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「調子はどうだ?」
背中をマッサージをされながら、晃人は「まぁまぁ、かな」と返事をする。
それほど時間はかからずに体を起こされ、服を着るように言われて、籠の中に入っていた衣服を身に纏う。
腕から、そして頭を衣服に通し、前を見た時には白衣を着た中年の男が、カルテにボールペンで先ほどの晃人の診断結果を記入していた。どういった内容なのかは、医学を学んでいない、いや、たぶん将来医学を学ぶつもりのない晃人にとっては、わかるわけがなかったが、あまり良くはない症状である事は、男の顔から窺うことが出来た。
だが、だからといって、自分の体は大丈夫なのか、と聞くことはしない。
今までも同じようなことをしてきたのだ。すぐに体を壊すことなどないだろう、と晃人はそう思っていた。
「外見から見ても特に異常はなし。骨も異常ではないレベルだから、普通に生活はできるだろうよ」
そう言っている割には、中年の医者はあまり良い顔をしていない。
だが、すでにこういった顔は何回も見ているし、言葉も聞いてしまっているために、さほど晃人は気にした素振りを医者に見せることはない。
「とにかく――普通に生きられるんだな?」
「あぁ、だろうな。――普通にしていればな」
率直に医者に聞く晃人だが、医者も医者で、指を上手く使いながらボールペンを回し、ごく単調にそう告げた。
「ただ、まぁ……普通にお前が生活できるはずもねぇからな……。そのへん考えてみんと、発症率は相当高くなるだろうな」
いったんペン回しを止めた医者は、目の前に座る晃人の目を見ながら、そう言った。
「背中を触ったが、少し、俺にしちゃ念入りに調べたつもりだったが、ほとんどそこらにいる高校生男子の、それも部活をやっているような奴らとあんまり変わらないんだよな、お前の体って」
実を言うと、晃人はまだ高校生ではない。
高校生になる、という段階だ。
だから中年の医者がそういうように、晃人の体は中学生ながらも、すでに成長しきった男と比べたとしても、さほど違いはない。そのため、学校内での背丈は上位に食い込む。
ただ、数人やけに細長く成長した人間もいるため、晃人は上位に食い込むだけに留まっている。
しかし、彼らとは違い、全体的に成長した晃人を周りにいる人間は、数字による大きさよりも、だいぶ大きく見えるため、良く知らない人間が見れば、大人と間違えるほどなのだ。
それが原因となっているのか、晃人には友達と言えるようなほどの存在が周りにいない。そして、高校生活で友達ができるかどうか、わからない。作れないかもしれない。ただ何気ない日常生活を話すくらいの仲だったクラスメイトはいたのだが、そのクラスメイトも卒業してからは、この春休み中まだ一度も再開をしていない。
もしかすると、もう会うことはないのかもしれない。
「だが、たった少しだけだ。やはりそれらしきものは出来始めている、と俺は思う。いったいこれがどのくらいの速さで形成するのか、正直言って俺にはわからない」
中年の医者は、晃人に背中を見せろと告げる。
その指示にしたがって、晃人はシャツを巻くって背中が見えるようにするが、それはしなくていいと言いながら、医者は晃人の背中を押した。
痛い、とは感じない。
ただ押されているという感触。
だが医者は、そこに少しだけを違和感があると言う。
「左右一か所ずつ、こことここだな」
親指で押されているのは、肩甲骨のちょうど中心。そこに何の異常があるのか、晃人その本人自身がわかっていなかった。
「なにがいけないんだ?」
「なにがいけないって、それはだな……わからん」
「は?」
医者の言った言葉を聞いて晃人は口から間抜けた声を出してしまう。
「なんで押してんだ?」
「勘だな」
「……」
医者の言っていることがわからない晃人は、後ろを振り返って相手の目を見て睨む。
だが、そんなことをしても、医者は特に気にすることなく、少し笑い飛ばすかのように口を開けて言う。
「案外、俺の勘ってけっこう当たったりしてるんだ、これがな」
