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外は薄曇りで陽射しは弱いが、湿り気を帯びた暑さがあった。時々髪を揺らし頬を撫でる風も水気を含んでいて重たい。
「雨、降るのかしら」
砦の城壁沿いを歩くリリーは首をもたげて眉根を寄せる。いつもより髪の癖も強くなってきているので、これは一雨くるかもしれない。
「雨、嫌い」
湿気が嫌いなバルドも不愉快そうだった。
「降り出す前に戻らないとな。夏場でもずぶ濡れになるのは俺も勘弁したい。でも、この辺り潜伏できそうな場所は近くにないよなあ」
このモルドラ砦周辺は牧草地帯で開けている。楡の木が所々見える他に、羊や山羊などの家畜がいる。家畜小屋と住人の住処は砦より遠く離れた場所にぽつんと見えるぐらいで、あたりは緑一色だ。
「近くの住人の所は見回ってるし、こんな所灰色のローブでうろついてたら目立つわよね……」
砦周辺は人間より家畜の数が圧倒的に多いほど、住人が少ない。余所者がいたならすぐに気がつくはずだ。
元々なんらかの魔術であちこち移動している灰色の魔道士は、またどこかへ行ってしまったのかもしれない。
「……それにしても結構、傷んでるわね」
ひと休みがてらに城壁にもたれかかったリリーは、ふと壁の傷み具合に気づく。
石で積み重ねて築かれた高い城壁は、苔生しところどころ削れ欠けている所が見られる。砦の内部もバルドやリリーのいる上位の者にあてがわれている部屋は比較的綺麗だが、あまり手入れが行き届いているようには見えなかった。
「ここは決まった城主もいないからな。名目上は皇主様が城主で、二、三年置きに砦の管理者が変わるけどそこまで整備されてない。この五十年はゼランシア砦があれば十分だったしな」
「この砦なんで建てたんだっけ?」
士官学校時代に史学でモルドラ砦の成り立ちも習った覚えはあるものの、試験で合格点を出すために覚えただけですぐに忘れてしまった。
「八百年前。マールベック伯爵と対立」
答を投げたのはバルドだった。
「うーん、あー、建国してからも、領主同士で小競り合いは結構あった……駄目だわ。全然覚えてない」
しかし細切れの解答では答えにたどり着けずリリーは頭を抱える。
「グリザドが国を治めるまでは島はいろんな領主が狭い土地を奪い合って争ってたのが、建国後もあったんだよ。それで、マールベック家は交通の要所に先祖代々の砦を構えてるから、皇家に対しても強気だったんだ。で、皇祖様が死んで権威が薄まってきた八百年ぐらい前に増長して、それに張り合うために建てられたのがモルドラ砦。結局、マールベック家が膝を折ってからは、そこまで重要拠点扱いもされたなかったからな。ここ数年で急に重要性が高まったけど、補修が追いついていなくてこの傷み様ってわけだ」
詳しく説明してくれたのはクラウスの方だった。
「ふーん。でも、結局皇祖様のおかげで国がまとまったようで、あんまり纏まってなかったってことかしら」
グリザドによってこの島はひとつの国となったとはいえど、結局争いが絶えなかったのなら建国前とさして変わらないのではないだろうか。
「……皇家の権威は、魔術。戦以外で魔術は不要」
「まあ、そういうことだな。皇祖様が国を纏められたのは、この島の人間に魔術を与えたからだ。魔術を使うことで与えられた力の偉大さを知り、皇家に畏れと敬意を抱かせる。下手に皇家に逆らったら、魔術を取り上げられてあっという間に命も領地も失うかもしれない。そういうやり方で、千年もやってきたんだよな、この国は」
クラウスが呆れ混じりにつぶやく。
「どっちみち、戦はなくならないってことね……今の皇家同士の戦が終わったらしばらくはそんな小競り合いしてる余裕はなさそうだわ」
五十年にわたる戦で疲弊しきった中で、領地争いなどできるはずはない。しばらくはディックハウトの皇主を祀り上げて、荒れた土地を整え財政を立て直すことで手一杯になるだろう。
「戦闘があるとしたら、残党狩りぐらいだろうな。……だいぶ曇ってきたな」
クラウスが見上げた空は、空を出た時よりも雲が厚くなってきていた。
三人は雨が降り出す前に門へと帰り着くために再び歩き出す。
「皇祖様ってなんなのかしら」
リリーは未だに自分の中で生き続けているらしい遠い祖先の鼓動に意識を傾ける。
どこからやってきたかもしれない男は、人々に戦う力を分け与えこの島に君臨した。一体何の目的で彼がこの島に現れ、国を築いたかは誰も知らない。
「こんな島ひとつ手に入れても特にはならなそうだよな。よく知らないけど、大陸っていうのはこの島よりもっとずっと大きいんだろ」
島から遠く離れた場所に広大な大陸がみっつあるという話だが、数百年交流がなく大陸が実際どんな場所であるか知る者はいない。
「……灰色とグリザド、似ている」
「そうね。どっから来たかもわからないし、変な魔術使うし」
灰色の魔道士が突然姿を消したり現わしたりする魔術は、見たことがない魔術だ。グリザドのみが使用していた神聖文字に似た文様が、魔術を使った時に現れてもいる。
そうして、彼はグリザドが何者であるか知っているらしい。子孫であるリリーやバルドですら知り得ないことを、灰色の魔道士はしっている。
「第二のグリザドになるつもりとかな。でも、今のところ戦に関わってそうな気配はないよな」
「こんな状況見て、新しい皇祖様になりたいなんて思うのかしら。やだ、降り出してきたわよ」
まだ門は遠いというのに雨粒が落ちてきて、リリーはフードを被る。
「走る」
「走るのもだるいなあ」
