優良少年
第一印象は、なよっちぃ奴。
いつもへらへら笑ってて。髪が微妙にうっとうしそうなくらい長くて。自分の思ってること口に出せなさそうな。なんとなく嫌いな部類に入る奴。
でも、黒目がちの大きな瞳とか。やわらかそうな細い髪とか。爪とか。よくみるときれいで。
ぽわんとしている君が、いっしょうけんめいだって知ったとき、愛しかった。
笑いかけてくれたとき、嬉しかった。
気がつけば、好きだった。
放課後に、ひとりでトイレ掃除なんかしてるから、しょぼいいじめかと思った。
「ちがうよー。班の男子、今日は選択の音楽でコンクールに行ってるからさー」
やわらかく言うから、なんか嬉しそうに笑って言うから、ばかじゃないのって言ってやった。サボればいいじゃんって。
「でもさー、汚いと入る気しなくないー?」
水道にホースをつなげながら、言う。
「それにもう終わるしー。水で流すだけー」
ホースが水圧で外れないように、深く、挿す。
ばかじゃないの。損してるよ。
「損とか得とかさー、考えたってしょうがないしー」
世の中、そんなこと考えてる人ばっかだよ。あんたみたいな奴めずらしいよ。
言ってやると、黙った。黙って蛇口を捻って水を出してあたしに背を向けて、ホースの口をタイルに向けた。数秒して弱々しく水が流れ出てきた。
「じゃあさー、橘は損とか得とか考えておれに話しかけたのー?」
蛇口から流れ出す水が急に強くなった。見ると奴が口をつまんでいた。
トイレのドアに立っているあたしに背を向けているから、どんな表情しているかわからない。わからないけど。
名前が、苗字が同じだったから。
クラス表を見たとき、字は違うけど、苗字が同じだったから、なんとなく気になってた。
『橘』と、『立花』。
下の名前の順で、あたしの方が後ろ。
だから、授業中とか、目に映って。
目に入るから、見てた。気になるから、見てた。後ろ姿を、いつも。
水がタイルを叩き付けて、汚れを洗い流していく。健気な排水口がそれを飲み込む。
たちばな。
声に出すと、奴は振り返った。
「なにー?」
やわらかい笑みを浮かべて、振り返る。その少し長い髪を、少し揺らして振り返る。
なんでもない。
そう言うと、目を細めて笑って、なにも言わずに首を元に戻した。
呼んだんじゃない。ただ、声に出してみただけ。あたしと唯一おなじところを、声に出してみただけ。
奴が、蛇口を閉めた。
ホースを外して、縦に持って、中に残ってる水を出す。それから出し切ったそれを巻いて、掃除道具入れに、戻した。
その間、奴はなにも聞いてこないで、あたしもなにも言わなかった。
最後のしめみたいに、奴が水道で手を洗う。手を濡らして、添え付けの液体の石鹸を出して泡立てて、洗う。
ねぇ、損とか得とか、考えてあんたに話しかけたんだよ、あたし。
好きだから、しゃべりたくて。
いつもいつも、後ろ姿だから。
顔が見たかったの。後ろ姿なんかじゃなくて、正面に立って、向き合って。目を合わせて。ただ、あんたとしゃべりたかったの。
これはまだ、声に出せないけど。おなじって自信がないから、言えないけど。
奴が、手の泡を水で流す。
手の動きが、きれい。
爪が、きれい。
好き。あんたをつくるすべての要素が好き。
水を止めて、制服のポケットに手を入れると、ハンカチ忘れたみたいだった。小さく声をもらして、ちょっと困ってる。
ハンカチくらい、貸すよ。それくらい、あたし持ってるよ。
なんだか恥ずかしくて、照れくさくて、頭の中に浮かんだいくつかのセリフを1つも言えないで、結局乱暴にハンカチを突き出した。
わけもわからず恥ずかしくて、照れくさくて。顔が赤くなるのが自分でもわかって、耳まで熱くて。
どんなふうにしていいかわからなくて、なにも言えないまま、気付いたら走り出してた。
恥ずかしい、恥ずかしい。
ちらりと見えた鏡に映っていた自分はやっぱり真っ赤で。
放課後でよかった。
ろうかに、誰もいなくてよかった。
そんなこと考えてる頭に、奴の声が聞こえた気がして、立ち止まって、ちょっと振り返ってみる。
すると、なにか言いながらあわてた様子で手を振ってた。
「ハンカチありがとう! 明日返すねー!! ばいばい!」
なんだか照れくさくて、返事もしないであたしの足はまた走り出した。
やわらかい笑顔が好き。
掃除をいっしょうけんめいやってるのが愛しい。
机つるときとか黒板消すときとか、いっしょうけんめいやってるのを、見てたの。ずっと。
もっと話せたらいいな。
あたしに笑いかけてくれたらいいな。
いつか、あたしのこと好きになってくれたら、嬉しいな。
そんなことを思いつつ、赤い顔でニヤけながらスキップでもするような軽い足取りで下駄箱に向かった木曜日の午後。