否定意見に対する心構え的な何か ~焼智、彼に触れる(ついに!)~
「はあ……この世は無情だ」
「焼智先生、どうしたんですか、『珍しく』物思いになんかふけって」
「KO林君、さりげなく私をdisる言葉を強調するのはやめたまえ。いやねえ、こうしてみていると、ネットで書いている人たちのあいだでは『感想』の本来の意味が消えつつあるなあと、それを憂いているのだよ」
「感想の本来の意味ですか?」
「そう。この界隈では多くの作家たちが『感想とは善意的なもののみを指すものである』と勘違いしているのだよ」
「違うんですか? だって、面白くないものにわざわざ感想を書くなんて、単なる嫌がらせじゃないですか」
「ああ、君も間違えている。感想とは『書く』ものではないよ」
「よくわかりません。作者が喜んでくれるから伝える気持ち、それを感想というんじゃないんですか?」
「それはあまりにも感想というものを作者側からしか見ていない物言いだよ。感想の本来の意味はね、プラス方向マイナス方向にかかわらず何か思いを抱いた心の動きそのものを言うのだよ」
「哲学ですか」
「いや、言葉の本来的な部分さ」
例えば、美智子という女性が見合いをしたとしよう。
その時の様子をこう書いたとする。
(なんてのっぺりした人相の男だろう)と、美智子は思った。
これは見合い相手に対する美智子の『感想』であると、ここまではご理解いただけただろうか。彼女は見合い相手の容姿に対してはマイナス方向の感想を抱いた。
(だけど、人柄は悪くなさそうだわ。優しそうだし)
笑顔はとても優しい。裏を感じさせない幼児的な無邪気さを感じる。
これは、彼の表情から美智子が導き出した推論、そしてそれに関する所感なのだから、やはり感想。
もっとプラス方向に確たる証拠が欲しければ、こうなる。
(あら、この身上書……会社の社長さんですって? すごい、経済的には何の心配もないじゃない)
これで彼女の見合い相手に対する感想はそろったと仮定しよう。リアルの見合いならば、もっといろいろ思うところはあるが、これは例題なので仮に。
さて、彼女にはこの感想を誰かに伝える『義務』はない。友人に結婚についての助言を仰いだり、愚痴などの形で第三者に伝えることはあるだろうし、その『権利』はあるだろう。
当然である、彼女自身の感想は彼女自身の所有物であるのだから。
ところが、これは見合いであるのだから、世話役に「今日のお相手はどうだった?」と感想の開示を求められるかもしれない。
もしも見合いを受ける、もしくはキープしておこうと思うならば、ポジティブな感想をもとに言語化を試みることだろう。
「とても素晴らしい方だと思いますわ。何より金銭的な基盤がしっかりしているのが素敵! 笑った顔もとても優しそうだし、この方となら、私、良き結婚生活が送れそうな気がしますの!」
これが、断ろうとする縁談であれば、ネガティブな感想をもとに言語化が行われるのだから、当然に口は重くなる。
「そうねえ、金銭面とか、悪くないんだけど……」
これは相手をいかに傷つけずにネガティブな感想を伝えようかという気遣いである。時に、相手から悪人と思われたくないという保身であったりもするが。
どちらにしても、「顔がのっぺりとしている」という彼女の『感想』は一生語られない可能性のほうが高い。
ところが、世話人は容赦ない。
「はっきり言っていいのよ、相手にお断りをする都合もあるんだから」
「でも……」
「いいわ、こうしましょう、あなたの本音は私の胸の内だけにしまっておくから、言ってちょうだい、何がダメだったの」
「顔が……私ああいう、平安人みたいな顔って、生理的に無理なんです」
いや、美智子、お前はもう少しオブラートに包むことを覚えたほうがいい。
それはともかく、本来の『感想』とはそういうものである。
日々、我々はいろんなことを思いながら生きている、その一つ一つが感想なのだから、言語化されずに消えてゆく感情もたくさんある。それを文章に起こし、書き留めれば、これは何においても『感想文』と呼んで差し支えなかろう。
「つまり、作家の人たちは『感想』をくださいではなく、『感想文』をくださいと言えばいいと……言葉狩りですか?」
