに少々味は薄いものの、塩漬け豚の旨味がじわりと後を引いて十分な味だった。

 囚人食の麦粥となればほとんど麦がなく、ただの白湯であったり腐りかけた野菜や肉を放り込まれていることがあるのを思えば、上等の食事だ。

「拾った猫を餌付けしている気分だな」

 無言でふたくちみくちと粥を口に運んでいると、フリーダがそんなことを言ってリリーは匙を止める。

「何か企んでるんですか?」

 この先ディックハウトがハイゼンベルクにどう仕掛けるかは分からない。

 まさか、今更寝返らせようとしているわけではないだろうが。

「疑り深いな。君が食事を取っていないと教えたら、クラウスが毒味を引き受けると言ったんだ。しかし、君とゆっくり話せる機会を持てるならと思って代わってもらった」

「ゆっくり話す……」

 フリーダの狙いが見えずにリリーは戸惑い、鸚鵡返しをする。

「うん。今更になって、私は君ともっと信頼関係を築きたかったのかもしれないと思ってね」

「あたしを懐柔するつもりですか」

「そういうのじゃないよ。疑り深いな、と言っても敵陣の中だ。そう考えるのも仕方ないか。私も退屈なんだ。ここの暮らしは本当に退屈でたまらなくて、この一年考えていたことは、戦場に戻ることだった。それともうひとつ、君のことだ」

 フリーダが水差しからカップに水を注いで一口だけ飲み、残りをリリーに差し出す。

「……あたしのこと?」

 カップを受け取ったリリーは、そっと自分も水を飲む。

「君は自由に戦場を走り回っているんだろうと思っては、うらやんでいた。何も戦に出ているのは君だけではないのに」

「あたしのこと、嫌いだったからですか?」

 フリーダの意図がさっぱり掴めずにリリーはフリーダの瞳を覗き込む。

 面と向かって嫌いだと言われたこともあるが、すぐに彼女の口からも否定された。

「君はたぶん自覚している以上に周りから嫌われてはいただろうが、私は嫌っていたわけではなかったと思う」

「……あたし、そこまで嫌われることはしてないと思うんですけど」

 自分から喧嘩を売った覚えはない。売られた喧嘩は買うが、それ以外で他人と関わることはなかったはずだ。

「みんな他人にどう思われてるかが気になっているものだ。君は誰に対しても無関心だったからな。それが一番、気に触るんだ。思えば私も、君の関心を引きたくてむきになっていた」

 フリーダの言っていることは、いまひとつわからなかった。

 ただ、自分が他人に無関心だったのは確かだった。態度が気に入らないと言われた覚えがあるが、そのことだったのだろうか。

「……あたしは、同じ双剣で、強かったシュトルム統率官に関心はありました」

 フリーダの剣技には、最初に剣を合わせた時から一目置いていた。魔力においては自分が上ではあったものの、剣技だけなら彼女と五分五分だった。

「そうか。君は戦うことばかりだな。冷め切ってしまうよ」

 フリーダが苦笑しながら食事の続きを勧めてきて、リリーは再び粥を口にする。

「……それが、あたしの一番好きなことですから。シュトルム統率官と、まだ戦いたいです」

 フリーダと実戦で剣を交えた時の高揚感が蘇ってくる。

 彼女との生きるか死ぬかの実戦は、とても楽しかった。演習ではけして味わえない興奮だ。

「私も、君とまた戦いたいよ。こうしてお喋りしているのもいいけれど、君とは戦場で剣を交える方がずっと楽しい。そうだね、戦うことが楽しいというより、君の関心を一身に集められることが楽しいのかもしれない」

 ほんとんど独り言のようにフリーダがつぶやく。

「なんだかよくわかりません」

 リリーは率直な気持ちを口にする。

 フリーダがそうまで自分の関心を引きたがる理由は、まったくわからない。

「私もわからないよ。どうしてこんなに君が気になるのか。……しばらく毒味役は私が努めていいかい?」

 しばらくということは、当分自分はこの砦に囚われることになるのかもしれない。リリーはフリーダの言葉の端から状況を予測しつつ、こくりとうなずく。

「お願いします」

 別の場所へと知らない間に移される危険は薄れたとはいえ、まだ自分の身の安全が確実に保証されたわけでもない。

 あまり他人と会話するのは好きではないが、欠片でも情報を得るにはこうするしかない。

「よかった。クラウスだけに任せるのも危険だからね。……そうだね、君にはこの手のことも教えておかなければならなかったんだな」

「この手……?」

 クラウスが危険だとか、この手のことだとかあやふやな物言いにリリーは首を傾げる。

「今確実にクラウスが君から奪えるものといったら、貞操ぐらいだろう」

 フリーダの答に、粥を口にしてたリリーはむせ込む。

「……か、考えてなかった」

 クラウスに対する怒りのあまり、その辺りのことを失念していた。この砦に来て彼がひとりで会いに来なかったので、警戒する機会もなかった。

「殺さずに、痛めつけて屈辱を味合わせる手段でもある。クラウスは君を他の兵の手の届かない所に置いたのは、そういうことでもあるんだ」

 敵に捕まれば自分のような人質としての利用価値が少ない者が、嬲り殺しになることは知っている。バルドと自分が出る戦では、捕虜に対しての拷問はしていないが他では黙認されているというのも無論承知だ。

 実際に敵味方関係なく痛めつけられ棄てられた骸も目にしたことがあるので、よく分かっているつもりだった。

「知りませんでした……」

 リリーは改めて自分の無知さに眉を顰める。

 多少は関心を持つべきことを増やすべきなのかもしれないと考えるものの、自分の戦闘以外への執着の薄さでは無理そうでもある。

「拷問目的でなくとも、クラウスも君がいつまでも靡かなければ、痺れを切らせることもあり得る。今の君はいつもより非力で、可愛らしい。くたびれた下働きのお仕着せが似合っている、というのは褒め言葉にはならないか」

 フリーダがリリーの姿を確認しながら楽しそうに微笑む。

「あたしは、孤児ですから、別に似合っててもかまいません」

 自分が皇家の血を引いているとはいえ、それらしい高貴なものがあるとも思っていないので下働きの格好が似合うと言われても気にはしない。

「君のその、他人の評価などどうでもいいというが妬ましくもあったな。全部食べていいよ、私は後からでも食べられる」

「いただきます。気にしたって、しょうがないじゃないですか」

 誰が何を言ったところで、自分は自分でしかなかった。

「しょうがない、か。そうやって生きられたら、私は今頃、どちらにいたんだろうな……」

 物憂げにつぶやいて、フリーダがつぶやく。

 夜が迫る部屋は薄暗く、彼女の表情ははっきりと見ることはできなかった。

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