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棺の皇国  作者: 天海りく
灰色の影
39/115

3-1

 午後の暑い盛り、自室でエレンは侍女と共に荷物を鞄へと詰め込んでいた。

「お嬢様。本当に皇都へ行かれるのにこれだけでよろしいのですか」

 華美さのない普段着のドレスがたった三着に下着などの着替えと、書き物の道具や最低限の化粧道具ぐらいしかない荷に、侍女が心許なさそうに訊ねてくる。

 いくら地方の男爵令嬢とはいえ、皇都に行くには夜会や晩餐会用の煌びやかなドレスと宝飾品ぐらいは持っていくのが嗜みというものだ。

「ええ。ほんの数日、友人に会いに行くだけですから。必要な物があれば後で買い足します」

 しかし、皇主が出陣中に派手な催しをやることはなく、晩餐会にも出席する予定のないないエレンはそのまま鞄を閉じる。

 そもそも自分は遊びに行くわけではないのだ。

 ここには二度と戻ってこられないかもしれない。

「エレン。少しいいか」

 閉めた鞄に手を置いたまま物思いにふけっていると、父のベレント男爵が部屋の扉を叩いた。そうして侍女が部屋から追い出されて、エレンは表情を硬くする。

 父にすでに何か勘づかれている可能性は高い。ここ数日手紙を何通も出していることは、知られているはずだ。しかし、皇都に友人を訪ねに行くという嘘に反対はしなかった。

「そろそろ行くのだな。侍女のひとりも連れて行かなくてもいいのか」

「はい。身の周りのことは自分でできますので。父上のご用件は?」

 当たり障りのない会話から、本題へとエレンは移す。

「……お前の忠心はどこにある」

 無駄な前置きは不要だと諦めたのか、ベレント伯爵は娘に厳しく詰問するわけでもなく、穏やかな口調でそう問うた。

「ラインハルト殿下ただおひとりの元にあります」

 そして迷わずエレンは返答する。

 自分が忠誠を誓った相手はラインハルトのみだ。今のハイゼンベルクの皇家に、尽くす忠もなく、かといってディックハウトに与する意志もなかった。

「ラインハルト殿下がお前を侍女にしたいとご命じになったことを断るべきだっただろうか」

 ベレント男爵がため息と共に自責の言葉を吐き出す。

「父上が後悔されようと、私は忠を誓える主君を得られたことを悔やみはしません。皇太子殿下にお仕えしたことは私の誇りです」

 今でも、ラインハルトと出会った春の日を鮮明に覚えている。

 穏やかな陽射しに照らされた微笑みは、儚げでいて強くもあり最初に持っていた病弱な皇太子から想像していた姿とまるで違った。

 必要とあれば弱みを見せることを厭わない、強い意思を持ったラインハルトに敬意を抱き自分の持てる全てを捧げる覚悟をするのに時間はかからなかった。

 たった四年。だけれど自分の生涯であれほどまでに、生きる喜びを見いだせることはこの先ないと思えるほどに色鮮やかな日々だった。

「……そうか。お前に辛い思いをさせただけではなかったのだな」

 父が確認してくるのに、エレンは静かにうなずいた。

 ラインハルトが身罷った時は自分の魂をもぎ取られたかのような痛みと喪失感にも苛まれた。

 だけれどこんな苦痛を受けるぐらいないなら、ラインハルトに仕えなければよかったと後悔することはなかった。

(私は、幸せだった)

 苦痛が教えてくれた過去の幸福の大きさの方が大事だ。

「父上、私はまだ生きたいのです。皇太子殿下と共に」

 生きて見届けろというのが、主君の最後の命だった。

 全てを見るためには滅び行く者の側にも、勝利する側にもつく必要がある。そのために自分は皇都へと向かうのだ。

「そうか。お前はもう自分の行く道を決めてしまったのだな。家を継ぐ気もどこかへ嫁ぐつもりはないか」

 父親の寂しげな表情に、エレンの胸は罪悪感にちくりと傷んだ。

 今から自分が取る行動は、母を早くに亡くした自分を不器用ながらも懸命に育て信頼してくれていた父への裏切りにもなる。

「父上……」

 次に続けるべき言葉が見つからずに、エレンは黙してしまった。

「かまわない。ベレント家が受けた神器の移送という開戦時の役目も、失われた神器の捜索という役目も終えた。神器はふたつとも皇主様の元にある。お前が家を背負う必要もない。……出立の邪魔をした。遅くならないうちに行きなさい」

 エレンは父の言葉に、うなずくことしかできなかった。

 今度はたくさん言葉を思いついたが、今喉の奥からは嗚咽以外漏れそうになかった。

「……行ってきます」

 そうして最後にエレンはそれだけいって、慣れない仕草で父親と抱き合い生家を後にした。


***


 二日に渡る雨の翌日の昼下がり、モルドラ砦の魔道士らはすっかり疲弊していた。

「黴臭いわ……」

 石造りの堅牢な砦のいたるころから漂ってくる不快な匂いに、廊下を歩くリリーは顔を顰めた。

 雨漏りは砦の西と南の至る所で起こり、東側も石の継ぎ目からじわりと水が染み出していて無事なのは北側ぐらいだった。そして雨が止んで蒸し暑い夜を越した後には、黴の猛威が待ち構えていた。

「掃除までは徹底できないから我慢するしかないな。食料庫が無事なだけでもありがたいと思わないと」

 隣を歩くクラウスが苦笑する通り、地下の貯蔵庫は無事なのは不幸中の幸いでなく、最優先で補修が行われていたからだ。

「あんまり酷い所は綺麗にしたはいいけど、ほっとくとまた黴が生えてくるわよね」

「どうせ後はディックハウト側がやるんだろ。壊れた砦も荒れた土地も全部、向こうが立て直さないといけない。ハイゼンベルクはそう考えると、気楽なもんだな」

「そんなことを軽々しく口にするものではありません」

 クラウスの軽口に厳しく返してきたのはマリウスだった。瀕死の重傷を負ったとは思えないほどに、彼は回復していた。しかし、ローブの左袖が上腕の半端な所からは布の厚みしかなく、傷の深さを物語っている。

