アナイス建国記余話…カインの章
右腕はまだうまく動かなかった。服に隠れて見えない体のあちこちにも、実は痣がいっぱいだった。左頬まで腫れているこんな状態で私は勤め先を変えることになった。
それまでの勤め先は、カンツェル伯爵家。伯爵は軍の中枢の要職にある国の重鎮で、私は住み込みのメイドとしてこの家に勤めていたわけであるけれど、一体何故に私が勤め先を変えることになったかというその理由は、伯爵の馬鹿息子ども、親に似て浅墓で親に似ずに馬鹿な奴らに乱暴狼藉を働かれたからだった。多くは泣き寝入りをする以外ない乱暴だったが、偶然カンツェル伯爵を訪ねていた青年に中途で発見され、私は助け出されてついでに勤め先をその青年の家に変えることになったというわけである。
青年の名はカイン・シュナイト。いわゆる白馬の貴公子、王都中の女性の憧れ、かのシュナイト公爵様である。…なんてこったい。
朝起きてからの日課は大抵、水汲みと決まっている。これはどこのお屋敷でも変わらない。カンツェル家しかり、ウィンディア家しかり、ティリカーティス家しかり。
仕事着の紺のワンピースと白いエプロンを身につけて、広い台所を通って勝手口から外に出ようとして、私はまず首を傾げた。
裏庭もここがシュナイト公爵家という名家中の名家であるということからかなりの広さを持っていた。勝手口から向かって右側に厩舎と思しき建物が建っている。そして緑の木々が林を形成しているといっていいほどにあるが、問題はそんなことじゃない。
前方の井戸で水汲みをしている青年の姿があるのだ。私の見間違いでなければ彼は当家の旦那様である。
艶やかな黒髪に色白の肌。すらりとした長身に上品で端正で高貴な顔立ち、でも決して人に柔弱という印象を与えない。彼はこのカルネリア王国でも一、二を争う剣の名手である。
「あのう、旦那様?」
声をかけるとともに私は旦那様のほうに歩み寄る。白いシャツの袖を捲り上げて、ポンプを押していた旦那様は手を止めた。
「ああ」
旦那様はこちらを振り返り、笑顔を浮かべた。爽やかで好感の持てる笑顔である。年頃の若い女性ならくらっときそうなくらいだ。…私も年頃の女性であるはずだったが、メイドはそういう感情を持たないものである。
「具合はどうだい、リラ?もう起きても大丈夫なのか?」
「ええ、まあ。…それよりも旦那様、なぜ水汲みをなさっているんですか?」
きょとんとした顔で旦那様は私を見た。
「これは俺の仕事だから」
「普通、そういう仕事は召使の仕事ではありませんか?」
それはもう聞くまでもないことではある。
「ああ」
そうして旦那様は手を一つたたいた。
「まだリラには言ってなかったね。家にはあまり召使は置いていなくてね。俺がやらないと馬の世話を出来る者がいないから。今はリラを加えて家には召使は三人かな」
絶句。なんてこったい。
そういえば最初からおかしいと感じていたのだ。
夜の夜中に私は初めてこのお屋敷に来たわけであるのだけれど、余りにも人の気配が少なかった。てっきり夜中であるからだと思っていたのだけれど。
そして旦那様にここを使うようにと言われてあてがわれた部屋は一介の新人メイドのものにしては広く、かつ立派であった。今思えば、あれは執事とかそういう系統の偉い召使、というのも変な表現だけどそうした人用のものであったのだろう。
そして旦那様に手当ては自分でできるかなと聞かれてもちろん私ははいと答えたものの、私だったらたたき起こしてでも他の召使に手当てぐらいはやらせるぞと思った。あれは単にたたき起こすのがかわいそうとかいう思いやりでなんかもちろんなくて単にたたき起こす相手がいないというそれだけの状況であったのだ。
全く、不思議なお屋敷にきてしまったものだ。
先日まで勤めていたカンツェル伯爵家の屋敷よりも幾分広いこのシュナイト公爵邸には、旦那様、妹君マリーナ様、マリーナ様の乳母、庭師兼執事もどきの老人、そして私の五人だけしか住んでいないわけである。
