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棺の皇国  作者: 天海りく
永久を乞う者達
24/115

 翌朝、リリーはバルドの執務室を訪ねていた。

 体調が回復したことだけは告げておこうと思ったのだ。だがいざとなるとどういう顔をして、どんな声をかければいいか分からなくなっていた。

(あたしのこと、選んでくれたのに……)

 リリーは自分の心臓に触れて眉根を寄せる。

 ラインハルトを救うには、もはやこの心臓を彼に譲り渡すしかない。だがバルドは兄の命を永らえさせる可能性を捨てたのだ。

 どれだけバルドにとって重い決断だったことだろう。

 しかし自分はバルドの側にいることを選ぶことへ嫌悪感を覚えていると、吐き出してしまっていた。

(……あたしが望む望まないとかもう考えないで、バルドが一緒にいたいって言うんならそうするべきなのかしら)

 リリーはいつまでも開けない扉の前で悶々とする。

 バルドがたったひとりの兄を見捨てるまでの決断を、蔑ろにすることはしたくない。

 だけれど、想いに報いるためだけに、この曖昧な気持ちのまま彼の側にいることが正しいとも言い切れなかった。

「アクス補佐官、こちらだったか。殿下なら、昨日また王宮へ行かれて数日はこちらにはいらっしゃらないかもしれないということだ。体調はよいのか」

 『杖』の統率官である壮年の男性に声をかけられて、リリーは答を出すのが先送りにされたことに安堵する。

「はい。仕事に支障はないです。じゃあ、軍議は将軍抜きですね。クラウスは来てます?」

 朝になったらまた様子を見に来ると言って、宰相家の屋敷に昨夜には帰ったクラウスとはまだ今日は会っていない。

 統率官もまだ見ていないらしく、軍議は少し待ってみることにした。そしてそれからそう時間をおかずにクラウスが顔を見せた。

 このところ軍議はクラウスがいなかったり、バルドと自分が偵察にでていたりとなかなか将軍と補佐官、統率官が揃うことが少ない。

 とはいえ北の砦奪還の大戦の前ともあって、兵の動きはほとんどなく戦況事態は平穏そのものだった。しかし嵐の前の静けさという状態なので、魔道士達も安穏とはしてはいないが。

「……離叛者はちょっと出てるのね」

 だが大戦の前に寝返ろうとする者もぽつぽつといるらしく、処罰の報告がいくらかあがっていた。

 バルドがいくら神器を得て雷皇と持ち上げられていようと、離叛者を全て繋ぎ止めておくことはできない。これでも減っている方だ。

「味方同士で殺し合ってるっていうのは、お粗末だな……」

 『剣』の統率官であるクラウスのぼやきに、残る『玉』と『杖』の統率官がお前がこの場での一番の不安要素だと言いたげな顔をする。

「まあ、あたしらは皇都から逃げ出しそうなのがいないか気をつけるぐらいしかないわね」

 真っ先に逃げ出しそうなのはクラウスだと、リリーも思いつつ定型の対処を口にする。

 それからは演習の予定や、負傷者の復帰時期などをあれこれ話し合って解散することになった。

 リリーはそのままクラウスと部屋に残った。

「リリー、バルドが王宮ってことはまずいんじゃないか? リリーと引き離しにかかってるだろ」

「……さあ。本当に、もう危ないのかもしれないし。あんた、皇太子殿下の容態って分からないの?」

 ラインハルトの体が一刻の予断も許さない状態である事には、間違いない。

 今、何を思って彼は兄に死が訪れる時を待っているのか。

「いっそ、さっさと皇太子殿下が死んでくれるといいんだけどなあ」

 クラウスが机に肘をついて言うのに、リリーは素直に同意はできなかった。

「なんだよ。リリーだってその方がいいって思ってるだろ。そうしたら、誰もバルドに命令できなくなる」

「……そうね。あたしはあの人のこと嫌いよ。でも、たぶんバルドも一緒にどっか壊れちゃいそうで恐いわ」

 いつまでもバルドは罪悪感をひきずり続けるだろう。きっと死んでもラインハルトは、バルドを支配し続けるのだ。

「リリーは、相変わらずバルド優先だな。俺からすればどうでもいいけどな。どっちみち、ハイゼンベルクは終わりだし。皇太子殿下が死ぬまで、どっかに隠れてた方が一番いいかもな」

「行方不明になったら、それこそ処罰の対象じゃない。ブラント将軍しつこそうだし。将軍と戦って終わりは悪くないけど」

 水将のラルスとは二度手合わせしてもらっていて今の所全敗だ。勝てる見込みは薄いとはいえ、本気で命を賭けて剣をあわせられるならいい。

 将軍と実戦ができると考えると、こんな状況でも気分は高揚してくる。やはり戦うことが好きだった。

「リリー、目が臨戦態勢になってるからな。俺は正面切って将軍の相手するのは勘弁だ。少し様子見でできるだけ一緒に行動してるか。家帰っても父上は不在でこれといって情報もなかったしなあ。とりあえず、アンネリーゼ義姉上には適当に様子見てもらってる」

「……あんた、その兄嫁どうするつもりなのよ。責任とる気あるの?」

 クラウスのために夫殺しをしたアンネリーゼのことは、あまりクラウスの口からは聞いていない。

 アンネリーゼの人となりはよくはしらないものの、あの人形にように綺麗な少女がそこまでやるとはよっぽどの覚悟だろうに。

「別に俺が兄上殺してくれって頼んだ訳でもないし、一回も寝てもいないのに義姉上が勝手に暴走しただけだからなあ。そっちも面倒だ。なあ、リリー、いっそ俺と駆け落ちしないか?」

「本当にどうしようもない駄眼鏡ね。嫌よ、あんたの道連れは。道連れにする気もないんだから」

 クラウスが味方になってくれる理由は、今の所まったく見当がつかない。彼のことだから何かよからぬことを企ててはいるに違いない。

(でも、あたしを助けてはくれてるのよね)

 信用できないところもあるとはいえ、気を許せる部分も確かにあるのだ。しかし友人と言うにはまだささやかな抵抗があった。

「道連れにされたって、俺は別にいいけどな。でも、すっかり元気になってよかったな」

 いつものへらへらとした締まりのない笑顔ではなく、ほっとした優しい笑みをクラウスが浮かべる。

 彼のこんな笑い方はあまり見たことがない表情な気がした。

「……元気にならないと、戦えないもの」

「そうだな。まあ、水将の相手はリリーに任せとく。とにかく、一緒にいて妙な指令が来たら警戒しておくか。皇太子殿下も、さすがに今の俺にそうそう手出しはしにくいと思うけどな」

