文章作法よりも大切なもの
極論のように聞こえるかもしれないが、結論から言ってしまおう。
ーー今まで覚えた文章作法など捨ててしまいなさい。
文章の作法や形式など形骸でしかなく、流行りや時流に左右される実に不安定なものなのだから、それを足場にしては必ず転ぶ。
そんな馬鹿なという御仁、あなたは源氏物語と同じ文章作法で小説を書きしたためておられるのだろうか。そのような方にはここから先を読まず、ブラウザバックをお勧めする。
例えば、私が文章を習い始めた頃、『!?』は使ってはいけない文字であった。あまりに漫画的であり、文章では写植の都合上も好まれないものだったからだ。
ところが今や『!?』は普通に使われる文字であり、誰もこれを見咎めるものはいない。
だからこそ、私は一般の文章作法というものをあてになどしない。いつ改変されるかわからぬ知識に足場を求めるは愚行だと思っているからだ。
しかし同時に文章作法本を何冊も読み比べ、その知識を吸収するという矛盾をも抱えている。
これは全て、正しい文章というものが読者に対してどれだけの効果を及ぼすかを知っているからである。
そう、文章作法というものは文章を書き続けるなかで必要に迫られて学ぶものなのだ。
断言してもいい、小説を書くのに文章作法などいらない。最低限の日本語のルールを知っていれば物語を読者に伝えることはできる。
文章作法はそこからもうワンランク上の、『物語を効果的に読者に伝える』技術であるべきなのだ。
そのためにはまず、作法よりも大事なことがいくつかある。
これを順に紐解いてゆこう。
①誰のために書く文章なのか
これを問えば十中八九「読者のために」という答えが返ってくるだろう。
もちろん正解である。が、正解を知ってはいても、そこに至る途中式が抜け落ちているもののなんと多いことか。
読者のために書く文章とは、「読者にとって読みやすい」文章に他ならない。
例えば文法がめちゃくちゃだろうとも、既存の作法で許可されていない手法をつかおうとも、読者にとって読みやすければそれでいいのだ。
これは実に難しいところで、人は見慣れないものには警戒心を抱くものだ。
文章もしかり。
今まで真面目な文章作法で書かれていた文章の中に実験的な表現が仕込まれていたならば、十中八九警戒心からの拒絶反応を示すことだろう。
それが文章作法を知らぬ無知ゆえのミスでも同じこと、読者には仕込みとミスを見分ける義務などないのだから。
よく間違いを指摘されると「違います、これは仕込みです」と反論されるのだが、アザとー理論では『仕込みだとわかるような情報』を読者に提示しなかったことがそもそものミスなのであり、仕込みだとわかってもらえなかった時点で作者の負けなのである。
さて、この仕込みについて言及するなら、何も技術は一通りではない。
文章の行頭から文体で作風をコントロールするもよし、伏線を張るもよし、ここが作者のアイデアの見せ所というわけだ。
それができぬ、するほどのこともない部分なら正しい文章作法で書くべきである。読者にとって『読みやすい』以上に魅力的な文章など存在しない。
文章のルールをまもるも、破るも全て読者のため、これこそが文章を書く上での一番の土台となる思想なのである。
以下例題。
あなたは事務所で電話番を頼まれました。部長宛てにヤマダさんから電話がありました。要件は次の通り。
「おたくの部長さんと打ち合わせの予定があったが、都合が悪くなったので日にちを変更してほしい。携帯でかけてもらうほど大至急というわけではないが、急ぎ連絡がほしい」
これを『部長に向けて書いた連絡メモ』という形の文章に仕上げなさい。