「そうではないよ、たとえ文章の中に明言化されていなくても『否定』は相手の中にあるのかもしれないよと、それを覚悟しなさいよということだよ、KO林君」
「否定意見があるなら言ってくれればいいじゃないですか、むしろ否定意見が糧になると明言している作家もいるんですから」
「ちゃんと感想の意味を心得ていて、『面白かったか面白くなかったか』を求める作家もいるね」
「そうですよ、だから、恐れずにじゃんじゃん感想を書けばいいじゃないですか」
「しかし、『感想とは作家を励ます肯定的なものしか存在してはいけない』という感想過激派もいるのだよ。読者は、これをどうやって見分ければいいというのかね?」
「そんなことは知りませんよ。ネットなんていう衆人環境において決定的な否定感想を書こうっていうやつの性根のほうがクソなんですよ。普通に作家先生に対する気づかいをきちんとしたならば、否定的な意見だってオブラートに包んで丁寧な言葉で、相手を傷つけないように書けるもんでしょ」
「KO林君、君も感想過激派だねえ」
「何が過激なもんですか、そういう気遣いができないならだまっとけ、それが作家に対する敬意ってもんじゃないんですか!」
「僕ぁ、そうやって『私の話は聞け、しかし、お前は話すな』的な考えは好きじゃない。ま、否定まではしないけどね」
「話? ボクは作品を書いただけで、何にも話したり、聞かせたりしてませんよ?」
「何を言っているんだね、ネットという衆人環境に向かって『作品』という自分の言葉を置いた、これは読者に会話を投げかけたのと同じだよ」
「つまり、読者から感想という会話の返しをもらいたくなかったら、作品を人に見せるなと、そういうことですか」
「その通りだよ。まして、自分から言葉を投げておきながら、相手が自分の思い通りの反応をしなかったとキレるもんじゃない」
「でも、だって……せっかく頑張って書いたのに、ひどいこと言われるのってイヤじゃないですか」
「だからって君に、読者の口をふさぐ権利はない」
「……」
「確かにイヤなことを言われるのは誰だってイヤだ。だからって自衛策が『相手の口をふさぐ』であるのは、ものを書く人間として一番恥ずべき行為だよ」
「じゃあ、どんな自衛策があるんですか」
「まずは読者の分母数を増やさない。一人の人間の中にポジティブ感想とネガティブ感想があるように、人が増えればその中に否定意見が多くなる。そうすれば自分にとっての雑音である否定意見が自分の耳にまで届く大きさになってしまう、これはあまりにも当然だね?」
「いやですよぅ、どうせ書いたなら、多くの人に読んでもらいたいです」
「だったら開き直る。作家には諦観というものも必要だよ」
「もしも、一番身近な友人が否定的なことを言い出したら……」
「いいじゃないか、それは声が直接聞こえるくらい近しいところにいるという証拠だろ、大いに喧嘩したまえ」
「え~、ケンカですか~」
「君たち若い子はそうやって喧嘩を悪いことだと捉えがちだがね、そんな喧嘩もしないイイ子が正しいのは義務教育までだよ」
「まあ、そうなんですけど~」
「そうやって悩むところがあるのは、『誰が何と言おうと自分にとってはこれが正しい』と思うところに至っていないからなのだがね」
「そこに至ると、何か違うんですか?」
「全然違うね。誰かに否定的なことを言われても、『わかった、お前は俺とは違う。しかし俺にとってはこれが正しい』と、相手を否定することなく認めることができる」
「なるほど……」
「ところでKO林君、私は、『誰が何を言おうと君を愛している』と思っているのだが……」
「今回はずいぶんと直球で来ましたね」
「そろそろこのシリーズも終わりに近づくべきだと思ってね」
「わかりました、『僕は、先生からの愛は気持ち悪いと思っています』。これは先生の気持ちに対する感想ですね」
「その否定は飲んで受けよう。しかし、それでも私の中の君への愛は消えない! これが真実の愛というものだよ、わかるかい!」
「あ、キモっ! さりげなく腰を擦りつけるな!」
「つれないなあ、KO林君! だが、こうして否定意見をぶつけ合って高められてゆく、それが愛というものさぁ!」
「まじめな文章の話じゃなかったんですかぁ!」
珍しく大ピンチなKO林君!
果たして彼の貞操は守られるのか!
次回『焼智落ちという愛の形』にご期待ください!