「宰相家が没落したら後釜狙いで面倒なことになるのよね」

 あいかわらずハイゼンベルク内部だけでも火種が多い。上手く治められるのはラインハルトぐらいしかいないだろう。

 しかしと、リリーはふと気付く。

「…………ねえ、もしもの話だけど、皇太子殿下が元気になって、即位したら宰相の地位ってそんなにいいものじゃなくなるの?」

「んー、まあ、まずないと思うけどあの皇太子殿下が即位したら宰相に権力握らすなんて真似、絶対にしないだろう」

 これはクラウスも下手に自分に関わるとまずいのではないのだろうか。

 リリーは嫌な予感に眉根を寄せる。

「なあ、皇太子殿下、危篤状態なんだよな」

「……そうみたいね」

 もういっそ全部話してしまおうかと思ったが、やはり最後の核心だけには触れられなかった。

 そうして他にすることもなくリリーの執務室に移った頃、軍司令部より命令が届いた。

「……離宮にディックハウト信奉者が出入りしてる様子があるから偵察に行けってさ。あたしとクラウスで」

 リリーは書簡の中身を見て辟易する。

「またわかりやすいなあ。そう大人しく出向いてやる気にはならないな」

「でも、命令違反で拘束される理由できちゃうわよ」

「だよなあ。俺は離叛疑いがあるし。……斥候名目で何人か行かせておこうか? ちょうどすぐに命令きいてくれそうな奴らがいるし」

 クラウスの提案にリリーは少し考えてから、ああとうなずく。

「……あんた襲った奴らね。時間稼ぎ程度にしかならないんじゃない?」

「時間稼ぎが今は大事だろ」

 確かに、ラインハルトが身罷るのをここでじっと待つことが、最良の手段と言えるだろう。

「でも、それぐらい皇太子殿下だって考えているはずでしょ。こんなあからさまな誘い、あの人らしくないわ」

「とにかく拘束されにようひとまず言い逃れするために、離宮の偵察はさせとこう」

「……頼むわ」

 リリーは側においてある双剣を撫でながら、不安に表情を曇らせたのだった。


***


「……何、誰がいたの?」

 昼を少し過ぎた頃、斥候に出ていた魔道士三人の報告にリリーは怪訝な顔をして問い返す。

「だから、あの娘だった。カルラ・バシュ。ディックハウト信奉者の裏切り者」

 カルラは数ヶ月前に、バルドの婚約者候補だった伯爵令嬢だ。実際は神器を奪わんとしたディックハウト信奉者で、皇都周辺のディックハウト信奉者掃討作戦にラインハルトが利用した。

 現在、投獄中だったはずだ。

「カルラ嬢で本当に間違いなかったんだな」

 クラウスが念を押して、部下の魔道士達がうなずく。リリーはクラウスと顔を見合わせて唇を引き結ぶ。

「一緒にいた、ディックハウト信奉者ふたりの顔は確認できなかったの?」

 彼らの報告では、ディックハウトの魔道士を示す白いローブを着た男ふたりが近くにいたそうだ。

「見えなかった。カルラ・バシュを殴りつけて何か怒鳴っていた。忠誠心が足りないとかなんとか言っていたと思う」

 カルラになされた仕打ちにリリーは眉を顰める。

「分かったわ。報告ご苦労様、後はこっちで対処考えるから」

 斥候の魔道士達を執務室から出してからリリーとクラウスは、お互いの困惑した顔を見合わせる。

「カルラ嬢、使ってきたか。俺は行く義理は全くないけどな……」

 どうする、とクラウスが問いかけてくるのにリリーはうつむく。

「まさか、こういう使い方するためにあの人カルラを生かしておいたのかしら」

「だったらなおさら、行く必要ないんじゃないか? 投獄じゃなかったら処刑されてただろう。どの道死ぬ人間のために動く必要はないだろ」

 突き放した言い方ではあるが、クラウスの言うことは正しい。

 掃討作戦で戦闘に参加しなかったディックハウト信奉者も多く処刑され、投獄されてハイゼンベルクへの忠誠を強要され自害を選んだ者も多くいた。カルラの異母兄も自死を選んだひとりだ。

「あの子があたしのせいで酷い目に合うのはね……」

 リリーは最後にカルラを抱きしめたぬくもりを思い出す。

 同い年のカルラはバシュ伯爵の愛人の娘で、娼婦をしていた母と共に下層でずっと暮らしていた。バルドとの縁談のために正式に伯爵令嬢として迎えられたのだ。

 ほんの少し育ちが似ていた彼女は、初めて同性で親しくなれそうな相手だった。

「で、その代わりリリーが酷い目に合う必要はないだろ」

「……そうね」

 ここで情報を報告して次の命令が下るまで、またじっと息を潜めて時間稼ぎをするのが最善の策だ。

(誰かのために動くなんて柄じゃないけど)

 自分は自分のためだけに戦っている。

 剣を合わせる瞬間の高揚と、勝利の時に得られる快楽。

 大義なんて必要ない。戦いたいから剣を抜く。

(そうね、それがあたしだわ)

 目の前に心底楽しめそうな勝負の舞台が整えられているのに、じっと待つだけの自分はもっとらしくない。

「あたし、行くわ」

 リリーは傍らに置いていた双剣を穿く。

「……そんなに戦いたいのか?」

 クラウスが呆れ果てた顔をして言う。

「次の大戦まで待てないんだもの。助けてくれてありがとうね。生きて帰れたら借りは返すわ」

 笑顔は自然と浮かんだ。

 一応は友人らしく自分を助けてくれたクラウスへの感謝と、これから待ち受ける戦闘への期待感のふたつにそこまでどん底という気分でもなかった。

 クラウスはこれ以上何も言わずに動かなかった。

 そうしてリリーはひとりで離宮へと向かった。


***


 ラインハルト危篤の知らせを受けて、バルドは王宮の私室で再び眠れない一夜を超してじっとしていた。

 可能性を切り捨てた罪悪感と待ち受ける喪失への怖れで、兄の姿は眠っている所を一度見たきりだ。だがまだリリーと兄の両方を失わずにすむ術があるのではないのかという、往生際の悪い思考も頭の中を巡っていた。

 そのまま軟禁状態にあるクルトに話を聞きに行くことを決めた。

 上から見ると正方形をしている白壁の王宮の外観は単調だが中は複雑だ。ここで産まれ育ったはずのバルドですら、内部の詳細は知らなかった。

 だがこれから向かうのはよく知っている場所だ。

 幼少期を過ごした王宮の深部。まだ魔力を制御しきれなかった頃に、何度も雷を落としては天井に穴を開け、壁を砕き床を焦がした。常に『杖』の魔道士がいたので、全壊は免れたとはいえ、他の棟より壁や床は真新しい場所があちこちに見える。

 植物や花を象ったタイルで修復跡は誤魔化されているとはいえ、やはり王宮の一角としては継ぎ接ぎだらけで少々不格好だ。

「……いいか」

 バルドはクルトが居る最低限の調度品しかない部屋に入って問う。たまに尋問が行われる以外にすることもなく、クルトは退屈を持て余しているらしかった。

「私はリリーが子供をふたり産んだら帰ってもいいのだろうか。誰も答えてくれない」

 来た時の粗末な服ではなく、皇族としても問題のない上物の格好をさせられたクルトがバルドに訊ねてくる。

 山奥で極力人と会わないように暮らし、代が変わったり人に正体を詮索され始めると狩り場や物を売り買いする村を変えてきたというクルトには、ここでの生活は不自由らしかった。

