1-4
トンネルを何回か抜けると、電車は最寄駅に着いた。そこから徒歩で十分程度歩けば、家に着く。
平日であるため、晃人がこちらから病院へ行く時は、通勤で多くの人が駅へと向かっていくのを見ることができたが、今はもう昼に近づきつつある時間帯だ。市内から出て行く人間は多くても、市内に入ってくる人間は少ない。なので、晃人が歩いていても、向かい側から歩いてくる、もしくは、追い越していく人の姿は、ほとんど見ることがなかった。
晃人の家の近くには、大きなショッピングセンターがある。晃人にとっては、買い物がそこでほとんど済ませることができるため、ありがたい。だが、晃人のような人間が多いためか、街の商店街はそのほとんどがシャッターを下ろしてしまっている。今歩いている道もこの時間帯で店を開いているのは片手で収まるほどしかなかった。それは仕方ないのかもしれないが、歩いている人間としては、景色が変わらないのは歩いていて退屈に感じてしまう。活性化はもう見込めないのかもしれない。
そんなことを考えていると、鼻の頭に水滴が落ちてきた。
顔を上に向けると、空からいくつか、水滴が落ちてくるのを見ることが出来た。それらは、自分の手や、頭にポツポツと落ちてくる。
――雨だ。
朝の天気予報では今日一日曇りとなっていたが、雨は降らないと予報していたはずだ。それはどうやら裏切られたようで、晃人は少し駆け足で家に向かう。
用意周到ならば、よかったのかもしれない。
傘ぐらい持っていてもよかったのかもしれない。いつも通院するときは、財布と携帯電話をそれぞれ左右のポケットに忍ばせるだけで、バッグを持っていったのは初回だけだった。毎回少量の薬をもらうくらいなので、バッグの必要性がなくなってしまったのだ。
雨はだんだんとアスファルトを黒く染める。
ものの数分で土砂降りになってしまう。
家はすぐ近くなのだが、歩けないほど強くなり、顔に打ち付けてくるようになってしまう。仕方なく、地区内にある公園の屋根付きの休憩所に入る。
中には、ベンチとテーブルが置かれている。
いつもは、子供たちが公園内で遊んでいるのを、保護者がここから眺めている、というようなのが良く見られる光景だ。
しかし、この雨ではどうやら、子供たちも帰ってしまったのだろう。すでにこの公園には誰もいないようだった。
それにしても、四本の木の柱に屋根を取り付けただけのものであるため、簡単な作りとなっているからなのか、雨が打ち付けてくる音が激しく、騒がしい。
だが、屋根が大きいおかげで、中心に居座っていればどんなに風が吹き付けて中まで雨が入ってきたとしても、それほど濡れることに心配はいらなかった。騒がしいくらい、特に気するようなことではなかった。
そこで――見つけた。
土砂降りで雲が厚いために、太陽からの光を完全にシャットダウンしているので、昼に近いこの時間帯だとしても、夕方のように暗い。ましてや、屋根が大きいこの休憩所の役目を果たしているこの小屋では、中まで光が届かない。そのため、全くと言っていいほど中の様子が見えていなかった。
中にあるベンチに座ろうとした時。
奥の方で何かがうずくまっていたのを晃人は見つけたのだ。
一応、人の形をしている。
どうやら、その人も雨宿りをしているらしい。
目が慣れてくる。
その人が女性だとわかる。
長くて黒い髪。雨で濡れてしまっているためか、一瞬幽霊かと思うほどだった。顔をしたに向けてしまっているため、表情が見えない。それになぜだか、この季節では寒くて外に出られないんじゃないかと思うような、そんな服装をしていたのだ。
――ワンピースなのだ。それも白いワンピース。
夏ならとても似合う服装だが、この時季では見ている側が鳥肌を立たせてしまう。もう少し、いや、ちゃんと暖かい服を着て欲しい。
それよりも本当に幽霊じゃないのか、だどと晃人は思い始めてしまう。
