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執務室で政務をこなしていたバルドは、轟音と共に砦が揺れインク壷が倒れて机上に真っ黒い水たまりができたのを見やって、傍らに立てかけてある神器を手に取る。
「襲撃……」
砦に魔術攻撃が仕掛けられたことに違いはないが、物見からゼランシア砦から出兵の報告はなかった。
「反乱」
となれば内部しかないだろうとバルドは執務室を出ると、異変に兵達が慌ただしくしていた。リリーを探すがまだこちらに来ていないのか、それともすでに交戦中なのか姿が見えないた。
「皇主様、南側と西側で反乱です! 首謀者は不明、すでに南側で炎将が交戦中ですが反乱に加わる者達が増えて混戦となっています」
「鎮圧。出る」
配下の報告にバルドは早足で戦場へと急ぐ
裏切りに焦燥も怒りもなかった。ただ敵が増えただけのことだ。
魔術があろうがなかろうがとっくに皇家の威厳など、ないに等しいものだ。
皇主の存在意義などとうの昔に形骸化してしまっている中、兄は皇家が傀儡でなく真に王となることを考えていた。全てが無意味だと知っても兄が生きるよすがだったものを、簡単に投げ捨てられない。
「敵……」
西の方へ向かうと壁に穴が開いた廊下で黒の魔道士達が入り乱れて、どちらが敵で味方かわからない状況だった。崩れた瓦礫の下にも黒いローブの端が見えている。
ものの僅かで砦内に甚大な損害が出ていた。
「補佐官」
バルドは手近な者にリリーの居所を問うが、見かけていないと答えられて意識を研ぎ澄ます。
リリーが魔術を使っている気配はない。
違和感を覚えながらも向かってきた風の刃を、一閃して打ち砕く。バルドの姿に反乱者は固まって後退し、味方は主君を護らんとバルドの側に寄る。
これで敵味方の区別がある程度はついた。
かといって双方これ以上は砦の全壊のおそれがあるため、大きくは動けない。
睨み合っている内に、南で戦闘していた集団もこちらへ寄ってくる。ヴィオラ率いる部隊に追い詰められて、味方と合流する気らしかった。
反乱に回った魔道士は千はくだらないだろう。どれだけ被害が出ているかも把握しきれない。
「ゼランシア砦から直に応援がくる!! 真に正しいのはディックハウトと思う者達は我々に続け!」
扇動者のひとりと見られる男が声を張り上げて、動揺が広がる。
これが初陣という者も多く、この状況では混乱してかえって足を引っ張ることになるだろうと思われる状態で、統制の取れたディックハウトに攻められるのは分が悪すぎる。
「皇主様、ゼランシア砦からの出兵が確認されました。向こうの言っていることは本当のようですわ」
ヴィオラがマリウスと共に駆け寄ってきて、硬い表情でバルドに報告する。
「……砦は捨てる。出来うる限り、生存して撤退」
ここは砦を護るより、これ以上兵を失わないことの方が重要だ。
本心はゲオルギー将軍と相対したいバルドだったが、将としてそう判断を下す。
「では、わたくしがしんがりを務めますわ。マリウスは、兵を纏めて撤退の編成を。皇主様、アクス補佐官は?」
ヴィオラが訊ねてきて、バルドは表情を険しくする。
「見ていない。補佐官、見なかった?」
問い返すとヴィオラも怪訝な顔をする。
「見ていませんわ。おかしいですわね。リリーちゃんならすぐに駆けつけていそうなものですのに」
そして近くの兵達に誰かリリーを最後に見た者はと、探すと反乱の直前にクラウスと一緒にいるのを目撃したという。
そういえばクラウスの姿も見えなかった。
「まさか、フォーベック統率官と一緒にアクス補佐官も離叛したのでは」
「補佐官、裏切らない」
マリウスが危惧することに、バルドがきっぱりと返す。
リリーは絶対に自分の側から離れたりはしない。それにまだグリザドのかけた魔術についても全て分かっていないと考えて、シェルも連れて逃げなければということを思い出す。
「灰色の魔道士も、連れて行く」
命じて、リリーは本当にどこに行ってしまったのかとバルドは内心焦っていた。
「分かりました。アクス補佐官とフォーベック統率官はわたくしたちに任せて、皇主様は先にお行きください」
ヴィオラが敵勢に荷担する者が再び増え始め、逃すものかと剣を構える。そしてマリウスの指揮の下、狭い廊下でごちゃついていた味方が、『杖』と『剣』に分かれひとまず隊列らしきもの築かれていく。
『剣』と『杖』が交互に並びバルドは敵勢に背を向ける。
どうせならしんがりは自分がしたかったのだが、いたしかたない。おそらく退路を塞ぐ敵もいるはずだ。
(リー、こない)
クラウスがリリーと正面からぶつかって勝てるはずがない。そもそも戦闘をしている気配がないのだ。
リリーが戦わないなど異常事態である。
「皇主様、東の園庭の長椅子の下にこれが。長椅子の上にはカップがひとつと、地面にありました。何か盛られたのでは」
そして背後の戦闘の音を聞きつつ東にある裏門に向かう途中、先に偵察に行っていた魔道士がローブと双剣を持ってきた。
双剣は間違いなくリリーのものだった。
リリーはなんの警戒心もなくクラウスから渡された、体の自由を奪う薬を飲んでしまい剣とローブをはぎ取られたのかもしれない。
それ以外にリリーが剣を手放すことはないはずだ。
自分もクラウスがこんな手段に出るとは、予測していなかった。
「皇主様!」
バルドは東に向けてひとり駈け出す。理性的になどなれなかった。
