「聖女の参道は貴様には渡さん」と追放されましたが、私は潮汐表を作る係なので、明日から参道は現れません ――前世・港湾観測所の潮位測定員、三百年ぶんの干満記録を持って出ていきます
「聖女の参道を、下賤な数字読みの貴様に渡しておけるものか。潮汐記録係ミオラ、今日限りで神領を追放する」
大神官ヴァルドレイ様の杖が、石畳を打ちました。
高い音が本殿の天井に反射して、二度ほど鳴って消えます。この部屋は反響がよいのです。わたくしは十二年、ここで潮位表を手渡し続けましたから、音の返り方まで覚えてしまいました。
わたくしの隣では、義妹のリリシアが、今朝仕上げたばかりの潮位表を両手で握りつぶしていました。
「こんな汚い紙切れ、聖女には必要ありませんわ」
白絹の聖衣。新品のような光沢。緩く巻いた金髪。
紙は、くしゃりと音を立てて丸まりました。
わたくしは、まず羽根ペンを置きました。
泣きませんでした。怒鳴りもしませんでした。
感情がないのではありません。感情より先に、手が動いただけです。
開いたままの観測帳。最終行が、まだ空白でした。
『第四千三百八十回・干潮十六時四十分・潮位マイナス一・〇二・南風弱・月齢二十七』
書き込み、インクが乾くのを待ちます。
十二秒。この季節の神領の湿度なら、だいたい十二秒です。
「何をしている」
「書き終えておりました」
「不要である。今日限りと申したであろう」
「はい。ですから、今日のぶんは書きました」
大神官様は、わたくしの手元を一度も見ませんでした。十二年間、一度もです。この方は、紙を受け取ることはあっても、開いたことがない。
わたくしは観測帳を閉じ、一礼しました。
「承知しました。では、本日十六時四十分の引き潮までに退去いたします」
「——は」
大神官様が鼻で笑いました。顎髭が揺れます。
「そんな細かい時刻、誰にでも言える」
祭壇の隅で、神官補佐のペリム様が書類を抱えたまま、床を見ていました。
十二年間、わたくしの観測帳を大神官様のもとへ運び続けた方です。
この神領でただ一人、紙がどこから来るかを知っている人。
顔を上げませんでした。
わたくしは、少しだけ考えて、こう申しました。
「……そうですね。どうぞ、明日もお言いになってください」
それが、わたくしの唯一の反撃でした。
言い返しは、それだけです。
復讐ではありません。
ただの、事実の予告でした。
本殿を出て、参道へ降ります。
石畳の、七枚目。
そこに嵌まった貝殻の欠けを、わたくしは十二年、基準点にしてきました。ここが濡れ始めたら、残り四十分。ここが完全に沈んだら、もう渡れません。
膝をついて、指で触れました。
乾いています。
十六時四十分。
あと一刻と少し。
わたくしは観測帳だけを抱えて、渡り道を歩きました。
潮は、きっかりその時刻に引いていました。
わたくしが計算したとおりに。
◇
対岸の漁村に着いたとき、日はもう傾いていました。
納屋の藁を貸してくれたのは、灯台番のジョナ様です。七十一歳。片目が白く濁っていて、夜の海は見るのではなく聞くのだとおっしゃる方。
毎朝、神領の石段の下まで薪を運んでくださっていました。
そのたび、短い言葉を交わしました。
「追い出されたか」
「はい」
「そうか」
それだけでした。礼も説明も求められませんでした。
「寝ろ。潮はお前さんを待たん」
朝市で小魚を三尾買いました。銅貨二枚です。
塩を振って、借りた炭火で焼きました。皮が縮れて、脂が落ちて、小さな音を立てます。固いパンを汁に浸して、一緒に食べました。
おいしい、と思いました。
十二年ぶりに、食事の味を考えました。
神領では、干潮と満潮の合間に立ったまま押し込むものでしたから。
井戸水で手を洗いました。インクの染みは落ちません。十二年ぶんです。落ちるわけがありません。
藁の上に横になりました。
不思議でした。
明日の干潮は五時五十分。起きなくていい。