晃人は彼女が座っているベンチに座ることなく、もうひとつの方に腰を下ろす。雨宿りするだけだ。この騒がしい音でそんな思い込みなど考えなくなる、気が紛れるように思えたから、晃人はただ雨が止むのを目をつぶって寝ている風にして待つことにした。
時間は経っていく。
耳に入ってくる音は、知らずしらずになくなっていた。
昼前にはどうやら、雨は止んでくれるんじゃないだろうか、そんなぐらいに雨は弱くなっていた。目を開ければいくらかは明るくなっているように見えた。。
だが、まだ完全に止んでいるわけではない。暗さは先ほどの黒ではなくなり、ただ灰色に薄まっただけだ。
しかし晃人は、この後の天気を考えると今のうちに家に向かって走ってしまった方がいいのではないかと考える。それに加え、いつまでも隣にいる彼女が晃人にとっても薄気味悪く、ここから立ち去りたいという思いもあったのだ。
なので晃人は、立ち上がって外に出ようとする。
「あ、あの……」
後ろから声をかけられる。
それが最初自分に声をかけられていたのかわからなかったが、この空間にいるのは晃人とベンチに座る彼女だけだ。すなわち、彼女が自分に声をかけてきている、そう理解した晃人は彼女の方へ向く。
声からすると、女性というよりは少女のようだ。彼女はここに来た時と同じように顔を下に向けたままだった。本当に彼女が声をかけてきたのだろうかと疑問に思ってしまうのだが、どうやら少し口を開いて何かを言おうとしていることぐらいはわかった。
「えっと……なんでしょうか」
あまり晃人は喋らない人間だ。
そのため、赤の他人に話しかけるのも本当は嫌ではあった。敬語だって使うことが少ない。なるべく当たり障り無いように話しかけたのだが、彼女がビクッと反応したため、晃人は少したじろぐ。
「……私の言葉、通じてますか?」
「……はい?」
「い、いえ、なんでもないです……」
彼女がようやく口から出た言葉。
だが、その言葉は晃人には理解できなかった。いや、理解できなかった、というよりは彼女の言葉を聞き間違えたのだと思ったのだ。すぐに「通じてますよ」と言うことができれば、彼女がさらに顔を俯かせることはなかっただろう。
しかし、晃人にはできなかった。
気が利いた対応など晃人が出来るわけもなく。何より彼女の外見は、日本人だと思わせるには十分だったのだ。そして、こんな田舎でまさか、日本語の通じない人間がいるなんて考えもしなかった。
しかし、服装を考えると彼女にはなにか秘密があるに違いなかった。そんなことも考慮出来ない自分を晃人は恥じた。
「あの、ちゃんと通じてるから」
彼女はまだ怖がっているようだった。だから晃人は、自分が持てる能力を使い、なるべく柔らかく接するように試みた。
「……わかりますか?」
「わかるから。……大丈夫だから」
「そ、そうですか……」
彼女はそう言うと、顔をだんだんと上へとあげる。
その顔を見たとき、晃人は明らかに驚いた。
暗い印象を持ってしまっていた晃人だったが、公開した。彼女の容姿を一目見れば、クラスの女子など比較にならないくらい、綺麗な子だった。輪郭が顎に向かってすっきりと滑らかなラインを描き、黒い髪の毛が肩よりも長く、顔が小さく日本人形のような子だった。しかし何より、彼女の目を見れば碧眼で、 そこで改めて日本人ではないことを理解する。
少し間があく。
「……あ、あのさぁ、何か聞きたかったんだよな?」
すっかり彼女の顔を見つめてしまっていたことに、恥ずかしさを覚える。晃人は自分の口調が戻ってしまっていることにすら気づいていなかったが、とにかく見つめていたことを気づかれたくなく、聞いていた。
それに彼女が日本語が通じるか、というだけで、晃人に声をかけてくるとは思えなかったのだ。
「あ、そ、そうでしたね。すみません、私から話しかけたのに」
言葉が通じることがわかったおかげで少し、声が大きくなって晃人も助かる。
どうやら彼女もまだ聞きたいことはあるようだし、それに外はまたも雨の勢いが強くなってきているように思えたので、晃人は後ろの元いたベンチに腰掛けた。