「リリーはいつ子を産むのだ?」

 何も答えないバルドに質問が重ねられる。

「……リーは俺の子は産まない」

 神器の容れ物であることを受け入れきれていないリリーが、次に血を繋ぐことはないはずだ。何よりも自分が触れるのを彼女は拒むだろう。

「なぜ。伴侶は病で伏せっているもうひとりなのか? もうひとりに神器を移すとラルスという男は言っていたが、リリーの子でないといけないのだ」

 困惑した様子のクルトに、バルドも困る。

 どうしてもリリーの産む子でないといけない理由が見当たらなかった。もはや他の血を受け入れ薄まった皇家の血を取り入れても、これまで保ってきた血の純度は損なわれる。

 薄まってもよいのなら皇家の血さえ汲んでいれば、ラインハルトにも移せるのではないのか。

「なぜ、リーの子」

「祖先より決められているからだ」

 クルトの言うことはこの一点張りだ。祖先が決めたことを疑いもせずに従順に従うばかりで明確な理由は持たない。

「…………神器、リーの子に移さねばどうなる」

 最も重要な容れ物の必然性すら明らかになっていない。

「神器が神器でなくなってしまう」

「神器の必要性」

 そもそもそこまでしてなぜ神器を残さねばならないのか。まったくもって不可解なことばかりだ。

「我々は器を作り神器を守護する者。神器なくしては存在意義がない。心臓が止まるとき、終わりがくる」

「終わり……血統絶える」

 守護者であり器としての役目を担ってきた皇家の純血は絶えてしまうということだろうかと、バルドは聞き返す。

 他に兄弟を持たないリリーが終わりである可能性は、グリザドより示唆されてはいる。

「終わりは終わり。全てが終わる」

 不吉な預言めいた言葉にバルドは眉を顰める。

「全てとは」

「……全てとは全て。祖先の死は我々の死」

 まったくもって意味不明だった。皇家滅亡ともとれるかもしれない。もはやハイゼンベルクは死に体。ディックハウトは十歳の幼い皇主のみが唯一の皇族で、ただの傀儡でしかない。

 皇家はとうに形骸化してしまったも同然である。この先滅びたとしても困る者もいなさそうだ。

「リーを生かしたまま、取り出すは不可? リー以外に移すのも不可?」

 何度もされただろう質問をバルドはクルトにする。

「子から子へ継ぐ定めで、他は試したことはない」

 やはり兄を救う術はもうないのかと落ち込んだバルドは、現実を受け入れられない自分に再び落胆する。

 このまま自分は全部なくしてしまう。

 何を捨ててでもリリーが欲しいのに、手に入れる術もない。

 バルドが気落ちしたまま部屋を出ようとしたとき、少し遠くでどおおんという音がして、足下に地響きが伝わってきた。

「……奇襲?」

「なんだい?」

 クルトも不安げに顔を上げて窓の外を見やる。しかしここからでは中庭の様子しか見えない。

「ここで待機」

 バルドはクルトを部屋をに残して出て屋上の空中庭園へ繋がる階段を駆け上る。

 皇都は海辺の丘の頂上に王宮を頂き、下へ螺旋状に巻貝のように家々が連なっている。見下ろせば下方、以前ディックハウト信奉者掃討作戦で戦闘が行われた区域で煙が上がって建物が倒壊しているのが見えた。

 そして新たにまた爆破が起きて砂塵が舞う。

「クラウス……?」

 その派手な爆破と感じる魔力はおそらく彼だろう。

 いったい何事が起きているか分からないが、バルドは急いで階段を下りて兄の元へ報告へ向かうことにする。

「リー……」

 そうして胸騒ぎがしてリリーの名を無意識のうちにつぶやていた。


***


 離宮の森は掃討作戦の傷痕も生々しく、雷にふたつに裂かれた木々や地面が抉れるほどに跡形もなく削り取られた場所はそのまま放置されてある。

 近くを通る荷馬車に乗せてもらいここまでやってきたリリーは、足下を仔細に確認しながら進む。

 新しく人が入ったような形跡は見当たらない。歩いている内に離宮の側まできてしまっていた。

(またここに来るなんて思わなかったわ)

 リリーは離宮を見上げて側の木々の合間に身を潜め、一本の木にもたれかかる。

 あの時、皇都で居場所を失って、ここまできたのだ。自分にはもう戦うことしかなくなっていた。

 バルドの側にいたいと自分の本当の気持ちを見つけたはずだったのに、また迷ってここまできてしまった。

 本当に、ここにやってきたのは自分のためだ。自分が自分である確かなものが欲しくて、仕掛けられた罠に自ら飛び込んだ。

(あたしの本当の気持ちって何なんだろう……)

 リリーは屋敷の方へ出入りする人間がいないか確認しながら自問する。

 バルドが好きだった。

 ずっと自分を見ていてくれて、好きなものを覚えていてくれたり、いつだって不器用ながらも優しかったり、そんな所が好きだった。

 どうしようもなく弱くて臆病な所も、全部抱きしめていたいと思えた。

 この七年、側にいて知った彼が好きなのだという感情も、結局この心臓がもたらしたものなのだろうか。

 剣を合わせた時の高揚、寄り添い合っているときの平穏。

 思い返す全てが胸を締め付て、甘く苦い感覚が体を満たす。

 リリーは思考が自分の内側に偏り過ぎているのに気付いて、小さく頭を振りさらに屋敷へと接近する。

「人が入った様子はないわね……」

 つぶやいて、リリーは奇妙なことに気付く。先に斥候に入った魔道士達の痕跡すらまるで見当たらない。

 斥候だからそう侵入の跡を残すのも不自然かもしれないが、一度ひっかかってしまえばやけに気になる。

 リリーが足を止めて思案していると、近くで足音がした。隠れる気はないらしく枝を踏み割る音が鳴る。

 木陰に身を顰めて音のした方を見やると、カイの姿が見えた。

「嬢ちゃん、出てこい。いるんだろ」

 カイが抑揚の少ない声で呼びかけてくるのに、リリーは近くにラルスがいないか警戒しながら姿を現わす。

「ここにいます。……カルラはもしかしていないんですか?」

 報告自体が嘘ではなかったのかと疑いながら、リリーは問う。

「いねえよ。そもそも斥候の奴らはここまで来てない。兵舎から出てすぐにラルスと俺が捕まえて、偽の情報を報告させた。……にしても、カルラ・バシュとは相当、仲がよかったんだな」

「……別に、戦闘したかったからちょうどいい口実があったからです。いないなら面倒なく戦えて好都合です。ブラント将軍もその辺にいるんですよね」

 リリーは双剣を抜いて構える。

「いや、皇太子殿下の策がちょっとばかし狂ったからまだついてない。だが、じきにクラウスを片付けてこっちにくる」

 カイも杖を構えて言うのに、リリーは眉根を寄せる。

「……なんでクラウスが」

 クラウスは兵舎に残っているはずだった。まさか追い駆けてきたというのか。

 ラルス相手となると彼が勝てる見込みはい。

「さあな。あいつには、あいつになりに考えがあるんじゃねえのか。それまでは俺が相手してやる。病み上がりの嬢ちゃんに勝てるかどうかは五分五分ってとこか?」

 リリーはクラウスの心配を振り払い、いつでも魔術を放てるように指先に魔力を集中させる。

「病み上がりって言っても、そこまで弱ってる訳じゃないですから……っ!」

 リリーは言葉もなく踏み込んできたカイが振り下ろした杖を剣で受け止める。

 以前より重たく感じるのは、自分の体調のせいなのか実戦だからなのか。

(どっちでも、いいか)

