句読点の謎を解きあかせ!
閉じたままで次話投稿のやり方わかんないから、オープンしちゃいました。
もう、こっからはアザとー節大全開。つまりふざけるの。
なので、ここに書かれている情報を鵜呑みになさいませぬよう、ご注意くださいな
「先生! 焼智先生、大変です!」
「おお、どうしたね、ko林くん、朝からそんなに息急き切っちゃって」
「こ、こんな怪文書がポストに!」
「なになに?」
--にわにわにがいる。にわにはにわにわとりがいる。
「先生! これは怪文二十面相からの?」
「ふふ、面白い。この私に挑むとは。ko林くん、早速調査だ! 今回の事件を解くカギは……句読点!」
「句読点……任せてください! 大得意です!」
「本当かね? ならば句読点の極意とは?」
「呼吸の切れ目のタイミングで打つ、です!」
「ならば、この文章に句読点を打ってみたまえ」
「はい、こうですね!」
--にわにわにが、いる。にわにはにわとりが、いる。
「ふむ、なるほど。決して間違いではない。しかし、まだ読みにくいとは思わないかね?」
「確かに……」
「それに、呼吸のタイミングで打つなら、肺活量のある私ならこうだ!」
『ニワニーワワニガイールニワニハニーワ二ワトーリガイル』
「なんか、文章変わっちゃってますけど?!」
「ああ、すまない。フランス語のクセが出てしまったようだね、ふっ」
「ふっ、じゃないですよ!」
「ならば問おう! ビシィッ! ko林くん、君は誰の呼吸のタイミングで句読点を打ったかね?」
「え……自分の……あ!」
「そう、句読点とは『読者の』読みやすさを追求するもの。ならば読者の呼吸に合わせて打つべきものなのだよ」
「でも、読者一人一人の呼吸を調べて歩くわけにはいかないじゃないですか!」
「そこだよ、ko林くん。読者一人一人の呼吸を調べて歩くわけにはいかないから、句読点の打ち方には文法的なルールがある」
「る……ルール?」
「まずは『にわにわにがいる』をよく見てみよう。これは『庭にいる』、何がを問われれば鰐が、『鰐がいる』どこにを問われれば庭に、という文章の成り立ちだね?」
「はい」
「ここで注目するべきルールは、時や場所を表す前置き文の後に読点を打つというルール」
「つまり、『にわに』のあとに句読点ですね」
「そして主語の後ろに句読点を打つというルール」
『にわに、わにが、いる』
「どうだね、これならば意味を間違えることはないだろう!」
「しかし、先生! 一般に句読点が多い文章は『ラノベ並みだ』と馬鹿にされます!」
「君もそう思うかね?」
「いえ、でも、あの……」
「なんだね、はっきり言ってごらん」
「なんか、絵本みたいで幼稚です!」
「ふむ、正解だ」
『にわに、わにがいる』
「これならどうかね?」
「あ、読みやすい!」
「人は文章を音読した時、無意識に正しいセンテンスで一拍を開けるものなのだよ。つまり、その大原則も知らずに呼吸で句読点を打つのは愚の骨頂!」
「なるほど……」
「一般に大物といわれるお堅い作家の中にすら、ラノベ顔負け真っ青になって裸足で逃げ出すくらいに句読点を多用する者などいくらでもいるのだよ。逆に呼吸困難を起こすのではないかというほど句読点を削るラノベ作家も数多いる。句読点に正解などなく、すべて個性なのだよ」
「わかりました、先生! ではニワトリのほうは、『にわには、にわ、ニワトリがいる』ですね!」
「待ちたまえko林くん! これは怪文二十面相のワナだ!」
「え、どこにワナなんかあるんですか?」
「私たちは慣用から二羽のニワトリだと思いがちだが、これはもしかして、ハニワニワトリというニワトリの種類を指すのではないだろうか!」
「そんな品種、聞いたこともありませんよ」
「作家というのは造語が好きな生き物だ。朝日の中、凛々しく立つニワトリが不動にも見える様を表すのに、ハニワニワトリという名詞を生み出すことなど、禁じられてはいないのだよ!」
「はあ、じゃあ……『にわに、はにわにわとりがいる』ですか?」
「エクセレンッ! しかし、これでわかったかね、ko林くん」