比較するのも変な話だが、カンツェル家などにはメイドが一ダースぐらいはいたし、執事も庭師も馬番も料理人もいた。それを考えると、奇妙なほどにこのシュナイト家には人がいなかった。
そうして、私は働きまくることになった。
朝起きて水汲み、旦那様と一緒に厩舎の掃除と馬の世話、朝食の準備、それから洗濯、昼御飯、屋敷中の掃除、夕御飯という日課である。これに時折庭掃除の手伝いが加わることになる。もちろんマリーナ様の乳母とマリーナ様が手伝って下さることは下さるのだが、この二人そういうことに慣れていないのであって、いっそ足手まといにもなる。しかも根本的な部分の私のメイド体質がマリーナ様を働かせるというその状態に拒否反応を起こすから、この二人に手伝わせる余地なく私は働くしかなかった。
基本的に私は働くのが好きである。それにも自ずから限界があろうものであるが、この屋敷に私が来る前の惨状を思い起こすと働かざるを得なかったのである。使われていない部屋は埃だらけの蜘蛛の巣だらけ、使われている部屋の掃除も行き届いているとはとても言いがたく、こう、私のメイド魂がめらめらと音を立てて燃え上がるのを感じた。
そうして、働き者の私がこの屋敷に来てから数日が経過する頃、旦那様は私の有用性を思い知ったのである。
「リラがいないと困るなぁ」
そう旦那様が呟いたのはひとしきり探し物をして部屋中を引っ掻き回した挙句に見つからなくて、しょうがないから私に尋ねたところ一瞬にして私が見つけてしまったからだ。
「そういうことに関しては俺、記憶力ないんだよなぁ。昔はそうでもなかったんだけどなぁ。俺もとうとうボケたかなぁ」
こういう人なんである、白馬の貴公子は。ベランダに出した揺り椅子に腰掛けて紅茶をすすりながら、輪郭線も崩れているんじゃないかってほどくつろぎまくりのだらけまくりで、王都中の女性の憧れ、かのシュナイト公爵様は日向ぼっこをなさっている。
もっともこの人も私と同じく働くのが好きだという貧乏性の人間だったから、こうしてくつろいでいる時間というのは旦那様には珍しく、マリーナ様曰く、もっと遊んだほうがいいのよあの人は、っていう訳だったから、喜ぶべきことなのかもしれない。
心の中でベランダ爺と勝手に命名しておいて、私は旦那様の散らかした部屋の掃除を始めた。余計な仕事を増やさないでほしいというのが切なる願いであったが、嫌な顔一つせずに仕事をこなすというのが心得である。この辺の根性は初めの勤め先であったウンディア家で叩き込まれた。
「リラはいつからこういう仕事しているんだ?」
暇な状態にもそろそろ飽きてきたのか、旦那様は私に質問することでその状態を攻略しようと考えたらしい。
「そうですね。正式に勤めに出たのは十四歳のときでしたけれど、その前からうちの母の手伝いはしていましたね。母もメイドでしたから。基本的にこういう仕事は大好きですしね」
旦那様の厳命。それは余計な敬語を使用するなということであり、だから私もこういうラフな言い方をしているんである。本当はこう流暢な敬語表現、身についたメイドとしての言葉遣い、控えめでさりげない気配り、自分で言うのもなんだが、私はプロである。他家から引き抜きの話も来るほどであった。でも何だかこの旦那様と話していると調子が狂ってしまう。
「リラの趣味はあれか?仕事だったりするのか?」
「まあ、近いものはありますけど」
「かわいそうだよな、そういうの」
「…失礼ですが、旦那様もそういった類の方であるかと思われるんですけど」
「そうだよ、だから、俺も含めてかわいそう」
「はあ」
そして時々こうやって反応に困ることを言うのも旦那様だった。
「それにしてもどうしてこの屋敷にはこんなに使用人が少ないんです?」
私はごまかすために常ならばするはずもない旦那様への質問をしてしまっていた。