 演習とは比べものにならない高揚感に、リリーは薄く笑う。

 双剣に炎を纏わせると、カイが杖の周りに透明な防壁を作りって後退する。

 彼の動きが止まると同時に、炎を押し出す。

 だが土壁が眼前に出来て、炎を塞がれあっという間にリリーは壁に囲われそうになる。

 『杖』の攻撃は直接的でないぶん、よほど力量が圧倒していなければ下手に力押しすると隙を作ることになる。

 リリーは壁に押し潰される前に、勢いよく右の剣から水を噴射して壁に穴を開ける。

 その隙をついて背後からカイが杖の先を突き込んでくる。

 くるりと身軽に体を翻して、もう片方の剣でカイの頭上に雷を落とす。

「……やっぱり、強いな」

 カイは直撃を避けながらも、その右腕は雷を受けてローブが少し傷んでいた。咄嗟に魔力を防御に切り替えたらしい。

「どうします? 戦う気がない敵はあたしは相手しませんよ」

 半分は本音、半分は挑発のつもりでリリーはカイに笑いかける。

「あいにく、死ぬまで降参はしねえよ」

「それなら、遠慮せずに行きます」

 リリーが今までよりさらに俊敏にカイの懐へ飛び込んでいく。

 得物はあちらが長く打ち込んでくるのが早い。

 右で受け止めるが、力負けして肩まで鉄を纏った杖の先が襲ってくる。

 寸前でリリーは避けて、そのまま左の剣から雷を放つ。

 カイが舌打ちして防壁を作るが、急ごしらえの薄い壁を雷が貫いて、先ほど一度攻撃を受けた場所に二度目の攻撃を受ける。

 防壁に力が弱まってるとはいえ、ローブが傷んで防御力が下がった場所への攻撃は確実にきいていた。

 だが、さすがに場数を踏んでいるとあってカイはこの程度は怯ませず、隙ひとつ作らずに反撃を繰り出してくる。

 手負いとは思えぬ早い突きと威力に、リリーの方が力を入れ損じた。

 左肩を石突に打たれる。

 体を反らしてなんとか骨を砕かれるとまではいかなかったが、打たれた所は熱を持ってずきずきと痛む。

 今度は左の脇腹に来る。

 リリーは水流を纏わせた左の剣で受けて杖を逸らし、カイが杖を引くの見計らって右の剣から渦巻く炎を放つ。

 カイが素早く杖を旋回させて炎を散らす隙に、杖の攻撃範囲からリリーは出る。

 リリーもカイも、ずいぶん息が上がっていて顎から汗が滴り落ちた。

 お互い一歩も動かずに、緊張を保ったまま無言で睨み合う。

(首を狙わなかった……。心臓止まったら困るからかしら)

 カイは喉元も狙えたはずなのに、最初から肩を標的にしていた。 

 ラインハルトに神器を移す前に、心臓が止まっては都合が悪いらしい。

「……ベッカー補佐官は、あたしを弱らせるのが目的ですか」

 ラルスではなくカイが先にきたのは、おそらくそうだろう。

「最初から本気の嬢ちゃんとやり合ったら、ラルスは殺しちまいそうだって言うからな。腕一本でも潰しとけば、手加減しやすいんだとさ。俺が先に足を潰せたら、上出来ってとこか」

「散々いたぶって、弱らせてから心臓を抉り出すなんて悪趣味」

 鼻で笑いながらも、リリーは隙を作らない。

 病み上がりのせいか魔力の減りが早い。ある程度は温存して、ラルスとの勝負に備えるべきか。

「そう、だな!」

 先にカイが動く。

 殺意はないはずのに、彼の黒い瞳は荒々しく狂暴な光に満ちている。

 誰もが自分やバルドのことを獣のようだと蔑むけれど、みんな同じだ。

 生死を賭ける瞬間、どんな大義を持った者だろうと獣に変わる。

 リリーは自分と同類になったカイを前に、愉悦の笑みを浮かべるのだった。


***


 時は少し遡り、リリーが兵舎を出てすぐのことだ。

 それは、偶然だった。

 リリーを見送った後にクラウスも兵舎を出た。彼女を追い駆けるためではなかった。

 どれだけ止めてもリリーが戦うことを避けるとは思わなかったし、自分が加勢してもラルスとカイふたり相手では勝算がほとんどないと冷静に判断していた。

 確実に水将に対抗するには、バルドを引っ張り出すしかないと考えて王宮へ向かう途中のことだ。道の先に馬で下へ行くふたつの姿が見えたのだ。

 顔はよく見えなかったが、ラルスとカイで間違いないと思った。

 その時自分が斥候を使うのはラインハルトに読まれていたのだと悟った。

 おそらく斥候達は兵舎に出てすぐにラルスらに捕まり、偽の情報を持ち帰らされたのだ。将軍命令でもあり、離叛の怖れがあるふたりを始末するためといえばまず躊躇わないだろう。

 そうしてリリーが動くのを確認してから追い駆け始めたのだ。

「あいつら、あとで覚えとけよ」

 そうつぶいてすぐにクラウスも馬で彼らを追いかける。

 それほど急がずにふたりは比較的ゆっくりと進んでいた。クラウスは必要以上に近づかないように距離を保って追い駆ける。

 最下層近くまで行くと、馬上で剣を抜いてクラウスは風の刃をラルスの馬めがけて放つ。ラルス本人を狙っても、ローブに阻まれて大した痛手を与えられないからこそ落馬を狙うつもりだった。

 風の刃はなんとか狙い通り馬の右足を斬りつけることができる。

「ラルス! クラウスか!?」

 ラルスが危うく落馬しかけながらも、器用に受け身をとって怪我ひとつなく立ち上がる。

「……ブラント将軍、ベッカー補佐官、どこに向かう気ですか?」

 クラウスは剣を抜いたまま距離を詰めすぎずに馬から下りて、ラルスに問う。

「乱暴な聞き方だな-。君、これは言い逃れできない反逆罪だよ」

 笑顔を崩さずにラルスが腰の剣に手をかける。

「そうですけど、婚約者が殺されそうなのでなりふりかまってられなくて」

 クラウスも薄笑いを浮かべて剣を構える。近くの下層の住人が何事かと怯えながら家の中へと入って行く。

「なるほどー、うーん、どうしようかな。カイ、僕は後で行きますから先にアクス補佐官ことお願いしまーす」

 ラルスがカイに命じて、彼は無言でうなずいて馬を再び駆けさせる。

「……『杖』ひとりにリリーの相手って無謀すぎじゃないですか」

 てっきりふたり揃って自分を標的にするか、ラルスが先に行くかと思っていた。

 彼らの狙いがはっきりと分からない。

 リリーがひたすら隠していることに理由があるのだろうが。

「もし死んでもカイなら、文句言わないよ。さて、どうしようかな。ここで戦闘は避けたいんだけどなー。でも、君を始末するのにはちょうどいい口実だよね」

 ラルスが柄に手を置いたまま、同意を求めてくる。

「……俺としては、ここで戦闘してもいいですよ」

 とにかくラルスの足止めができればいいのだが、とクラウスは思案する。さすがにラルスも街中で戦う真似はしたくないはずだ。

 わざわざ皇都の外までリリーを誘い出しているのだから。

(バルドに気付かれたくないからだ)

