なにをどのように書くか
②何をどのように書くか
よく酷評家と同一視されるアザとーだが、実は他人の文章にどれほどダメを出そうとも「何を書くか」についてダメ出しなどしたことがない。
何を書くか、これは作者の自由であるのだから、好き嫌いを言うことはあってもダメを出す部分ではなかろう。
ただ、限定的に「今書くべきはコレジャナイ」を言うことはある。
それは読者が決定している場合にのみの行為で、きちんとダメ出ししておかねば後で泣きを見るのが目に見えているのだから、言わざるをえないのだ。例えば若手に向けたライトな作品を求められているのにハードな熟女ものを書こうとしたら、もちろんダメをだす。
他にもエロくない作品を求められているのに根幹にエロが入っている、逆にエロを求められているところにエロ濃度薄いプロットを出してくるなど、具体的な禁則はケースバイケースであり、ここに書ききれるものではない。
ならば何をもって禁則とするか、ここに「何をどのように書くか」という話が出てくる。
私たちは日常の中でも、相手によって話題や口調を変えたりしないだろうか。
アザとーならばこうである。
対大人ver「ふむ、ジュースの蓋が開かないだと? よかろう、貸してみるがよい、我が右手に宿りし人さしたる指の能力で開けてやろう」
対子供ver「どちたんでちゅか〜♡ 開かないんでちゅか〜♡ はいはい、おばちゃんが開けてあげるから貸してごらんでちゅ〜♡」
口調だけでなく、アザとーは対大人と対子供で話題もかなり違う。
大人となら仕事の話や愚痴やエロい話などもでるが、子供相手には虫とりやアニメや、はやりのお菓子や、下ネタはせいぜいウンコ話までである。
小説も同じで、読んでもらう相手が決まったならば、相手にふさわしい「話題と口調」があってしかるべきなのだ。
これを外れている場合にのみ、アザとーはダメをだす。
なろうにはそんな制約もなく、必要なのは自分が仮定したターゲット層にめぐり合える幸運だけなのだから、恐れることなく好きな物語を書こう。
しかし、それは野放図に日本語を書き連ねることとは違う。読者層は仮定しておくべきだし、それによって物語にある程度の縛りはあってしかるべき。
これがない文章は実に取り留めなく、読者もどのように反応していいやら皆目検討もつかぬダラダラしたものとなる。
そもそもが読んでいても面白くないのだ。なぜなら、行間に「お前のために書いた物語じゃない」といわれている気がして。
私は「文章の集中力」と呼んでいるが、よい文章は読者がどこを見るべきなのかが文字運びや物語の流れから読み取れるものである。物語の終着点を予感させつつも読ませる力のこもった文章だ。
そういう文章は行間から「私に似た誰かのために書かれた物語」だという熱気が伝わってきて嫌いではない。
つまり、若向きの話を年寄りにも読んでもらおうとか、ごく特殊な自分の性癖を一般人にもわかってもらえるだろうとか、そういう甘い考えは捨てて、今書いている物語を届けるべき相手に集中しなさい、ということだ。
さて、病院にいったと仮定しよう。友人の見舞いだ。
友人は事故を起こしたが幸い大事には至らず、骨折が直れば退院できる、それでも退屈しているだろうと思っての見舞いだ。
その席でなにを話す考えてみよう。ここで必要になるスキルはTPOを見極めるということ。
例えばドアを開けたとき、相手が思いのほか落ち込んでいたら、暗い話題は避けるのが常套だろう。
「なあに、たいしたことないよ」と肩を叩いて励ますのもいいかもしれないが、そこが個室であるという保障はどこにもない。仮に隣のベッドに、もう二度と歩けない患者が寝ていたら? 聞こえよがしに「そんな落ち込まなくてもさ~、二度と歩けないわけじゃないジャン?」などと大声で言ったら、隣の患者はどう思うだろうか。
友人にとっては励ましとなる言葉が、まったく無関係の人間を傷つけることになる……これは小説でも良くあることで、誰かに大絶賛された物語が他の誰かを傷つけるということなど、いくらでもあるのである。
ならば、落ち込んでいる友人を励ますことに集中しようと、そういうことである。
隣のベッドの患者が大人なら、そっと自分の耳をふさいでくれるかもしれない。小説でいうなら「そっとブラバ」だ。
それを追いかけて、耳をふさいだ手を開かせてまであなたの言葉を聞かせる必要はないだろう。あなたが今、やるべきことは目の前の友人を励ますことなのだから。
さあ、目の前の友人をよく見てみよう。どんな表情をしている? どんな言葉を望んでいる? 叱責すべきか、甘やかすべきか……
それを考えればおのずと作品のカラーは決まってくるのである。
さて、ここまでの話が理解できたかどうか、例題を。
前述の友人君を励ます話を考えて、その大まかな流れを5行ぐらいで書き表してみましょう。