起きなくていいのです。
「……起きる時刻を、潮に合わせなくていいんだ」
前世のことを、少し思い出しました。
港湾観測所。検潮儀の目盛り。気圧計。月齢表。
海難の報せが入るたびに、わたくしは記録を遡って、悔やみました。あと十五分早く知らせていれば。あの十五分を縮めるために残業を重ねて、ある晩、机に突っ伏したまま死にました。
転生して気づいたことは一つだけです。
この世界の『渡り道』は、神の気まぐれではありません。
月齢と気圧と地形で決まる、ただの物理現象です。
一日に二度、合わせて百二十分ほど。その百二十分のあいだだけ、神域の加護が結界となり浄化となり豊漁となって国中へ流れる。だから国の力は、祈りではなく『今日、何刻に開くか』に懸かっている。
神官たちはそれを『神託』と呼んで占っていました。的中率は半分以下。
わたくしは十二年かけて、月齢ごとの干満パターンを手書きの表にまとめました。
神領が布告していた『神託』の時刻は、全部、わたくしが紙に書いて渡したものです。
誰も知りません。
知ろうともしませんでした。
それでよかったのです。参拝者が死ななければ、それでよかった。
……でも。
藁の匂いの中で、わたくしは十二年ぶりにぐっすり眠りました。
夢も見ませんでした。
翌朝、わたくしは漁村の壁に、一枚の紙を貼りました。
『本日の引き潮・九時二十分〜十時五十分/明日・十時十分〜十一時四十分』
無料です。
漁師頭のトルグ様が、真っ先に鼻で笑いました。
「陸者が潮を当てられるかよ」
「どうぞ、試してみてください」
「嬢ちゃん、外れたらどうする」
「外れません」
声を張ったつもりはありませんでした。
ただ、事実を申し上げただけです。
◇
一日目。トルグ様は半信半疑で沖に出ました。
表のとおりでした。
二日目。黙って見ていました。
表のとおりでした。
三日目。朝一番に貼り紙の前に立ち、唇を動かして時刻を読み、船を出しました。
表のとおりでした。
四日目の朝、トルグ様は漁村の男全員を集めて、こう言いました。
「あの紙を剥がす奴がいたら、俺が沈める」
そして、その日の午前。
浜に、子どもが出ました。
ジョナ様のお孫さんです。ナギという六歳の女の子。くせ毛の短い茶髪、裸足、膝に擦り傷。
漁村の大人は、子どもを浜に出しません。
出した家は、だいたい誰かを失っているからです。
でも、今日は出しました。
九時二十分から十時五十分まで。紙にそう書いてあったからです。
ナギは引き潮の砂に膝をついて、夢中で貝を集めました。
声が大きいので、高台まで聞こえてきます。「見て!」「ねえ見て!」
十時四十分。
わたくしは、浜へ降りて声をかけました。
「そろそろ上がってください」
「もうちょっと」
「十分だけです。十時五十分には、ここは膝まで来ます」
ナギは走ってきて、握りしめていた貝を広げました。
砂だらけの小さな手のひら。
その中から、縁の欠けた、使い物にならない一枚を選んで、差し出しました。
「おねえちゃん、これあげる」
わたくしは、受け取り方がわかりませんでした。
十二年。
神領から、報酬らしい報酬を受け取ったことが一度もありません。
寝床と食事はありました。名前は、一度も正しく呼ばれませんでした。
両手で受け取りました。
貝殻は軽くて、砂がざらついていて、縁が欠けていて、濡れていました。
宝石より重い、と思いました。
実際には一匁もありません。でも、そう思いました。
「……ありがとうございます」
「なんで泣いてるの」
「泣いていません」
「泣いてるよ」
ナギは理由を聞かずに、わたくしの手を握りました。
砂だらけの、小さくて熱い手でした。
十時五十分。
浜は、膝まで海になりました。
その夜、ジョナ様が納屋に温かい汁を置いて、何も言わずに去っていきました。
わたくしは貝殻を文鎮にして、明日の潮を計算しました。