 そう勘づいたクラウスは、適当に空き家へ向かってひと思いに魔術を放つ。

「あーあー、罪状増えるよ。そうまでしてアクス補佐官に君が執着するする理由は何かな。全部、聞いた?」

 崩れた建物を見やりながらラルスが言う。

「全部って、リリーの出自ですか」

 誘導にやすやすとひっかかってくれる相手ではないと分かりつつも、クラウスは退路を確認しながら訊ねる。

「その様子じゃ、肝心のことはしらなそうだねー。まったく、こうなったら闘うしかないね」

 ラルスが抜刀する。

 ごくごく平均的な幅広の両刃刀から風の刃が放たれる。彼の得意とするのは水魔術で、風魔術はそう得手でもないらしく対処できないほどの威力ではない。

 クラウスはラルスの攻撃と一緒に石畳ごと炎の魔術で爆破して土煙を作る。

 そしてすかさず目をつけていた家と家の隙間の小道へと入り込む。

 ディックハウト信奉者が蜂起して戦闘になった区域に続く道だ。少し進めば開けた場所に出る。

 元は広場でもなんでもなく、密集していた下層住民の住まいが戦闘でただの瓦礫の山となって開けているように見えるだけだ。

 ハイゼンベルクに壊れた建物や道を補修する余裕はなく、どす黒い血の染みがついた白壁の瓦礫があちこちに積み重なっている。

 半壊した建物は浮浪者が雨宿りに利用していた痕跡もあった。

「ハイゼンベルクの現状ってやつだな……」

 クラウスは倒壊した建物の影に身を潜めて、ラルスが追い駆けてくるか辺りをうかがう。最初の攻撃で他の魔道士達も動き出したことだろうし、ラルスも容易には皇都から出られないはずだ。

「バルド、気付よ……」

 リリーをバルドに渡したくないという思いはあれど、見込みのない勝負を無謀にする気はない。自分にはまともな矜恃もないし、利用できるなら恋敵だろうがとことん使うつもりだ。

「っと、追い駆けてきたか」

 ラルスの姿よりも濁流が押し寄せてくるのが見えたのが最初だった。瓦礫や半壊した建物の間を縫って大量の水が流れ込んでくる。

 クラウスは水に飲まれる前に、残った建物も爆破粉砕していく。

 真っ向から勝負したら確実に死ぬ。

「死ぬ気はないけど、この間よりはましな死に方にはなるな……」

 何もかも諦めて命を投げ捨てた時とは、まるで違う。

 これでまではずっとぼんやりと生きてきた。生きる気合いもなければ、死ぬほどの気力もない。そうやって、ただ死ぬ機会がないから生きているだけだった。

 だが今の自分は生まれて初めて、必死に生きている気がした。


***


 バルドがラインハルトの元へ向かう途中も、王宮まで爆破音は続いていた。

「兄上……」

 部屋に入るとエレンがすぐさま扉を塞ぐように立って、魔術で部屋を覆う。

「どうやら、戦闘になってしまったらしいな。リリーが私の考えに気付いて、クラウスと逃亡を図ったらしい」

 起きていたラインハルトが静かに告げることに、バルドは息を呑む。

 リリーがクラウスと共に皇都から出て行こうとしているとは、すぐには信じられなかった。クラウスが戦闘していて、リリーが戦っていないなど不自然だ。

「城下で戦闘中はクラウス。リー、いない」

「……お前は他人の魔力に過敏だな。二手に別れたのかもしれない。ふたりはすでにブラント将軍とベッカー補佐官が追っている。この騒動で他の兵も動く。お前が行く必要もない。ここにいなさい」

 最後の言葉は強い命令だった。

 ラインハルトの言葉は自分にとって絶対の指針だった。自分の行動全てを兄に委ねずに動くことなどできなかった。

 だけれど、今は自分自身が望む行き先がある。

「リーに、会いに行きます」

 リリーが逃亡しているのか、自分で確かめたかった。もし本当だったらどうするつもりなのかまでは、分からない。

 だが、ここでじっと待っていることだけはしたくなかった。

「私のためにリリーを生け捕りにして連れてきてくれるのかい?」

 ラインハルトが優しく微笑みかけてくるのに、バルドは首を横に振る。

「……兄上に、リーは渡せません。リーは俺の、もの」

 そう口にして、バルドは自分の願望を知る。

 どこへリリーが向かおうとしても、捉えて放したくないのだ。憎まれも嫌われてもいい。そんな感情すら全部自分だけのものになるならいい。

 出会った時からそうだったのだ。

 挑んでくる強い瞳、戦闘中の表情の煌めき、一緒にいる時にふと向けられる笑顔、ひとつひとつ知っていく度に自分だけの特別なものになっていった。

 自分に特別なものを与え続けてくれるリリーから離れたくなかった。誰かにそんな彼女を見つけられて自分だけのものでなくなるのも嫌だった。

 執着で抱き潰すことになったとしても、自分はもうリリーを手放せない。

「諦めなさい。彼女はお前よりもクラウスを選んだんだ」

「いい。俺がリーを選んだ」

 ラインハルトが冷めた目をバルドに向ける。

「リリー・アクスになんの価値がある。皇家の血を引いていても、臣下を従えるどころかまっとうに他人と馴れ合えもせず、大義も道理も持ち合わせず獣同然に戦うしか能のない者に、価値があるとお前は本当に思っているのか」

 淡々と突きつけられる言葉はまるで自分のことを言われているようで、初めて兄の本心を垣間見た気がした。

「リーと同じ、俺にも価値なし」

 本当はずっと前から知っていた。兄の本心などとうに気付いていた。

 認めたくなかったのだ。兄にとって自分は、他の者達と同じ利用するためだけの存在でしかないことが恐くて仕方なかった。

「……お前は私の目で、耳で、手で、足だろう」

 そうなろうとしたけれど、結局はなれなかった。

 兄は兄で自分は自分でしかなかった。

「俺は兄上と同じになれませんでした」

 どうしたって、ラインハルトが望むままの姿になれなかった。自分は兄とは違うのだ。

 ただ戦うしか能がないことも、リリーが好きなことも、自分が自分でしかない部分をラインハルトに認めてもらいたかった。

 だけれど、そんなことは叶わなかった。

「そうだね。お前は私ではないのだから。……愛してはいないが、私はお前を少なくとも必要としていたよ」

 ラインハルトが少し苦しげに息を吐いて、自分の胸を押さえる。

「だが、私の思うとおりにならないお前は必要ないな」

 どんな鋭利な凶器よりも胸を突きさしてくる柔らかい声だった。苦しいながらもバルドは目を逸らさずにラインハルトを見つめる。

 まだ兄に対する望みも捨て切れず、聞いた全てをなかったことにしたいという思いもあった。

 だが自分はどれほど辛く苦しくとも、立っていられる。兄の示す道以外へ足を向けることもできる。

 ラインハルトが合わせていた瞳を細める。少し寂しげに見えるのはただの願望だろうか。

 先に目線を逸らしたのは、兄の方だった。

「兄上、これまでのこと感謝いたします」

 バルドはそのまま踵を返してラインハルトに背を向ける。

 できることなら救いたかった。兄の望みは全部叶えたかった。

 後ろ髪を引かれる思いはあれど、バルドは外へ向かう足を止めない。

「……バルド殿下、行かれたところでもう遅いでしょう。大人しく王宮でお待ち下さい」

 しかしエレンが小さな体で扉の前に立ち塞がった。

 普段はまるで感情を見せない彼女は声を震わせて、バルドを強い意思を持って見上げてくる。

「エレン、行かせなさい。私にバルドはもう必要ない」

 ラインハルトが命じて、エレンが瞳を見開く。そしてそのまま崩れ落ちるようにぺたりと座り込んだ。

 彼女は誰よりも絶望した顔をしていた。

「……あなたが従順であれば、皇太子殿下は諦めることはなさらなかった」

 小さな声でぼそりと、エレンがつぶやく。

 バルドは責め立てる声には何も答えずに、静かにその場を後にした。

 

