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棺の皇国  作者: 天海りく
永久を乞う者達
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 クラウスは夏でもひんやりとした地下室に続く薄暗い階段を下りていた。一歩進むごとに、汗が冷やされ体が凍えていく。

 兄の急逝を聞かされ事情も分からぬまま屋敷に戻ってすぐに地下へと呼ばれたのだ。

「父上、戻りました」

 一層冷気が立ちこめる部屋に入ると、フォーベック家当主、ハイゼンベルク方の宰相であるアウグストに表情なく出迎えられた。

 齢五十六になり茶色の髪に白いものが目立つものの、背は鉄でも入っているかの如く真っ直ぐ伸び、髭を蓄えた口元が彼の偏屈さをよく現わしている。

 氷柱が立ち並ぶ部屋の奥には棺も見える。

 そこに目をやると静かにアウグストが棺の中を確認するように促してくる。

「兄上、本当に死んだんですね……」

 棺の中では兄のヘルムートが目を閉じ眠っていた。首を覆う襟の隙間から白い包帯が覗き、よくよく見れば頭の位置が不自然だった。

「アンネリーゼに首を落とされた」

 父の言葉がにわかに信じられず、クラウスは怪訝な顔をする。

「義姉上が? あのひとにそんなことはできないでしょう」

 黙々と兄に付き従って黙っているだけの兄の第一夫人であるアンネリーゼに、こんなことが出来るとは思えない。

「本人も認めている。お前が命じたわけではないのか」

「どこでそういう話になったんですか。むしろ俺は兄上に殺されかけたんですよ」

 自分はつい数日前まで戦場にいた。

 現在、ここグリザド皇国は黒のハイゼンベルク家と、白のディックハウト家に皇家が二分し正統を争っている最中にある。

 クラウスは、次期ハイゼンベルク方の皇主であり雷軍の将であるバルドが皇祖グリザドが残した三種の神器のうちのひとつ、『剣』の社へ必勝祈願目的の参拝に宰相家代表として同行した。

 参拝というのは名目に過ぎず、実際は社付近に敵勢をおびき寄せ神器の力と次期皇主の力を見せしめるための遠征が実際の目的だった。

 皇太子の命で密やかにディックハウト側に内偵として潜り込んでいた自分には、逆臣の噂が立っていた。元より忠誠心なんてものは全くなく、いつでも寝返るつもりはあった。

 逆臣の噂はいい機会だと負けが見えているハイゼンベルクを捨て、ディックハウトへ抜け出そうとしたがその前にハイゼンベルクの兵に処分されかけた。

 ハイゼンベルク内で不名誉な嫌疑をかけられた不甲斐ない弟に、名誉の戦死を遂げさせようとするヘルムートの企みだった。

「先走りおって……」

 クラウスがヘルムートの策略と荷担した者の名を伝えると、信憑に足る心当たりがあるらしくアウグストが忌々しげに顔を歪めた。

「アンネリーゼ義姉上はどうするんですか? さすがにこの状況で事実を公表する訳にはいかないですよね」

 まだあの虫も殺せぬみっつ年下の義姉が兄の首を落とせたとは信じ切れない。

 しかもこれはただの夫婦の問題ですまない。

 アンネリーゼの生家はベーケ伯爵家。ハイゼンベルク方南部の防衛の要である。北部の要であったマールベック伯爵家が離叛し、近いうちに戦を控えている中で南が裏切ったとなれば、もはやハイゼンベルクの敗戦は一年足らずで決するだろう。

 実際に裏切りではないとしても、憶測が飛び交いハイゼンベルク方の動揺は大きくなる。

「クラウス、自分の立場が分かっているのか。ヘルムートがこうなった以上、フォーベック家の跡取りはお前なのだぞ」

 アウグストが憤るのに今さらと、クラウスは冷めた思いで聞く。

 子供の頃から有能な兄ばかり可愛がって、自分のことは使い捨て扱いしてきた父にそう言われても背を正そうという気は微塵も起きない。

「兄上にはちゃんと嫡男がいるじゃないですか」

「まだふたつだ。私が後二十年生きていられる保証はない」

 生きる気はあるのかとクラウスは思わず笑ってしまう。

「ハイゼンベルクの一年先も分からない状態でよく言いますね。もし勝ち残ったら喜んでフォーベック侯爵になりますよ、父上」

 巫山戯た態度で返すと、アウグストが眦をつり上げた。

「お前にフォーベック家の誇りどころか、野心すらないのか」

 声を荒げないまでも怒りは低い声に十分に込められていた。もっと幼い頃なら首をすくめ怯えていたところだが、今はさして怖がるほどでもない。

「野心、ですか。それは少し考えて見ますよ……」

 自分は宰相家の使い捨ての次男ではなく、すげ替えのきかない跡継ぎになった。ハイゼンベルクにとっても、ディックハウトにとっても自分の存在意義は重要なものに変わった。

(もう、俺は捨て駒じゃない)

 内偵として潜り込んでいたディックハウト側にも疑われ、向こうに寝返るにしてもさして利用価値なしと見られていた。

 クラウスは眉を顰める父に背を向ける。

 一瞬ふっと後ろ髪を引かれる感覚がした。

(兄上は死んだんだな)

 あまりにも遅すぎる実感が湧いてくるものの、悲しくはなかったし嬉しくもなかった。

 年の離れた兄との関係は最悪だった。今、眼鏡が手放せないほど視力が低下しているのも兄のせいで、子供の頃から皮肉や罵声を浴びせられた記憶しかないし、とうとう殺されかけもした。

 そんな兄がいなくなって悲しいはずがない。だけれど死んでくれてせいせいしたというのも違った。

 虚しい、が近いのかもしれない。

 あれほど嫌悪して苛立ちを抱えていた相手があっさりといなくなって、これまでの自分の苦痛すら大したものではなかったのだと突き放された気がした。

 クラウスは冷たい地下からなまぬるい温度の一階へと出て、使用人にアンネリーゼの元に案内してもらう。

 この一件を隠すためか、アンネリーゼは夫婦の寝室でごく普通に生活しているらしかった。鍵すらかけられず、数人の侍女が見張りについているだけの部屋に踏み入れる。

 椅子に腰掛けたアンネリーゼはまるで調度品の人形のようだった。美しい金糸の髪も白磁の肌も窶れた様子もなく、人形姫の呼び名に相応しい美しさをそのままにしていた。

 ただ、碧玉の瞳が変わっていた。澱んでいるのではない。むしろより一層透明なものに変わり、宝玉に近づいていて一層彼女をつくりものに見せていた。

「クラウス……。よかった。本当に無事だったのね」

 アンネリーゼが微笑む。夫を殺したとは信じられないほどに優しく幸福そうな笑みだった。



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