序
よく晴れた日だった。雲ひとつない空は青く澄み渡り、春風がそよいで周囲の花の香りを泳がせている。
十六になったばかりのエレンは真っ直ぐ伸ばした背を緊張で強張らせ、王宮の中庭に面した回廊を行く。
(どんなお方なのだろうか)
王宮の精緻な床模様や、庭の色鮮やかな花々、水の花を咲かせる噴水の美しさ。どれひとつにも目もくれず、エレンはこれから自分が仕える主のことばかり考えていた。
今より千年ほど昔、この小さな島に現れた不可思議な力を持つグリザドという男が現れた。
彼の振るう剣からは炎や水が溢れ、かざした杖は目に見えない頑健な城壁を作り、身につけた指輪で人の傷を癒やした。
グリザドは不可思議な力を人々に分け与え、多くの魔道士を作り出して島を己の国とし皇主として君臨して、小さな島はグリザド皇国となった。
その皇国の第一皇子、ラインハルト。
生来より虚弱体質で王宮からほとんど出たこともなく、齢二十二だというのに余生は短いらしい彼の侍女としてエレンは王宮へとやってきた。
(なぜ、私なのか)
自分は千年続く皇都ベルシガより遠く離れた場所に小さな領地を持つ、男爵家の長女だ。
容姿も特別不器量でもないが、暗褐色の髪に黒い瞳と纏う色彩と同じく華やぎのないものだった。その上愛想がないとよく言われるほど、表情を作るというのも苦手でいつも無表情である。
こちらから王宮仕えを申し出たわけでもなく、皇太子自らの指命ということらしい。
道を先導する使用人が皇太子の私室の前で止まり中へと声をかける。扉越しの使用人同士のやりとりを聞きながら、エレンは緊張感を高める。
やっと踏み入れた部屋は予想とは違った。病人の部屋らしくもっと暗く陰気な部屋だと思っていた。
しかし天井近くの高い位置にある硝子窓から春陽が差し込み、暖かく明るい光で満たされている。
そうして、光の中心、書斎机の側に彼はいた。
自分で歩く体力が衰え車椅子に頼り切りになっているという皇太子、ラインハルトが自分を見て淡く微笑む。
漆黒の艶やな髪と、理知的な青い瞳。整った面立ちに蒼白い肌が、何とも言えぬ独特の儚い雰囲気を宿していた。
「君がベレント男爵のご息女だね。私が皇太子のラインハルトだ。これから私の身の周りの一切のことを君に任せたい」
見た目とは裏腹にラインハルトの言葉は明瞭で脆弱さの欠片もなかった。
「はい。ご命令のままに」
跪いたエレンは静かに答える。
「君は『杖』の魔道士だったか。杖は持っているか?」
「……ええ」
エレンはうなずいて案内の使用人に預けていた銀の小ぶりな杖を返してもらう。
魔術を扱うためには、自分の血を用いて術者との繋がりを持たせた媒体がいる。
魔道士の魔力は一時的に媒体に溜め込まれてから、様々な力に代わりとして放出されるのだ。
本人の資質によって攻撃を主とする『剣』、防衛を主とする『杖』、治癒を行う『玉』のいずれかを選ぶことになる。
そしてエレンは『杖』の魔道士だった。
侍女として王宮に上がるさい、杖を持参することも命じられていた。
ラインハルトが他の使用人を外へと促して、エレンは彼とふたりきりにされてしまう。
「早速だが、この部屋の音が外に漏れないようにしてくれないか?」
言われるままにエレンは杖を一振りして、部屋の周りに魔術の壁を築く。
魔道士としての能力も特に突出しているわけでもなく、ある程度の魔力があればこの程度は難しくない。
「君を呼んだのは、神器について知りたいことがあるからだ。知っているね、三種の神器の『剣』、『玉』、『杖』の中で我がハイゼンベルク家が杖以外を所有しているとなっているが、本当の所、『玉』はこちらも持っていない」