「ああ、前はいっぱいいたんだけどね。父上が半年前に亡くなったのを機会にして大方の者をやめさせたからな」
「はあ?」
「どうも俺は対人恐怖症気味でね。他人が家の中にいるという状態が嫌なんだよね」
と、こともなげに言う旦那様のどこにその対人恐怖症というものがあるのだかははなはだ疑問ではある。
「ああ、そうだ」
と、そこで何やら気付いたらしく旦那様は私を手招きして呼び寄せると一つの古い鍵を手渡した。
「庭に古い倉庫があるだろう。軽くでいいから掃除をしておいてくれないか」
「かしこまりました」
確かにこのシュナイト公爵邸の庭の隅には大きな倉があって、昔は穀物倉として使われていたということだけれど、今はその必要もなく全く使われていないという話だった。
また旦那様のことだから何を考えついたのだか。
「穀物倉として再利用しようかと思って」
私の心を読んだかのごとく、さらりと旦那様は言ってのけた。
「世の中がこんな情勢ではね。備えあれば憂いなしとも言うだろう?」
現在、世の中は平和である。
うちの旦那様の慧眼は何を見抜いているのか、ただの貴族の酔狂か、まだ私には区別のつかないことであったし、ついでに言えばそんなこと知らなくてもいいことであった。
その日から数日してどこで話をつけたものやら、異国風のというかこのカルネリア王国の商人とは思われない風体の男たちが隠密裏にその倉庫に様々なものを運び込むのを当然の事として眺めることになった。
何日かしてその作業がすべて終わると旦那様はほっとして息をついた。
そうしてまたいつもの生活に戻った。
「マリーナを部屋によこしてくれ」
常になく仕事、つまり王宮から戻られた旦那様は憔悴した面持ちだった。
旦那様は世間では白馬の貴公子でとおっているし、爽やかで所々辛辣な部分のある弁舌の巧みな美男子で、でもこの屋敷内では結構変わり者で割合にひょうきんな部分もある人だった。いつも笑顔でいる印象がある、けれど今日の旦那様はいつもと明らかに違っていた。疲れきってどこか絶望のスパイスを振りかけたような表情だった。
「はい」
私は素直に返事をしたものの、やっぱり旦那様の様子を窺がわずにはおられなかった。
マリーナ様を旦那様のお部屋にお連れすると、マリーナ様も旦那様の常にないご様子に眉を顰めた。
私は二人を残して部屋を出た。まだまだやらねばならない仕事が残っていたから。
この、旦那様…カイン様とマリーナ様の御兄妹はとても仲がよろしいのが私の目から見ても明らかだった。
旦那様はマリーナ様をとても大切になさっているし、マリーナ様は旦那様を敬愛している。旦那様は御年二十三歳、マリーナ様は十七歳だ。
と、ふとそこに気付いて私は掃除の手を止めた。
いわゆる二人とも適齢期というものを幾年か過ぎているのだ。大体貴族の令息令嬢は結婚が早いものである。
マリーナ様の場合、父君のご病気から結婚が遅れたと思ってもいいのだが、その父君も亡くなられて喪もあけて、そういう話が本格的に持ちあがってもおかしくないはずである。
旦那様は常々マリーナ様を嫁にやるのは嫌だとこぼしていた。
私は頭を振るって考えを止めようとした。メイドはただ働いていればいい。旦那様方の事情に立ち入る権利は私にはないのだった。
少し困ったような表情でマリーナ様が私を捕まえたのはそのときだった。
「あのね、私お嫁に行くことになったのよ」
それから悲しそうに目を伏せて、
「だからもうこの家にはいられないの。お兄様をよろしくね」
それは、マリーナ様がお嫁にいくっていうのは私の想像の範囲内だったけど、まさかよろしくねなんて言葉が続くとは思わなかった。第一この人は私に何を期待しているんだろう。
私にできることなんてきっと全然ないのに。
「…どちらに嫁がれるんですか」
「知っているかしら。ティリカーティス子爵家の御長男だそうよ」