***


 ラルスの執拗な攻撃にクラウスは苦戦していた。

 元より勝ち目のない相手なので、適当に周囲の建物を破砕して道を塞ぎさらに爆破で粉塵を巻き上げて目眩ましをしてと逃げ回ってきたが、その限界も近い。

「さー、そろそろ逃げ場はなくなってきたよー。どうせなら逃げ回ってないで、正々堂々戦って死んだ方がよくないかなー」

 ラルスが水で粉塵をくるんで地面に落とし、じわりと距離を詰めてくる。

「いや、俺はそういう格好つけた死に方は性に合わないので」

 たったひとりの少女のために、体を張っているこの状況は自分としては十分格好つけているとも言えるが。

 新しい退路を探っている内に、渦を巻く水流が一直線にやってくる。

 それはどうにか避け切れたが、側の瓦礫が一緒に飛んでくる。額を掠る程度だったものの思ったより出血し、右の眼鏡に血がついて視界不良になる。

「……本気で不味いな」

 眼鏡なしではあまりものがよく見えないので、左の視界を保つためにも外してしまうわけにもいかない。

 視力の損傷は原因である兄が死んだところで治るはずもなく、一生、兄に虐げられた跡は残るのだと思うとうんざりする。

 かといってまだ死ぬ気もない。

 クラウスが次の攻撃が来る前に移動しようとしたとき、ラルスの後ろに黒い大きな影が見えた。

 バルドだ。

 ラルスもバルドの出現に攻撃の手を止めた。

 クラウスはひとまず胸を撫で下ろして、剣は収めずにふたりの様子を窺う。そして先にラルスが剣を鞘にしまったのを確認してから、ふたりへと近づく。

「リーは」

 バルドが開口一番に辺りを見回す。

「離宮の方でベッカー補佐官とやり合ってる頃合いじゃないか?」

 笑顔を浮かべているもののまったく目が笑っていないラルスを無視して、クラウスは

バルドの影に隠れるように移動する。

「……逃亡ではない」

「ディックハウト信奉者が離宮にいてカルラ嬢もそこにいて酷い目あってるって報告があったんだ。全部嘘だった訳だけどな」

 ここまでの経緯をクラウスが説明すると、バルドは無言のまま来た道を引き返し始める。

「ちょっと待て。俺とブラント将軍を放っておくなよ」

 クラウスはバルドのローブのフードを掴んで止める。

「バルド殿下、皇太子殿下はどういうおつもりですか?」

「……俺の意志。リーは渡さない」

 短く答えるバルドの雰囲気は今まで少し変わって見えた。

(本気で、皇太子殿下に逆らう気になったってことか)

 事情はよくわからないものの、やっと自分で何かを決めることは出来るようになったらしかった。

「なるほどー。あなたは皇太子殿下の代わりに即位する覚悟がおありですか。飾り物ではなく、真の意味で我々を束ね導くことをなさいますか」

 ラルスが訊ねるのに、バルドは彼を強くねめつける。

「そうせねば、どうする」

「うーん、どうしましょうね。僕は将軍として戦う意義をなくす。皇太子殿下が亡くなられたら、殉死してもいいかもしれませんねー。バルド殿下はまったく困らないでしょうが」

 ラルスは冗談めかした口調で言いながらも、目だけは本気だった。

「……即位はする。水将が望む主君かは知らない」

「ならばしばらくはお仕えしてみましょうか」

 そうしてバルドはラルスからふいと目を逸らして、クラウスを見下ろす。

「リーの所、行く。邪魔」

「邪魔って、お前な、俺が派手に暴れてやらなかったらブラント将軍がリリー殺してたかもしれないんだぞ」

 いくらなんでもその言い草はないだろうと責めると、バルドが非常に不服そうな顔をした。

「助かった。後の始末、俺がする。兵舎でふたり待機」

 一応礼らしき言葉を口にして、バルドが近くに待たせていた馬に乗る。

「ベッカー補佐官、生きてますかね」

「まー、カイならそれはそれでいいと思うよ―。彼は、死ぬ口実をずーっと、探してるんだから。ただじゃ死ねないなんて、面倒くさいよね。ああ、君も死に損なっちゃったね」

 にっこりと笑いかけてくるラルスに、クラウスも眼鏡についた血を拭いつつ笑顔で返す。

「おかげさまで」

 ラルスは別の機会をまだ狙っているだろうが。

(リリーは渡さない、か)

 バルドは自分に対しても言っていた気がしたのは思い違いでもないだろう。

 そんなことを言われると余計に欲しくなるというものだ。

(ああ、でも。もう違うな。バルドのものだから、欲しいんじゃない)

 欲しいいうより、護りたいという思いがここまで自分を突き動かしていた。

 自分のことすらどうだってよかったのに、大事なものができたというのは不思議な感覚だ。

 悪い気はしないと思いつつ、クラウスは今は焦らずリリーを連れ戻す役目は、バルドに譲ることにしたのだった。


***


 勝負の幕切れは一瞬だった。

 重たい水流を纏った双剣が杖を打ち砕いて、その勢いでカイの体が地面に転がる。

 リリーは勝利の瞬間に、息をひとつ吐いて機嫌のいい猫のように目を細めて微笑む。陶酔した深緑の瞳は熱を持ちきらきらと輝いている。

「……あたしの勝ちですね」

 座り込むカイをリリーが双剣を仕舞って見下ろす。

「やっぱり強いな、嬢ちゃん。さすがの皇家の純血ってわけだ。止めさすならさっさとしてくれ」

 潔く覚悟としたというより、安堵しているかに見えるカイにリリーの昂ぶっていた熱がすっと引いた。

 彼は死にたがっているのだ。

「瀕死だったら介錯するのも考えますけど、ベッカー補佐官、元気じゃないですか。あたし、人を殺すのは別に好きじゃないですから。戦って勝つのが好きなんです。もう戦えないベッカー補佐官に興味ありません」

 相手が戦えなくなったらそれで自分の勝ちだ。生きてようが死んでようが、戦う力のない者にもう用はない。

「……嬢ちゃんに本気で剣向けられて、今度は死ねると思ったんだけどな」

 カイが投げやりにつぶやいて頭を掻く。

「死にたいなら適当に敵兵の中に突っ込んでいったらいいじゃないですか」

 自分につまらない自己満足の手伝いを押しつけないで欲しいと、リリーは唇を尖らす。

「……ひとりで突っ込んでもな、ついて行っちまう奴がいるんだよ。俺の嫁もそれで死んだ。退却を選ばなかった上官についてって、嫁も他の同僚も全員死んじまった。その戦には勝ったことには勝ったけどな。兄貴も領地の視察に行った時に奇襲に遭遇して、退けたはずなのに深追いしすぎて逃げ遅れた部下を助けに行って、敵と一緒に燃えて死んじまった。馬鹿だよな。見捨てりゃよかったのに」