あまりにも重要な話題に、エレンは身を強張らせた。
ハイゼンベルク家ととディックハウト家。グリザドの血を引く両家は、一時期皇位を交互に継ぐ取り決めをしていた。しかし五十年前、ハイゼンベルクが約定を破り、内乱となった。
未だにその争いは続いている。
先に約定を破ったハイゼンベルクが声高に正統性を主張する理由のひとつに、皇家が代々引き継いでいる神器の存在があった。
皇祖グリザドの体は死後、右腕が剣に変じ、左腕は杖に、最後に心臓は深紅の宝玉へと変化したという言い伝えがある。
この三つが神器とされ、国の三箇所に社を造りそれぞれ祀り上げられていた。
皇家が分断した争いの最中、ハイゼンベルクが『剣』と『玉』を得て現在は皇都に安置されているが、杖はディックハウトに奪われたままというのが現状だ。
「ええ。我がベレント男爵家は五十年前の戦乱で神器を『玉』の社から皇都へ移送する役目を仰せつかりましたが、すでに神器はありませんでした」
明確にエレンは答える。今は亡き祖父と曾祖父がその戦において、神器を社から異動しようとした。
しかしその時すでに、グリザドの心臓と呼ばれる神器の『玉』があるはずの廟は、もぬけの殻だった。
ディックハウト側はグリザドの左手である神器の『杖』を奪取し、社を新皇都として残る『剣』と『玉』を取り戻すと主張した。
グリザドの心臓の行方を誰も知らない。
そして神器の在処が分からないことを知るのは、ハイゼンベルク方でもほんの数人だけだ。
「私は『玉』を手に入れたい。どんなことでもいいから情報が欲しい」
なるほど、自分が呼ばれたのはこのためかとエレンは思う。
「ですが、父がご報告している以上のことはありません。この五十年、誰も何も手がかりを見つけられてはいないのでしょう。私よりも父を呼んだ方がよろしいのでは」
しかし今さら調べたからといって、何か出てくるとは思わなかった。それに現当主である父の方が適任だ。
祖父と曾祖父は『玉』の一件で上位の爵位を与えられることになったが、神器を本当に見つけるまではと固辞した。
そして父はその遺志を継いでいる。
優柔不断で『玉』ことを知らない次期当主の叔父ではなく、ひとり娘の自分だけを協力させ探し続けていた。
「五十年経ったからこそ、気づくこともあるだろう。それと私の側に常について行動してもらうなら、侍女の方が都合がいい。宰相達もうるさく言わないだろう。全く、誰が主君か本当に分からないな」
現在によらずここ数代の皇主は宰相の言うことに、是と応えるだけの首振り人形である。ディックハウトも同様で、あちらの皇主はまだ幼子。
そもそも皇家同士の争いも焚きつけたのはそれぞれの宰相家同士である。実質は皇家同士というより宰相やそれに追随する者の権力闘争だ。
「あなたは、なぜ神器を求めるのですか。私にはハイゼンベルク家の勝利のためだけとは思えません」
現在、ハイゼンベルク方は窮地に立たされていた。
ディックハウトは十数年前より魔道士の血脈の神聖性を喧伝し始めた。昨年には前ディックハウトの皇主が死去し、弱冠五歳の皇太子が即位することになった。
幼い皇主を祀り上げて、本格的に神格化を推し進めている。
一時期にハイゼンベルクが領地拡大に躍起になって、下級魔道士を使い捨てにした戦略を乱発した失策もあり、ディックハウトの信奉者の増加は加速し始めている。
「君を選んだのはいい選択だったな。とても利口そうだ。必要以上に媚びへつらわないのもいい」
ラインハルトが楽しげに笑って、エレンは少々傷つく。これでも田舎娘に思われないように、懸命に頑張ったつもりでいたのだが。
「不調法で申し訳ありません」