クラウスがリリーを遠くまで連れて行ってしまうのを、阻止しなければという思いだけに体を動かされていた。
隊列を大きく乱しながら、バルドは扉を勢いよく開けて外に飛び出す。
「リー」
そして辺りを見回してリリーを探す。もう、門から出てしまったのかと、東門に向かうが石の扉は固く閉ざされていた。門兵も控えたままだ。
「こちらは敵の攻撃はありません。皇主様、今の内にお行き下さい」
クラウスは門から出ていない。ここから出るには西門を通るか、あるいは隠し通路を使うかしかない。
「皇主様、どちらへ!?」
バルドは来た道を引き返す。すぐ近くにこの裏門側と正門側に通じる地下通路の入口があった。
クラウスは西側の正門へ向かっているはずだ。
バルドは砦の中へ引き返す。
屋外の出入り口から地下通路へ降りるより、砦内の出入り口から追った方が早い。
リリーを抱えているならそう急げない。ぎりぎり追いつける可能性がまだある。
小さな部屋が密集する一角へ赴き、バルドはその部屋の敷物を剥いで地下への入口を開く。耳をすませれば足音がして、バルドは暗闇の中をひた走った。
「クラウス!」
クラウスの後ろ姿が見えて、バルドは声を響かせる。
「……よくここだって分かったな」
クラウスが振り返る。彼の腕にはぐったりとしたリリーが抱きかかえられていた。
「リー、返す」
低く唸ってバルドは神器を抜く。
「やめとけよ。いくらお前が強くてもここじゃ剣も振り回せないし、俺に魔術を撃ってもリリーが巻き添えになる。リリーごと俺を殺せないだろう」
余裕ぶった物言いにバルドは歯噛みする。事実、リリーに傷をつけずにクラウスを攻撃することは難しい。
戦うことだけが、自分ができることだというのにそれすらできない。
「……反乱、このため」
だがクラウスはリリーを奪い去るために、この反乱を企てた。首謀者は間違いなく彼だと、バルドは確信していた。
「元からあった計画を乗っ取っただけどな。俺のことが怪しいって言ってる奴らがせっせと反乱の準備してるなんて誰も思わなかっただろうな」
クラウスに注意が集まりすぎていることに危惧は覚えていたものの、他を警戒するにしても砦の中に魔道士が多すぎた。誰が敵で味方か把握しきれないまま数だけ集めた軍勢は、あまりにも脆い。
しかし敵味方を選り分ける余裕は、ハイゼンベルクにはなかった。
この戦は小さな勝ちは収めても、最後には負けるために戦っているも同然なのだ。
「……バルドには何もできない。戦に勝つことも、俺からリリーを奪い返すことも、リリーを幸せにすることも、全部できないんだ」
バルドの焦燥を見透かしたように、クラウスが冷ややかに告げる。
(リーの、幸せ)
戦場で戦い続けることだけが、リリーの望みで喜びだと言い返せなかった。
バルドはローブと剣を剥ぎ取られ、意識もなくただの無力な少女でしかないリリーを見やる。
剣を持たず、ローブの代わりに綺麗なドレスを着て楽しそうにしているリリーの笑顔が脳裏を掠める。
「おい、クラウス、何をもたもたして……くそ、追い駆けてきたのか」
離叛者達が灯を盛って幾人かやってきて、バルドは身構える。
「バルドにリリーは攻撃できないから大丈夫だ。向こうも増援が来てるみたいだから、変な欲出さずにさっさとここから出るぞ」
クラウスの言う様に、自分を呼ぶ味方の声も近づいてきていた。
多少の時間稼ぎとばかりに敵の『杖』が石壁を築いて道を塞ぐ。
「リー……!」
目の前からリリーの姿が消える。
石壁を砕くだけの魔術を放てば地下通路は砦もろとも崩れ落ちて全てを押し潰してしまう。
バルドは壁に拳を叩きつける。
魔術があってもなくても、リリーを取り戻す術はひとつもなかった。
「皇主様! ここにいましたか」
真っ先に駆けつけて来たのは、なぜか水将補佐のカイだった。
「…………水将」
バルドは自分自身への怒りとクラウスへの憎悪で目の前が真っ赤になるのを、深呼吸ひとつでおさめて振り返る。
「あいにく、ブラント将軍は皇都です。神器の件についての返事を持ってきたのですが、アクス補佐官は、クラウスの野郎が連れ去ったと聞いたのですが、神器のことを……」
「神器、関係ない。……水将、いることにして撤退」
補佐官ふたりが戦力外となってしまったとしても、将軍が三人もいるとなればさすがに向こうも砦を落とした後の追撃は躊躇うはずだ。
(リー……)
敵の魔道士がすでに遠くに離れたのか。石壁が消え失せる。
闇に沈んだ長い道筋に、すっと再び追い駆けるだ気力が呑まれてしまう。
この先にあるのがリリーにとって戦場よりもっといい場所なのだろうかと、クラウスがいつか言っていたことが首をもたげる。
「皇主様、今はアクス補佐官のことはお諦め下さい!」
カイに強い口調で窘められて、バルドは鈍い足取りでリリーが連れ去られた方角に背を向ける。
自分が勝手な単独行動をとったせいもあって、すでに東側にも反乱者の兵が回ってしまっていた。
(何もできない……)
襲い来る敵を薙ぎ倒しながらも、バルドの胸にあるのは無力感だけだった。
そうしてゼランシア砦からの兵が到着する一歩手前で、バルド達はモルドラ砦を脱する。
二千の兵を控えさせてあるここから半日の城までたどり着いた時、砦に布陣した初め二万数千いたハイゼンベルク方の魔道士は、一万五千にも満たず三分の一ほども兵を失っていた。
そのほとんどが離叛とみられた。
わずか半日足らずでモルドラ砦は陥落し、ハイゼンベルクはこの日大敗を喫したのだった。