 演習の時にひとりで突っ込むなと忠告してきた理由は、そういうことだったらしかった。

 そうして、クラウスのことが浮かんだ。

 彼も、結局自分を追ってきてしまったらしい。自分のためにクラウスがそこまでするとはいまだに信じきれていなかったが。

 しかしカイのように死に場所を探しているにも見えなかった。どうにか生き延びていると信じたい。

「俺は、正直皇主様に対する忠義なんてないんだ。でもこっちに好きな奴も大勢いたし、面度見てやらなきゃなんねえガキがさ、ふたりもいたしな。兄貴の息子の方はもう立派に跡目継げるぐらいになったし、もうひとりのガキは将軍様になっても相変わらず世話が焼けるが、俺がいなくたってもう十分だろう」

「……ベッカー補佐官は、もう大事な誰かが先に死んでいくのを見たくないから先に死にたいんですか」

 勝手な話だと、リリーは眉根を寄せる。

「ああ、そうだな。歳も歳だし、俺が先に逝くのが順番ってもんだろ。嬢ちゃんは勝つためだけに生きてんのか」

「そうです。あたしは戦って勝つためだけに生きてるんです。負けたら死ぬだけです」

 初陣は十三。士官学校の学徒の実戦訓練の場とされるほど小規模な戦だったが、そこは勝たなければ死んでしまう本物の戦場だった。

 演習とは比べものにならない戦闘の高揚感に自分の生きる場所を見つけて、同時に死に場所を見つけた。

 ただ戦って、負けた時に朽ちるだけだと思っていた。

(だけど、バルドの側でないと死ねないって思ったのに)

 ふたりで最期まで同じ戦場で戦うのだと約束した。

 その約束は揺らいでしまった。自分の意志であるのか、誰かの作為的なものなのか分からなくなった。自分自身の確固たるものは戦場で生きて死ぬということだけになってしまった。

「ブラント将軍、もうすぐ来ますよね……」

 カイとの戦闘で魔力をかなり消耗してしまった。もうラルスに勝てる見込みはない。

 だがこれもある意味戦だ。

 自分がすることは、戦うことだけだ。最期の最期まで戦い抜いて死ぬ。生け捕りにだなんて、手抜きはけしてさせない。ラインハルトの思惑通りには、ならない。

 全力を出させてやるのだ。

(あたしは、誰の思い通りにもならないわ)

 だけれど、バルドとの約束を守れないことが胸にしこりになって残ってしまっている。

(約束、破っちゃうなあ……)

 戦闘を前にしてわき上がってくる後悔を、リリーが必死に振り払っている途中で遠慮なく木切れを踏み折る音がした。

 最初はラルスが来たのだと思った。しかし彼よりずっと重量のある足運びや気配に、リリーはまさかと目を丸くする。

「バルド……」

 目の前に現れたのはやはりバルドだった。

「……水将退いた。補佐官も退く」

「そうですか……。命令とあらば、従います」

 バルドはリリーを一度見てから言うのに、カイがため息をひとつついて一礼してから足を引きずって森の外へと出て行く。

 そしてバルドとふたりきりになってしまったリリーは、気まずさに視線を泳がせる。

「水将退いたって、何があったの? あ、クラウスは無事?」

 とりあえず自分のことは置いておいて、どういう状況なのか訊ねる。

 バルドはとても不機嫌そうに、クラウスがラルスを皇都に足止めして廃墟を破壊し異常を知らせてきたと説明する。

「危ないことするわね」

 一歩間違えればラルスに討たれていただろうにと、クラウスの無事にリリーはほっとする。

「リー、危険行為。約定違反。俺に教えるのが先決」

 そうしてバルドが不機嫌な声音で詰め寄ってくる。

「だって、戦えるんだもの。じっとしてるなんて、あたしじゃないわ。それにのこのこ王宮まで行くわけにはいかないし」

 無茶を言うなとむくれながらリリーはバルドの顔を覗き見る。

 バルドは憤っていると同時に、哀しげでもあった。

「リーの側、いるべきだった」

「いいのよ。だって、皇太子殿下のこと心配だったんでしょ」

 ラインハルトのことを口にするとバルドの表情が陰った。

「ねえ、まさか、もう……」

 死んだのかとまでは口にできなかったが、バルドは察したのか首を横に振る。

「いい。兄上のことはもう、いい」

 そうしてリリーを抱きすくめて、感情を悟られまいと顔を見せずにそう言った。

(顔なんか見なくても、声で分かるわ……)

 低く押し殺した声は少し震えていて、ちっとも気持ちを隠せてない。辛くて辛くてたまらないと、バルドの心が悲鳴をあげている。

 リリーはゆるりとバルドの背中へ腕を回す。そうせずにはいられなかった。

 こんなにも愛おしくて苦しい感情が、他者の作為的なものであるのだろうか。

「……バルドはあたしに側にいてほしいの?」

 リリーは自分の心をたどる。

 きっかけは確かに血によるものかもしれない。側にいたいという思いさえも、自分のものであるか疑わしい。

 だけれど、痛みや哀しみをほんの少しでも癒やしたいという感情は、どこからやってきたのか。

「俺は、リーが居てくれたいい」

 バルドがさらに腕を強めてくるのを、リリーは今度は拒絶しなかった。

 嫌悪よりもただ彼への愛おしさが勝っていた。

 これまではただ自分の安息の場所として、バルドの側を選んでいた。しかし今は、彼がこうやって縋りついてくるから離れられなかった。

 他人に自分の意志を委ねるなら、バルドがいい。自分の半分が彼の一部になってしまうのはそう悪くない気がした。

 彼が望むならどんなことでも受け入れられると、この瞬間、初めて他者への隷属をリリーは望んでいた。

「……あたし、まだバルドの側にいたいって言えない。でも、バルドが望むことはしたい。だから、一緒にいるわ。バルドが望む限り、あたしはずっと一緒にいる。それで、いい?」

 とても従順で、同時にひどく傲慢な答だ。

 リリーは自分の言葉に自嘲する。

「いい……」

 バルドが腕を解いて、リリーの頬を両手で挟んで顔を持ち上げる。

 瞼を半分伏せて、リリーは忠誠を示す。

 優しく重ね合った唇は、互いにとって強い支配力を感じた。


***


「なぜ、行かせてしまったのですか」

 エレンが枕元でそう弱々しい声で言って、ラインハルトは苦笑する。

「バルドが自分の足で歩けることに気付いてしまったのだから、私に止める術はなくなってしまった。仕方ないことだ」

 いつだったか、バルドが自分がよく眺めていた小鳥を捕まえて籠に閉じ込め、持ってきたことがあった。

 どこにも行けないのはとても辛いことで、ましてや自由に飛べるものを閉じ込めてしまうのはとても勝手なことだと弟に教えたのは自分だった。

 あの頃のバルドは自分が檻に入れられている獣だとは気づきもしていなかった。

「……本当に何もできないのは私の方だったんだ。結局、バルドがいなければ何も動かせない。バルドを飼い慣らすことで私は、存在価値を持っていた」

 誰にも必要とされなかった自分は、いずれ誰もが己の権力のために必要とされるバルドを手懐けることで生きてきた。

 自分の存在意義は全て弟に依存してきたのだ。

 バルドに必要とされなくなった自分は、誰からも見放される。

 忠誠心を見せていたラルスも、自分ではなく理想の主君を形作るために従っているに過ぎないのはとっくに見透かしていた。

「今さら、弟君が皇太子殿下なしで何かできるとお思いですか?」

 エレンが唇をわななかせて、問いかけてくる。

「さあ、どうだろうな。あの子はディックハウトといわず、ハイゼンベルクごと皇家を全て壊してしまうかもしれない。それはそれで面白い先だな。ああ、そうだ。私の死んだ後のことだが、遺灰の一部は海に撒いてくれないか」