「言葉が通じるなんて思ってなかったので、なかなか切り出せなかったんです……。あの、この辺の方々はあなたの使っている言語を使われますか?」
晃人は首を捻る。
言っていることはわかるのだが、なぜそんなことを聞くのか疑問を感じてしまう。
「そりゃあ、ここ日本だからみんな日本語だけど」
「日本語、ですか……。少し安心しました。私が話しているのも日本語でいいですよね?」
「まぁ、そうだろうけど」
彼女が聞いてくればちゃんと答えている。なのだが、その一つ一つの質問に何度も首を捻ってしまう。 そんなことを何度もしていると晃人の頭から色んなモノが抜け出していくような感覚を覚えた。
はっきり言って、彼女は日本語が上手い。
お世辞ではなく、容姿からも日本人であることを疑問に思わないほど、綺麗にスラスラと言葉が出てくる。
なのに、彼女は自分が話している言葉が何なのか、今先程まで理解していない節を見せていた。どういうことだろうか。
「もう雨は降らないようですね」
「……?」
横を見れば、薄暗い中で彼女は空を見上げていた。
いつの間に雨音も止んでいた。
しかし、依然として空は暗かった。
先程に比べれば徐々に雲が薄くなってきていることは見ればわかった。そしてこの後、雨が降らないのならばそれに越したことはない。これ以上雨に濡れることなくそのまま帰れれば、すぐにでも風呂で暖まりたいと考えていた。
しかし、引っ掛かりを感じた。
「雨、止んで欲しくなかったのか?」
「え?」
もう雨は降らない、そういった時彼女の顔は、どこか寂しいような、悲しいようであり、晃人はその顔を見た途端、口からそう言葉が出ていた。
「ごめん、今のなし」
そう素早く切り返したが彼女は、どうやらちゃんと晃人の問いは耳に届いていたようで、少し息を整えるようにしてから口を開いた。
「実はそうです。……出来るのなら雨は止んで欲しくなかった。そう思っています」
「なんで?」
「なんで、と言われましても、ちょっとそれは言えないです」
そう言うと、彼女は立ち上がる。
だが――晃人はその行為に違和感を感じた。
ワンピースで隠すことのできない部分は全部で五つだ。頭、両手、そして両足。その五つは滑らかな白い肌をしていて、特に細い手足に目を奪われたからなのだろう。晃人は彼女の動作はどこか、人間ではない動きをしたように見えたのだ。
晃人の頭にモヤがかかっているなか、彼女は晃人の方を向く。
その顔はどうやら笑みを浮かべているようであったが、やはり晃人には、寂しそうに見えて、悲しんでいるように見えてしまった。
「あと、一つお聞きしていいですか?」
そう聞かれ、晃人は小さく頷く。
「あなたは、《サクマ ハヤヒト》と言う人物を知っていますか?」
「……」
一瞬躊躇いが生まれる。
だが、晃人はそれを気にすることなく、「知らないよ」と答えた。
「そうですか……。ありがとうございました」
晃人に向けて頭を下げる。
そうすると彼女はゆっくりと晴れ上がった空の下に歩み出す。
いや、歩き出す――ではなかった。
光の入らなかったため、先ほどの動作をただの違和感で止まっていたのだが、今の行為によって、彼女が異常であると決め付けることとなった。
――浮いている。
確かに彼女の足は地面に着くことなく浮いていた。
ゆっくりと、静かに。
彼女は空の下へ移動する。
空は光が溢れていた。
一筋の光が少女を照らす。
そして――。
その一筋の光を吸収していくかのように、背中から光の粉が溢れる。まるで近くに星があるかのように淡い光を少女は纏わせていた。
晃人は眩しくも目をつぶることは避けた。
見ていなければならないと、そう心が訴えていた。
空から雲が消えていく。
彼女は晃人の方を向いて口を開く。
だが、その瞬間に思わず目を閉じてしまうほどの光が溢れた。
「また、お会いできることを願っています」
手で光を遮りながら晃人はそれを見た。
彼女はその言葉を残して――空へと舞い上がっていったのを。