「なにがですか?」
「句読点ひとつで、意味の変わってしまう文章というものが存在するのだと」
「たしかにニワトリとハニワニワトリでは違いますね。でも、どちらもニワトリではあるのだから、文章の意味として大差ないと思いますけど?」
「大違いだよ、ko林くん! なぜなら作者の意図した呼吸を、読者は感じることができないじゃないか!」
「たしかに……」
「いいかい、文章には必ず伝えるべき情報が含まれている。わにの文章でいうならば『鰐が庭にいる』という事象だね」
「それを伝えたところでなんなんだ、とも思いますけどね」
「まあ、これは言葉遊び、つまり意味よりリズムが優先されるものだからね、多少の矛盾は含んでいるさ。しかし、通常の文章にもこの法則は応用されるのさ。例えば」
--柔らかなジェニーの乳丘が揺れると興奮は一気に最高潮に達する。
「先生! この表現はやばいんじゃないですか! それに、乳丘って、なんて読めばいいんですか!」
「まあまあko林くん。お子様の君にはわからないだろうが、官能表現の中には読ませる気のない漢字を組み合わせて作られた造語というものが多数あってだね、そうした例の良い見本として引いてきただけだ。これ以上の行為を書くつもりはないよ」
「ならば、大丈夫ですかね?」
「さて、あえて官能文を持ってきたのは、造語によって文意の伝達が混乱する様子を見せるためだ。まずは考えてみよう。柔らかいのはジェニーかね? 乳丘かね?」
「え、そんなの、乳丘に決まってるじゃないですか。だって、おっぱいでしょ?」
「なぜ、そう思ったね?」
「だって、ジェニーは女性でしょう? 柔らかいという形容詞は人間につけないでしょう」
「女性の仕草や体の触感を表すのに、『柔らかい』は常套だよ」
「いや、そうですけど、乳って漢字が……」
「ならば、句読点を打ってみよう」
--柔らかなジェニーの、乳丘が揺れると、興奮は一気に最高潮に達する。
「さて、柔らかいのはジェニーかい? 乳丘かい?」
「ジェニー……ですね」
「では、これなら?」
--柔らかな、ジェニーの乳丘が
揺れると、興奮は一気に最高潮に達する。
「あ、乳丘が柔らかくなった!」
「これが句読点の妙味さ」
「これならば『柔らかい』と『乳』がイメージの中でつながりやすくなりますね」
「それがおっぱいの妙味さ!」
「でも、なんだか……『柔らかい』の後ろにある句読点、美しくないですね」
「そうだね、そういう時は簡単な並べ替えをしてみよう」
「並べ替えですか?」
「そう、本来なら修飾する言葉は修飾される言葉のすぐ近くに置くのがセオリーなんだ。そうすることで、一単語的な使い方ができるのだよ」
--ジェニーの柔らかな乳丘が揺れると……
「あ、句読点が減った!」
「よく気がついたね。こういった修辞の言葉の並べ替え、そして漢字の使用によって文意のそのものを変えずに句読点の数をコントロールできるのだよ」
「句読点が減っても読みやすい文章というわけですね!」
「その通り! さて、ワニワニ文をもう一度見てみよう。これを読みやすくするにはどうしたらいいと思うね?」
「まずは漢字ですね。これだけでも読者の誤解がかなり軽減される」
--庭に鰐がいる。庭に埴輪鶏がいる。
「これでは目がとまるポイントが漢字しかなくて、まだ少し読みにくい。句読点を打とう」
--庭に、鰐がいる。庭に、埴輪鶏がいる。
「しかし、この文章は美しくない。だから大胆に並び替えるのだ! そう、私ならこう書く!」
--鰐が庭にいる。そして、埴輪鶏も庭にいるのだ!
「さすがです、先生!」
「ふふふ、怪文二十面相など恐るるに足らずだね」
「はい!」
「しかしko林くん、油断してはいけない。怪文を生み出すものは、句読点ばかりではないのだよ」
「句読点は手がかりの一つでしかない、ですね」
「その通り! 我々は戦い続けねばならないのだ。新たな怪文は次々に生み出される。その全てをときあかし、怪文二十面相を捕らえるその日まで……ついてきたまえ、ko林くん!」
「はい、先生!」