 子供の頃、死んで灰になったら、今まで行けなかった遠くへ行けるだろうかと考えたことがあった。

 生きることを諦めなかった毎日でも、そんなことをふと夢想してしまっていた。だったらどこに行きたいのか、あちこち考えて見たがいっそどこでもないところがいいと思った。

 だから、海がいい。

 海流に上手くのればて島をぐるりと回れるだろうし、もう数百年誰も行ったことがない大陸へと向かえるかもしれない。

「そのご命令は聞けません。死んでしまったなんの価値もない皇太子殿下のお世話まではいたしかねます」

 エレンの声は、ひどく掠れて震えていた。

 最初は憤っているのかと思ったが、彼女の瞳からは涙がこぼれ落ちていた。

「君は、いつも通り手厳しいな」

 涙を拭おうかと手を持ち上げかけたが、もう自分にそんな力は残っていなかった。

「……生きておられるだけでよいのです。私にとっては、あなたが生きているだけで価値あることなのです」

 エレンが泣き崩れるのに、ラインハルトは目を細める。

 この四年、彼女が側にいてくれるだけでずいぶん自分は救われていたのだと、今さらながらに実感してしまう。

「そうか。だが、以前に頼んだこの先を見届けるということは約束してくれないか……」

 泣きじゃくるエレンは首を横に振って、必死にラインハルトの死を拒もうとしていた。

 同時に殉じることを乞うていた。

「君が生きている限り、私は君の中で少しは生きられる気がするんだ……」

 なんて陳腐な台詞だろうと、ラインハルトは薄笑いを浮かべようとしたが胸を痛みが襲って口元が引きつる。

 胸が見えない細糸で何重にもぎりぎりときつく締め上げられていく。

「皇太子殿下……、皇太子殿下!!」

 くぐもったうめき声を上げるとエレンが異変に気付いて、薬を用意する。しかし、ラインハルトはそれを拒んだ。

 無理矢理飲ませようとするエレンの手を、残った力で掴み止める。

「とっくに、諦めていたんだ……グリザドの心臓、は、私が望むものを、与えてくれないと」

 痛みを堪えて、ラインハルトは途切れ途切れに言う。

 グリザドの心臓の在処が分かったとき、自分が期待したものとは別物だと悟った。あれは、ひとひとりの命を繋ぐためのものとはおそらく違う。

 おそらく、もっと大きな何かを繋ぐための呪物だ。

「皇太子殿下、どうか薬を……」

 エレンが懇願するのに、ラインハルト必死に笑みを作る。

「エレン、君が側にいてくれて救われたよ」

 ありがとう、と言うべきだったのか、別の言葉を告げるべきなのか、ラインハルトは一瞬迷う。

「君は、生きなさい」

 そうして最期の最期に選び取った言葉を口にした後、ラインハルトは全ての苦痛から永久に解放された。


***


 ラインハルトの葬儀はひっそりとあげられた。

 いくら先が短いとされていた皇太子とはいえ、宰相家嫡男が身罷ったばかりで縁起が悪いと皇族らしい大々的な葬儀はとりやめとなった。喪を示す黒い旗が皇都の各地に上げられただけで、あとは王宮内の祭祀場で一部の高位貴族のみだけが参列した、わびしい式だった。

 民衆らもさして嘆いてはいなかった。表舞台に顔を見せることが少なかったラインハルトへの親しみはなく、幼い頃から今日明日にも死にそうな体という噂の皇太子が二十六の歳までよく生きたものだと口にするぐらいだ。

「バルド、遅いわね……」

 参列しなかったリリーは、兵舎でバルドの帰りを待っていた。

 午前中には葬儀も終わり、もう夕刻近い。参列していたクラウスもとっくに普段のローブ姿に着替えて目の前でくつろいでいる。

 なぜ自分の執務室にくるのかと、普段の自分なら追い返していた所だが額にあるまだ治りきっていない傷痕を見ると文句は言えない。

 ラルスとクラウスの戦闘は情報の行き違いによるもので処理された。

 なぜクラウスがそこまで無茶をしたのかと聞いても、借りを返してもらわないといけないとはぐらかされただけだった。

「後の面倒なことは官吏がやってくれてるはずだけどな。明日の火葬までやることないし」

「ちょっと、心配だから王宮行ってくるわ」

 ラインハルトが身罷ってからのバルドは、不自然なほどに平然としていた。懊悩をなにひとつ見せまいと強がっているように見えた。

 リリーはここで心配した待っているよりましだと、王宮に向かう。バルドの所在を使用人に尋ねると、地下の廟室だと教えられた。

 まだラインハルトの棺の側にいるのだと分かって、リリーは会いに行くべきか躊躇った。しかしなおさら心配になって、結局使用人に案内してもらうことにした。

 廟室は死者が現世で最期の夜を過ごす部屋だ。

 いたる所に氷の細工が置かれている所と、寝台の代わりに棺が置かれている所以外は普通の部屋と同じく長椅子や卓、衣装棚などの調度品が置かれている。

 卓の上には手をつけられることない死者の好物ばかりの最期の晩餐が並べられていた。

「バルド、ここ寒いわね」

 リリーは夏でも冷たい部屋で白い息を吐いて、長椅子に礼服のまま座っているバルドの隣に腰を下ろす。

 彼の手に触れると、ひんやりと冷たくなっていた。ずいぶん長いことここにいるらしい。唇もあまり血色がよくない。

「棺に入れるもの、思いつかない」

 バルドが精緻な文様が彫り込まれた木の棺をじっと見ながら、そうつぶやく。

 棺の中に身内や親しい者は故人への最期の贈り物を入れるものだ。

「今までいろんなもの、贈ってきたものね」

「……兄上が本当に求めるもの、贈れなかった」

 バルドが手を握り替えしてくるのに、リリーは静かに寄り添う。

「俺も、兄上には不要」

 ぽたり、手の甲に滴が触れてリリーはバルドの顔を見上げる。

「でも、バルドは大好きだったわよね……悲しむぐらいしてもいいと思うわ。あたししか、見てないんだし」

 手を伸べてバルドの涙を拭うと、彼は初めて自分が泣いていることに気付いたらしく不思議そうに濡れたリリーの指を見ていた。

 その時に前髪が目深で表情が少しみえにくいと、リリーはいまさらなことを考えながらバルドの首に手を回して抱き寄せる。

 リリーの肩に顔を埋めたバルドが体を震わせる。

 嗚咽はなかった。たぶん、バルドもこれまでまともに泣いたことがなくて、泣き方もよく知らないのだろう。

(前髪、あとで切ってあげないとな…)

 前がよく見えるように、綺麗に切り揃えなければ。

 リリーはバルドの背を撫でながら、しばらくの間ずっと彼のことだけを考えていた。



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