「いや。いい。それぐらいが私にはちょうどいい。これから私の片腕として働いてくれ。さて、私が神器を求める理由だったか。単純な話だ。私はまだ死にたくない。それだけだ」
ラインハルトが笑顔のまま告げる。
ごくごく軽い口調とは裏腹に、ひどく切実な思いが滲んでいた。
***
エレンは寝台で横たわるラインハルトの顔の汗を拭う。
なにひとつ状況は好転しないまま四年の歳月が過ぎた。神器の在処も見つからなければ、離叛者が相次ぎハイゼンベルクの敗戦は濃色。ラインハルトも床に伏せることが多くなっていた。
ラインハルトは一昨日から発熱して、今日になって少し良くはなったものの相変わらず苦しそうだ。
「水をお飲みになりますか?」
問いかけると彼は掠れた声でいいと断る。
「それより、例の調べは進んでいるか?」
「ええ。ひとつ奇妙な記録を見つけました。十七年前の冬、心臓が抉られた身元不明の死体が皇都の下層で見つかっています。獣に喰われたのではとおざなりな記録が残っていました。ちょうど、彼女が孤児院に捨てられた三日後です」
「心臓、か」
ラインハルトが意味ありげにつぶやく。
ここ最近、エレンはリリー・アクスという人物について調べさせられていた。
ラインハルトの同母弟で、雷軍将軍を務める第二皇子バルドの補佐官を務める十七の少女だ。
リリーは赤子の頃に孤児院の前に捨てられていた。
身元が分からないながらも、彼女の魔力の高さから上位貴族の血脈と囁かれている。あるいは皇家の血筋ではとも。
魔道士の力量は血脈が重要視されるからである。
グリザドより魔力を得た者の直系ほど力の強い魔道士が産まれるのだ。逆に血が薄まれば魔力こそはあれど、魔術を扱うことは難しい。
そしてグリザド皇国において、魔力の高さと身分は比例するので身元を特定するのは容易いはずだがまるで掴めなかった。
「リリー・アクスが神器と関わりがあればよいのですが」
「ほんの小さな可能性にすぎないが、何もしないよりはましだろう」
先日、皇都周辺のディックハウト信奉者の一掃作戦が行われた。
贋の神器、『玉』をディックハウト側に奪わせ、本物の神器『剣』をバルドに持たせて粛正した。
その際、誰もが本物だと思っていた贋の神器を、リリーはただひとり贋物だと見抜いていた。
ラインハルトはそれを気にかけていた。
そして、彼女は赤子の頃に本物の神器を見たことがあるのではないかと、ひとつの可能性にたどり着いた。
高い魔力を有するということはそれなりの血統。何らかの理由で神器を所持していた可能性がないこともない。
「皇子、皇女らは自ら神器を運び祀って守人としてその地で果てた」
エレンは神器が納められた頃の文献の記録を口にする。
かつてグリザドの跡継ぎとならなかった皇子、皇女らは血を残さなかったか、あるいは二代目の皇主に引き取られたかのどちらかと記されているが、千年前の記録の真偽は定かではない。
これまでかき集めてきた情報や文献にたったひとりの少女の存在を当てはめると、ぼんやりしていたものが輪郭を持ち始めていく。
「この局面で第三の皇家の血統など出てきては厄介だが、神器さえ手に入れればどうとでもなる」
「ええ。皇太子殿下……」
ラインハルトが苦痛に顔を歪めて、体をくの字に折って苦しげに咳き込む。ぜえぜえと体を震わせて息をする背をエレンは撫でる。
ただでさえ熱で弱っているのに、咳が酷く余計に体力を奪われている。
グリザドの心臓とも呼ばれる神器の『玉』。
皇族の者であれば、その力をとりこめるはずだとラインハルトはそれにかけている。
ささやかな希望だ。
それでも縋らずにはいられない。ラインハルトだけではない。もはやハイゼンベルク方の誰もがそうだった。