1-6
桜花は不思議な女性であった。
彼女と初めて会った時のことを晃人は覚えていない。
気づいたときには、すでに横にいた、と言ってもいいのではないかと思えるほど身近な存在であった。
幼い時、一つ年上のお姉さんという立場であった桜花は、晃人から見ても周りの子供達よりもだいぶ大人びていた。背丈はそんなに変わらなかったのに。
今でもそうだ。
晃人は知らないうちに桜花の背丈を抜かしていた。
なのに、晃人にとって彼女はまだまだ大きな存在であった。そして、いつまでも桜花は自分のことを子供扱いする。それでいいのかもしれない。ずっと桜花は姉の存在で居続けてくれた方が晃人もあまり気をつかなくていい。
たが、晃人は彼女が自分のことを今でも自分のことを小さい子供のように思っているのではないかとそう考えてしまう。
それは晃人が勝手に思っていることなのかもしれない。
「知らなくていいんだよ」
それは彼女の口癖だった。
自分は何でも知っているから、晃人に危機的状況が降ってかかってきた時だけ助けてあげると、そう聞こえてしまうのだ。桜花はそう思っていなくても、少なからず晃人はそう聞こえてしまうのだった。
自分は小さい。
世界の荒事に流されてしまう存在である。
だが、桜花は大きい。
大きすぎるのだ。
まるで、彼女はこの世界を手のひらで転がしているのではないか、とそう見えてしまう時があった。それほど彼女はこの世界について知り尽くしていた。そして同時に影響力もあった。
自分は彼女に頼りすぎているのかもしれない。
元々桜花とは釣り合わないと感じていた。
どんなに晃人が成長したとしても、孤高の存在である彼女の場所まで届くことはできない。どんなに足掻いたとしても、到底たどり着くことは叶わないだろう。
しかし、そうだとしても、やはりそこへ手を伸ばしたいと、掴み取りたいとそう思わないわけがなかった。
だから晃人は桜花が出て行ってからそれほど時間が経つことなく喫茶店から出て、あるとこrに
太陽は沈んだ。
あたりを見ても、すでにあたりは何もなかった。
黒であたりは埋め尽くされ、染められ、自分の目で見えるものはもう何一つなかった。
明かりなどない。
それはそうだ。完全にあたりは森林で覆われ、晃人の姿も周りに人間がいたとしてわからないような場所に来たのだから。
晃人は空を見る。
春はもう来ている。
冬の星空ではない。
雲が空にばらまかれ、月の光をところどころ遮り、大地を明るくすることはない。
そんな空を晃人は眺める。
「お前は飛べない」
そんな声が耳に入ってきた。
晃人は驚いて後ろを振り向く。
だが、そこには誰もいない。
誰も、気配も何も感じない。
暗いこんな中で人が隠れているとは思えない。
だが、その声を聞いた晃人はしゃがみこんで、頭を抱えてしまう。
どんなに考えないようにしたとしても、その幻聴をかき消すことはできない。
むしり取りたい。
なんでこんなにもこびり付いてしまっているのだろうか。
俺は飛べる。
飛べないなんてことはない。
「ふぅ……」
腹にまで空気を満たし、一気に吐き出す。
そして、もう一度息を吸い込むと、背中に力を込める。
「っ!」
そして舞い上がる。
宙に浮かぶ。
いいや、
「飛んでんだよ!」
背中には淡く輝くように、粒子をあたりに振りまく翼が生えていた。
――偽りの翼。
天使のように神々しいものでもなく、悪魔のように狂気に包まれたものでもない。
存在しないはずの翼。
飛ぶための翼ではない。
ただの飾りのようなものだ。
晃人は自分の背に生えたモノをそう言われた。
もうこの世界にはいない両親から。
いつまでたっても居候しているじじぃから。
地に縛られたモノだと宣告する医者から。
世界を知らないと告げる桜花から。
そして、
お前は飛べないとそう言い放った兄から。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
空に向かって咆吼した。
白く輝く翼が風を掴んで。
思いっきり地面に叩きつけるように。
動かす。
力強く。
どこまで自分は飛べるのだと信じて。
背中にある翼はホンモノだということを証明するために。
晃人は手を伸ばす。
空に浮かぶ、ほのかに光を放つ、朧月に。
「あぁ……」
触ったような感覚が手から神経を伝い、頭に響き渡ってくる。
その時。
淡い光を中心に――人の形をした影を見つけた。
さらに手を伸ばす。
――届きそうで。
――だんだんど近づいているのに。
やはり俺ではダメなのか。
そうだ。
晃人は思い出した。
こちらに飛んでくるな、と雷を落とす神からも、お前の翼は偽りだと、言われていたことに。
ガラスが割れるような音がする。
それは幻聴ではない。
後ろを見て翼がなくなっている光景も、それは幻視でもなく、ただ当たり前の、現実であることを晃人はわかっていた。
どんなに細くて頼りない蜘蛛の糸だとしても、晃人はそれに縋ろうとする。
しかし、そんなものすら空から垂らされることもなく、現実は晃人を助けようとしない。
手を再度空へと伸ばす。
だが、晃人は地に縛られたヒトだ。
重力に抗うこともできず。
ただ――大地に引っ張られた。