「なんの根拠もないんだ」
「そんなことを言うなよ?」
笑いながらそう言い、医者は机に置いてあるカルテを見ながら、
「やっぱり、俺から言わせてもらえばな、その部分は体から異常を発信しているように感じ取れるんだ」
トーンを落としたその声は、晃人の耳に一語とも取りこぼさずに入り込んだ。
「今は大丈夫かもしれない。だが、いつかは、どうすることも出来なくなるだろうな。だから今のうちに治しておくんだよ。そんで、今のところ症状を抑えるのはこれだけだ」
医者は机の引き出しから袋を取る。
その袋に手を入れて、一つの瓶を取り出し、机に置いた。その中には、丸くて白いどこにでもあるような錠剤が瓶の半分ほど入っていた。いや、残っていたと言っておいた方がいいかもしれない。瓶の上半分に入っていた錠剤は、すでに晃人が飲んでしまったぶんだ。
一日に一粒。
一粒だけ飲んで、効果は出る。
晃人は手を差し出す。
医者に向けて。
当然の如く。
だが、その手は簡単に払いのけられてしまう。
「お前は勘違いしているんじゃねえか?」
「……なにを?」
そう聞いた晃人を医者は見て、ため息を吐く。
「これを魔法の薬と間違えてんじゃねえだろうな?」
「魔法の薬だ? 何言ってるんだよ、普通の薬だろ?」
「だからよぉ……」
もう一度ため息を吐いてから、手に持っていたペンを晃人の額に突く。
突然のことで晃人は少しだけ呆気にとられる。ボールペンの先端で突かれたため、少し痛みを感じるのでその部分をさすりながら医者を睨む。だがそんなことはどうでもいいと、気にしないで、真剣な顔で、ちゃんと聞けよな? と言ってくる。
「お前……飲んでないだろ?」
「……」
無言はつまり、肯定を意味していた。
「お前の言うとおり、これは普通の薬だ」
「だから何なの?」
少し苛立ちが募り始め、力が入ってしまう。
自分が飲んでいないのは、しっかりとした理由があるためだ。そう心の中で呟く晃人は、無理矢理でもいいから、医者から机に置かれている瓶をもぎ取ろうとするのだが、彼はそうやすやすと扱いの知らない人間には手渡さなかった。
「もう一度言っておく」
医者は瓶を持って窓の近くに立つ。窓は今、カーテンで閉められていたが、医者はそれを開けて室内に光を取り込む。その光に晃人は眩しさを覚える。目を細めてそちら側にいる医者を見ようとするが、医者の顔は逆光によって見えなかった。
だが、その顔についている部位が動くのだけは見ることが出来た。
「これはただの薬だ。ただの――お前のための――お前だけの薬だ。これを飲まなければ、お前はお前でなくなる。それだけだ」
医者は問う。
「一体お前は――なんなんだ?」
「……」
「――誰なんだ?」
「……」
「――何者なんだ?」
晃人は答えない。
「その答えをお前が一番知っているだろうな」
「……」
「自分が決めるんだ。何もかも自分で」
沈黙が流れる。
医者はその場から動こうとはしない。晃人も座ったまま、口すら動かそうとしなかった。
途中で隣の部屋と繋がっているドアから看護師が入ってきたため、その間の沈黙は解かれた。その看護師は晃人の後にいる患者のカルテを何枚か、束で持ってきた。時計を見ると、すでに短針は『9』の上に置かれ、長針は『0』を指していた。
だいぶ時間が経ってしまっていたことに気づく。
医者もいつまでも晃人に構っていることはできない。それは晃人もわかっていた。
だから晃人は籠に入ったままのコートを手に取り、袖を通す。
そして診察室から出ようとしたとき、コートのポケットの中に、ガサガサと何かを入れられたような音がした。
後ろを振り向く前にポケットの中を確認すると、そこには見慣れた紙袋が入っていた。それはただ普通の、どこにでもあるような形の薬が入っていることを晃人はなんとなくわかってしまった。どこにでもあるはずななのに、ただの薬なはずなのに、何度も何度も、説明をされた薬だ。
後ろを見ようとした。
だが、その時にはすでに、医者は晃人が出て行くドアとは反対側にあるドアが閉められていた。そこにはもう誰もいなかった。
仕方なく晃人は病院から出ることとなった。