「マリウス、軍議に出るのか」

「もう動けるので、出ます。フォーベック統率官、ご自分の立場をわきまえ軽率な発言は気をつけるよう、以前も忠告したはずです」

「お目付役の上官と一緒にいるんだから、そう恐い顔するなよ」

 雷軍の三番手のクラウスが二番手のリリーを示す。

 こういう都合の悪い時だけ上官扱いしてくるのに、リリーはほとほと呆れ果てる。

「……アクス補佐官が、フォーベック統率官を監視しているのか? 婚約したとも聞いたが」

 マリウスの怪訝そうな視線が向けられて、リリーは言葉に詰まりクラウスを見やる。

「求婚はしたけど、まだ返事はもらってない。だから、監視役に不適当ってほどもないだろ。マリウスの方はどうなんだ? 一応嫡男として結婚も考えとかないとならないだろ」

「ちゃんと血を残すことは考えていますが、あなたのように私情で選ぶつもりもありません。……アクス補佐官、監視をするならけして気を緩めず、フォーベック統率官の言動に気をつけてくれ。では、私は先に行く」

 まだいろいろと不審感を持っているらしいが、急いでいるらしくマリウスはすぐに行ってしまってリリーはほっとする。

「ジルベール補佐官も、炎将とは違うかんじに面倒くさいわね」

 今までマリウスとは皇都の軍議で時々顔を合わすぐらいで、必要事項をやりとりするぐらいで会話はほとんどしたことがなかった。

 しかしながら今回の戦で規律と忠義を重んじる性格で、自分に厳しく他人にも厳しい性格だとわかってきた。真面目すぎるところはどうにも苦手だ。

「マリウスが喋るのはだいたい小言だからな。それで、求婚の件、ちゃんと考えてみてくれてるのか? いい返事が聞けるまでこっちに居座ることになるかもな」

 クラウスが冗談めかして言うのに、リリーは視線を足下に向ける。

「ハイゼンベルク側に最後まで残ることになるわよ」

 もう返事は決まっているのだ。自分の気持ちが揺らぐことはない。

「そうか。で、俺は軍議にでていいのか?」

 クラウスがいとも簡単に引き下がって、話題を変えてくる。

 今、クラウスとリリーが一緒にいるのもそのためだった。離叛者が戦中に出たことで砦内の緊張感は高まるばかりだ。普段から忠誠心の薄い態度を取っていて、内通者とも噂されたクラウスを軍議に参加させるのはとの声が高まっている。

 結局今日の軍議をどうするかバルドと炎将、他の統率官らが話し合うことになってその間リリーがクラウスを監視しておくことになったのだ。

(でも、あたしをわざわざつける必要もないのよね)

 自分を閉め出しておきたい意図もあるのか、それとも婚約の噂が響いているのか。軍議の前にバルドと会えていないせいで状況がはっきりしない。

 マリウスが急いでいたのもその件かもしれない。

「あたしもよく知らないわ。出陣前と同じ状態になるかもしれないわね」

 戦の前にもクラウスを出陣させるか揉めて軍議にも参加させず、書類にも触らせなかった。今もその時と変わらない。

「じゃあ、俺は仕事しなくていいわけか。でもリリーがわざわざ監視についてるのはなんでだろうな。バルドの命令じゃないよな」

 クラウスがリリーと同じ疑問を口にする。

「知らないわよ。あたしだって、雨漏りとか黴とかの対処してるときに急に言われたんだから。大人しくここで待ってればすぐ分るわよ」

 指定された部屋に辿り着いたリリーは、だんだん胸騒ぎがしてきて眉根を寄せる。

 あまりいい予感はしない。早く説明があればいいのだが。

「そうだな。俺はリリーとふたりきりだから役得だ」

「……変なことしてきたら斬るわよ」

 長椅子に腰掛けようとしたリリーは双剣の柄を握り、クラウスをじとりと睨みつける。

「しないって。今はリリーとできるだけ一緒にいられるだけでも十分だしな。ほら。だから座れよ」

 クラウスが促すのに距離を空けて座ると、笑われてしまう。

「リリーのそういう所、可愛いくていいな」

「もう、うるさいわね。余計なことは言わなくていいのよ、この駄眼鏡」

 小馬鹿にされているのに腹が立って言い返したものの、妙に子供じみていてリリーはますますふて腐れる。

「それにしても軍議で重要なことなんてどうやって向こうを平原まで引っ張り出すかだろ」

「そうね……あたしもバルドも、できるなら明日にでも攻め込みたい気分だわ」

 いい加減、この雨の対処でふたり揃って退屈になっているところだ。

 しかしバルドは皇主としての立場上はできるだけ戦を有利に進めねばならない。布陣も分らない城内に数だけで攻め込むには、向こうの戦力がまだ有り余っている。退路を取ることすらままならなくなるはずだ。

 焦れて向こうから平野に出てくれれば、バルドの魔術で敵を一掃しやすい。

 しかし相手方もそれは分っているだろうので、じっと待っているだけでは事態は動かない。

 どうやって上手く釣り出すかが、問題だった。

(クラウスが知りたいとしたらそこだから、軍議に出させたくないのよね。だけどやっぱりあたしが外されてる理由が分からないわ)

 考えれば考えるほど嫌な予感は増すばかりで、リリーは拳を硬く握ってバルドの訪れをじっと待つのだった。


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