そしてふっと笑いをこぼして、忙しくなるわねとマリーナ様は窓の外を眺めやった。
マリーナ様のお嫁入り道具はそれはきらびやかというか豪華というか、決して派手ではないもののどこからどう見ても一流の品しか旦那様は用意しようとはしなかった
マリーナ様の嫁ぎ先、ティリカーティス子爵家というのは新興貴族の代表的な家だった。先代の当主の時に貴族になって、今の当主の時に子爵に叙せられた。そりゃあシュナイト公爵家とは比べ物にならない軽い家柄だと世間では評判になった。
旦那様の仰るには、けれど子爵は有能な油断のならない人物だということだった。
旦那様はでもこの婚姻に反対だった。それはあの日の表情からもありありとわかる。元々この話は国王から出た話だということだった。旦那様も反対だったし、ちらりと見えた子爵の憮然たる様子から彼も反対だったんだろうと旦那様は仰る。綸言汗の如し。そうして為すすべもなく両家とも納得のいかないままその話は進んでいったのだ。
その日は嫌みなぐらいの上天気で、国王陛下もご出席なさるっていうその結婚式にもちろん私は出席なんかするはずはないから一人屋敷に留守番で、ますます人の少なくなる(マリーナ様もマリーナ様のお輿入れに乳母殿もついて行くから)この屋敷で旦那様はどう思いながら暮らして行くんだろうと考えてみたりしていた。いつまでもマリーナ様の『よろしくね』っていう言葉が頭から離れることのない状態で。
そしてそれから自分のことも、自分がどうするべきなのかも。
旦那様のお帰りはそれ以来すっかり遅くなった。
朝もこれまでのように早く起きることがなくなって、出仕の時間に間に合うように私がたたき起こす始末だった。
どこか無表情な顔でぼんやりとしていることが多くなった。
それまでよく屋敷を訪れていた旦那様の部下たちの姿も少なくなった。
マリーナ様は純粋にきれいな方だった。旦那様の宝物だった。だからっていつまでもこんな状態でいさせるわけにもいかないのは、マリーナ様からの私への期待だった。
意を決して私が旦那様に向き合ったのは、大雨の晩でやっぱり夜の随分更けた頃に屋敷に戻られたときだった。
「旦那様」
私の決死の呼びかけに旦那様はうろんな目を向けた。
黒髪から雨の滴がしたたり落ちるほどで、身につけたマントもぐっしょりと雨に濡れて重そうに見えた。
初めの決心はどこへやらそういう状態を見るととりあえずは世話をしないわけにはいかない自分の性格があった。
旦那様の部屋にはこの季節暖炉に火を絶やしたことはない。半ば追いやるようにして部屋に入れると、冷え切った体を温めるための熱い飲み物を用意しに台所に戻った。
旦那様の部屋へと戻ると、明々とともった暖炉の前に旦那様の姿はなかった。
「何、考えてんですか」
いつも灯してある壁の燭台に今日は火を入れていなかった。
その暗い部屋の隅で、着替えるように言っておいたはずなのに濡れた服のまま、さっき私がひっかぶせたタオルをそのまま頭に乗せて、呆然と立ちつくす旦那様がいた。
「風邪、引きますから」
「ああ」
そんなことはどうでもいいよというように適当な相づちだけを旦那様はした。
「着替えるぐらいしてください」
私の言葉に反応はせず、それでも少しぐらいは聞こえているのだか、億劫そうに、暖炉の前に移動するぐらいはやっとしてくれた。
その場に座り込んで今度はまた動かなくなった旦那様に、しょうがないから熱いレモネードの入ったカップを目の前においた。
「なんで、そうやってるんですか」
私にとってそれは質問というよりも嘆きに近いような感情のこもった言葉だった。
「なんで?」
昔の旦那様の片鱗もそこにあるはずもなく。
「わからないよ、そんなこと」
投げやりな言葉に私は怯むわけにはいかなかった。マリーナ様の言葉が心に突き刺さるように存在していたし、それよりも何よりも。
私自身がこの人のことを、大切に思っていたから。