「だったらずぶ濡れになりなさいよ。あたしは走るわ」
リリーはバルドが共に駆け出して、その後を追ってクラウスも結局走り出す。
しかし間もなく土砂降りになって城内に駆け込む頃には、三人とも濡れ鼠になってしまった。砦全体が滝に打たれているような音が、ごうごうと響くほどの大雨だった。
「ああ、もう嫌。びしょ濡れだわ」
「走った意味なかったな……」
毛先やローブから水を滴らせてリリーは顔を顰める。クラウスも濡れた眼鏡を外して顔を拭っていた。
ぐっしょりと全身が濡れたバルドはひたすらに無言で不快感に顔つきが悪くなっている。
「……何かしら」
早く着替えてしまいたいとそれぞれ自分の部屋に戻ろうとしていたが、慌ただしく魔道士達が走っているのを見て三人は足を止めた。
「雨漏り?」
事情を聞いてみれば砦の南側の雨漏りが酷いらしく、すでに水浸しになっているそうだ。
「補修は全然間に合ってなかったんだな。ヴィオラさんも様子見てるらしいし、俺らが急いでどうにかなるわけでもないから、先に着替えた方がいいだろ」
「うん。さっさと体乾かしてきた方がいいわね」
戦闘になるならこのまま駆けつけるが、雨漏りではどうしようもない。
そうして濡れた服を着替えて髪は湿ったまま、雨漏りがしているという砦の南側に行って絶句する。
「……これ、天井のどっかに穴開いてるんじゃないの?」
下級魔道士の寝床となっている広間の天井からは、雨水が大量に流れ込んできていて床はすでに水たまりだった。魔道士達が余った毛布を敷いて水を吸わせているが、焼け石に水といった状態だ。
「大雨、久方ぶり。補修予定間に合わず」
先に来ていたバルドが腕を組んで考え込む。
「ここ弱ってて、補修するつもりで間に合ってなかったのね」
どうやら元々この一画は補修する予定だったものの、実際補修を行う前に大雨が降ってついに限界がきたということらしい。
「砦のあちこちが傷んでるから、間に合いませんわ。人手も予算も足りていないのですもの」
部下達と話をしていたヴィオラがうんざりした顔でやってくるのに、リリーは少し身構えてふとまだクラウスが来ていないことに気づく。
「バルド、クラウスは?」
必要以上に炎将と距離を詰めないように気をつけながら、リリーはバルドの顔を見上げる。
「見ていない」
「あら、そういえばクラウスは皇主様とリリーちゃんと一緒のはずでしたわねえ。まったく、勝手は困りますわ」
ヴィオラが近くにいた部下を呼んで、クラウスを探しに行かせる。
(クラウスは、もう出て行く準備してるんだろうけど……)
クラウスを軟禁にするには、離叛者であるという確たる証拠もない。本人がいくら出て行くと口にしていても、いざとなってそんなことを言った覚えがないと言われてしまえばそれまでだ。
なので監視とは言ってもそこまで厳重というわけでもなく、隙を見つけてはこそこそと何かやっているのだろう。
リリーもクラウスが離叛するのは知っていても、いつどうやってまでかは聞いていない。彼も出て行くことは言っても、具体的なことは何も話さない。
詮索してどうするつもりか知ってしまったら、いくら補佐官の責任を負う気はないとはいえ何もしないわけにもいかない。
クラウスも面倒なことになるのは分っているのだろう。
お互い必要以上に立ち入らないのは、昔と変わらない。
(変わらない、のかしら)
以前のクラウスは単に無関心だからこそリリーの領域には踏み込んでこなかったが、今は何かが少し違う気もする。
「おっと、下も酷いな」
そんなことを考えていると、クラウスがひょっこり顔を出した。
「あらあ、探しに行かせた子とは会いましたこと?」
「会いましたよ。上の方も水がすごかったぞ。屋根の方の天井に元から入ってた罅が広がって一気に崩れたみたいだな」
ヴィオラの訝しげな視線に素っ気なく返して、クラウスが天井を指差す。
「排水……」
バルドが止めどなく溢れる水を見ながら言うのに、リリーも床を見る。このままではこの周囲は水が溜るばかりでしかないだろう。
「穴を塞ぐのもすぐにとはいかないわよね」
「昇るだけでも、時間がかかりますわ」
モルドラ砦は三階建ての砦だ。この大雨で高所での修復作業となると、そう簡単にはいかないだろう。
「今、向こうに攻め入られると分が悪いわね」
このままだと整備不良で自滅というなんとも間抜けなことになりそうだった。
「向こうもおそらく、雨漏り」
「皇主様の仰る通り、それなりにやりましたしこの大雨だと向こうも雨漏りぐらいはしてますわね……別の場所も雨漏りがしているようですので、わたくしが見てきますわ」
新たな雨漏りの報告にヴィオラがため息をついて、状況を見に行く。
「とんだおんぼろ砦だったわけね」
見かけは巨大で頑丈そうなのに、中身はがたが来ているというのはハイゼンベルクの砦らしいといえばらしいかもしれない。
そんな皮肉なことを考えるリリーは、また面倒なだけで楽しくない仕事が増えたと肩を落とす。
「築八百年で大きいからなあ……。直しても直してもきりがなさそうだな」
「ここまで酷いのは、もうないと思いたいわ。バルド、どうする?」
「砦内、南と西を重点的に確認」
その辺りの補修が進んでいないらしく、魔道士達は手分けして雨漏りしている場所や、補修の必要そうな所を探すことになった。
将軍補佐官を含めた一部指揮官は軍議に使用している部屋で対策を講じることになり、リリーとバルド、そうしてクラウスもその場を離れることとなった。
「雨が長引かないといいんだけど……」
しかしリリーの願いも虚しく、雨が止む気配は一向になかった。




