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人の時間、化生の時間  作者: 勤臣蛆虫
三章 化生と人の旅路
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三十三年目 託すために

 冬が迫っている……凍える冬が。天は真白い貌で言葉もなく塞ぎ込み、地は沼の底で声無き悲嘆に暮れている。雪の溶けるその時まで、若葉が命脈の葉を広げ、再び登る太陽を見上げるその時まで。


 人の子は早々に仕事を退き、化生に着いていられる様に手配していた。元々それを可能にする蓄えはあるのだが、彼に普通の生活を送って欲しいというのは化生の願いだったのだが……余人に任せてきたと彼が告げると、化生は寂しそうな、少しほっとした顔をして頷いた。


 愛し子は山川草木の芳香を室内へと引き込み、彼女から立ち上る死の気配を隠そうと躍起になっている。蝙蝠の子は拙いながらも見様見真似で家事を手伝うようになり、甲斐甲斐しくも化生の世話をしてくれている。……ああ、そうだ、誰もが化生の為にこの場所にいるのだ。太陽の暖かさに惹かれた者達の、それは優しい空間でなければ。


 けれども化生は、少しずつ障りが出てきている。杖を突く事も次第に億劫になっているらしく、徐々に行動範囲が狭くなっている上、何より一日中の殆どを微睡むようになってしまっている。一方で昼過ぎまで昏々と眠ったかと思うと、夜半すぎに突然起き出してはぽろぽろと涙を流し始める。

 ……辛い事があったのか、と人の子が問いかけても彼女は頭を振り否定するばかりで、只々ぽろぽろと彼の腕に抱かれながら涙を流し続けた。……何が悲しいのかなぞ、愚問に過ぎるだろう。そうしてそれは悲しいだけではなく――何より怖いのだ。彼女は人の子と寄り添い生きる事を決めたのだから……人の死する先など、別れゆく先など誰も分からぬ闇中なのだから。


 生あるものは何れ死に失せる、それが生物というものに敷かれた摂理だ。神仏怪異の類にない酷く残酷な運命、それは嗜虐的ですらある。化生の生を捨てた彼女のゆく先が底根国だなどと、誰が断言できるだろう。存在が断ち切られる恐怖、決定的な断絶だ。死後、彼女は彼と分かたれるやもしれぬ、其れを思うだけで歯の根も合わぬほど総身が震え、冬枯れの寒など比較にもならぬ程に凍え、ほろほろと涙を流さずにはおれないのだ


 愛し子が懸命に結界を貼り重ねようとも、化生を死の芳香より覆い隠そうとも……それは化生にとって、最早逃れ得ぬ未来だ。愛し子は己の無力に恥じ入り、己の矮小を感じて留まることもできない。握り締めた拳に、けれども血が流れる事はない。それしきでは揺るがぬ身体を化生は彼に与えたというのに。愛授かりしその身を振るうには、彼の心はまだ幼く若い。


「……父よ、少しよろしいでしょうか」


 愛し子に声を掛けられた人の子は、化生に添えた手を蝙蝠に託すと愛し子の私室へと脚を進める。座り込むや否や、愛し子は待っていられぬと言った風に口を開く。


「……父と母が命の返還を望まないことは分かりました。私の命は望まれて与えられたものです、だからこそ私は懸命に、十全に生きましょう。――けれど」


 居住まいを正して、愛し子は人の子に向き直る。


「どうして父は、そのように心穏やかな儘でいられるのでしょう……私は怖くて悲しくて、どうして良いのか分かりません。母が儚くなる、それを思う度心が騒ぎ、悲しくってどうしようもありません。……胸の奥が締め付けられて、居ても立ってもいられなくなります。何か……そう、何か出来ることが有るのではないかと気が急いて、……途方もなく、苦しくなるのです……」


 ぎゅっと胸元を握りしめながら、愛し子は絞り出すように言葉を紡ぐ。


「そうか……そうだな。大人びた様子だったけれども、身近な誰かを失うという経験は、初めてだものな」


 人の子は愛し子をそっと優しく撫で擦り、化生がそうしていたように、彼をそっと抱きしめた。……最早人の子よりも背丈があるとはいえ、彼の歴史は未だ短いのだ、初めての経験に、不安になって当然だろう。……卒なく知恵を蓄えているように見えて、ほんの小さな鼠すら哀れに思って命を与えるような優しい子なのだ。一等感じ易く、悲嘆を抱えるのも仕方のない事だろう……けれども、何れは。

 

「……辛い役目を背負わせてしまったのかもしれないね、お前には。私達の我儘に、巻き込んでしまったのかもしれない」


「我儘などと! 父と母は万難を除いて私に生を授けてくれたではありませんか! 父母の働きからすればこの程度、我儘のうちにも入りますまい」


 抱擁を振り解き力強く否定する愛し子に応えるでもなく、人の子は少し困った風に眉を下げてから、再び彼をそっと撫でた。


「そうか……お前は大人びているなぁ……けれど、もっと私達を頼って良いのだよ。父も母もお前より先に死ぬ、それは避けることのできない“かたち”だ。だが、お前がいるからこそ私達は安心してゆける。後事を託して、未来を託して、人と妖かしの総てを託してゆけるんだよ。――それはきっと、悲しいばかりのことではない」


 優しい掌で愛し子を慰めながら、人の子はきっぱりと言い放つ。

 悲しいばかりではないのだ、受け継ぐという事は。その誇らしさを、彼にどう伝えれば良いのだろう、生きる者達の明日を繋ぐためにお前に任せていけるのだと、どう伝えればよいのだろう。この大人びた息子は、どうにも難しく考え過ぎるきらいがある。幾度と無く時を過ごし、壮年と表して良い程歳を重ねた人の子も、未だ彼にどう伝えれば良いか分からない。そしてそれは永劫分からない儘なのだろう。


 だからこそせめて、掌の暖かさを忘れないで欲しかった。生きるものの暖かさを知るならば、きっと悩みながらでも進んでゆける。時には雲間に姿を隠すこともあるだろう。涙雨を降らせる事もあるだろう、烈火の如く雷を降らせることもあるだろう。それでも、それでも――。


「生きるものが死に、そして新しい命がまた産まれる。その繰り返しが少しずつ、少しずつ私達を良いものに替えてくれる。明日を見つめるために、その先を見据えるために。――未来を守ってお上げなさい。悩んでも良い、迷っても良い、けれども……どうか彼等を嫌いにならないで欲しい。誰だって一人では寂しいんだ、悲しくって辛くって堪らないんだ。だから、膝を折って俯いている人を照らしてお上げなさい。悲嘆に暮れる人の指先にそっと熱を伝えてお上げなさい。優しい貴方には其れができる筈だから」


「…………」


 押し黙る愛し子の、しゅんと項垂れた頭を抱きかかえ、人の子はもう一度優しげに抱擁した。


 雪解けを願う生き物達が、息を押し殺して彼等を見つめている。

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