私は無礼を承知で旦那様の隣に腰を下ろした。
ぱちぱちとはぜる薪の音だけが響く部屋の中の痛いほどの沈黙に居心地の悪さよりもこのまま時間が止まってしまえばいいという思いを私は感じていた。
それでも沈黙を破ったのは私だった。
「どうなさりたいんですか?」
空気が緊張をはらんだ。
「旦那様のなさりたいことを、手伝います。旦那様にどうしてもマリーナ様が必要だというなら連れ戻します。死にたいんなら殺してあげます。時間が必要なら待っています。だけど、絶対に今のような状態はいやです。だって、旦那様、抜け殻みたい。ここには居ないみたいです」
一気にまくし立てて、それから私は俯いた。何を言うべきかずっと考えていたはずなのに、こんな事しか言えなかった。
「…マリーナはずっと側にいると思っていたんだ。…まさか、ティリカーティス家に」
かすれた声は途中で止まった。深い息を吐いて、絞り出すように言葉を続ける。
「俺のプライドは、俺の理想は、俺の現実認識は、カルネリア王国は滅亡すると、俺はそれに殉じて死ぬべきだと決めている。そのときにはマリーナが隣にいると思っていた」
いきなりの話の飛躍に意表をつかれ私は旦那様の顔を見つめた。暖炉の火に照らされた横顔は以前の旦那様のものだった。
「俺がティリカーティスを油断がならないと評したのは、彼が王位を狙っているからだよ。それは不可能ではないし、準備を彼は着々と進めている。思想的に俺は彼の考えを理解できるし、カルネリア王国は滅亡するべきだと俺も思う。今俺がこの国を立て直すのは不可能だからな。だったら俺はどうするか、俺は王族としてこの国と一緒に滅びるべきだ。俺はそのために為すべき事がある、そんなのはわかっている。けれど俺は一人では一歩も動けないんだ」
突然の旦那様の考えを理解するのに時間が必要だった。
ティリカーティス子爵が王位をねらっている?カルネリア王国は滅亡するべき?そんなこと私にはわからない。考えたこともない。
「君がここにいるのは何のため?」
多分私はこの旦那様の突然の質問の意図を正しく理解したと思う。だからこの答えがすべてだった。私は旦那様にわかってもらわなければならなかった。
「私は、旦那様の隣にいます。ずっと居ます。最後まで居ます。私がそうしたいから。私が旦那様の隣にいたいから」
微かに旦那様は笑ったように見えた。
「君はティリカーティス家の人間なのに?リラ・コンラート」
ティリカーティス家の当主レドリック・ティリカーティスには若い頃からの盟友が居て、その男の名前をセイ・コンラートという。私はその男の娘だった。ティリカーティス家の子供たちと同じように育てられてレドリック・ティリカーティスに目をかけられて可愛がってもらっていた。私は確かにティリカーティス家の人間だった。
「私は旦那様の隣にいます。父やティリカーティスの小父様のためじゃなくて、私のために」
側にいさせてください。信じてくれてなくてもいいから、側にいさせてください。
スパイだって言われてもしょうがない立場が恨めしかった。
コンラート家は私にとっては捨ててきた家だったのに。
それでもセイ・コンラートの娘であるという事実は変えられることもない。
ずっしりと重くのしかかる沈黙を破るすべを知らなかった。私にはどうしようもなかった。
やがてぽつりと旦那様は呟いた。
「いいよ、信じるよ」
はっとして私は旦那様を見つめた。
「だから、俺の近くにいてくれ」
今の私にはその言葉がすべてだった。
数年後、レドリック・ティリカーティスが建国した国の名をアナイス王国という。
カイン・シュナイトの理想は彼に彼の生命の存続を許しはしなかったけれど、その理想をたたき込まれた私は、彼とは違う道を彼の死後選ぶことになった。
もう一人彼が居たならば選んだ道を。
そうすることによって彼が私の中で生き続けることを私は疑いもしなかった。