一週間後、漁村の水揚げは三割増えました。
近隣の商人が『ミオラの潮見表』を銀貨で買いに来ました。
「この潮見表、銀貨で買おう。言い値でいいぜ」
「売りません」
「金貨でもいいんだぜ」
「売りません。貼り出しますから、写していってください」
「なんでだよ」
「間違った表が出回ると、人が死にます」
商人の肩を、トルグ様が後ろから掴みました。
「聞いたか。写せ。ただし一字でも間違えたら、お前の名前で死人が出る」
それから、トルグ様はわたくしをこう呼ぶようになりました。
「嬢ちゃん……いや、先生。明日はどうだ」
呼び間違えたふりをなさいますが、村中が気づいています。
◇
一方、神領では。
——と、後から聞いた話です。わたくしは浜におりましたので。
初日。神託を引き継いだリリシアは、本殿の階で高らかに宣言しました。
「明日の渡り道は、正午きっかりに開きますわ」
開きませんでした。
二日目。巡礼者十七名が参道の途中で満ち潮に飲まれかけました。衛士が総出で救助。綱を引きながら、神官補佐ペリム様は吐いたそうです。
三日目。加護の供給が途絶えて、沿岸の結界が三刻落ちました。
ペリム様が進言なさいました。
「あの、観測帳を——ミオラ様の観測帳を、探しましょう」
「不要である」
大神官様の一喝で、話は終わりました。
四日目。大神官様は説教を打たれました。
「潮は聖女の信心で動く。祈りが足りぬのだ」
聖女が祈りました。白絹の裾を濡らさぬよう、階の上から。
潮は、無慈悲に満ちました。
五日目。参拝者が激減。
六日目。奉納金が止まりました。
七日目。神官たちが互いを罵り合いはじめました。
誰も気づきません。
渡り道は、一度も消えていないのです。
毎日、きちんと二度開いています。合計百二十分ほど。
ただ、その時刻を読める者が一人、いなくなっただけ。
——四日目から、ペリム様は初めてご自分の頭で考えたそうです。
潮位表がないなら、作ればいい。
三日かけて、浜に降りて、棒を立てて、水位を測りました。
徹底的に失敗しました。
一日の潮さえ読めなかったそうです。
月齢がわからない。気圧の影響がわからない。地形の補正がわからない。
基準点がどこなのかすら、わからない。
「十二年。……十二年ぶんの、蓄積が」
棒を握ったまま、座り込んだと聞きました。
そして、春。
追放から十四日後。
年に一度の大潮・献上祭。王都から国王エルディス三世陛下が臨席されます。
大神官様は、面子のために布告なさいました。
「正午、開門。神はこの日、必ず道を開かれるに相違ない」
わたくしは漁村の高台で、観測帳を開いていました。
欠けた貝殻を文鎮にして、指で表をなぞります。
月齢十五。春の大潮。そして——南風。
旗の向き。雲の流れ。気圧計の代わりに、井戸水の濁り。
朝から三度、確かめました。
「今日は特殊です」
声に出して、もう一度計算を確かめました。
「大潮と南風が重なると、引きは二刻遅れます。しかも、開いている時間は三十八分しかありません」
正午。
参道は、腰の高さまで海です。
そこへ、王の行列が踏み出すことになります。
わたくしは、観測帳を閉じました。
駆けつけても、間に合いません。
一人で叫んでも、誰も聞きません。わたくしは追放された数字読みです。
ですから、わたくしは紙を書きました。
同じ文面を、五十枚。
『正午に参道へ入るな』
それだけです。理屈は書きませんでした。読む時間がありませんから。
トルグ様に渡しました。
「先生。これを、どうする」
「海沿いの村という村に、届けてください」
「何刻までだ」
「明日の、朝までに」
トルグ様は紙を懐に押し込んで、笑いました。
「四十里だな」
男たちは、一晩で走りました。
◇
献上祭の朝は、よく晴れていました。
南風。旗が、きれいに北へ流れています。
神領の岩島では、金糸の祭服が並び、鐘が鳴り、聖衣のリリシアが階の上で微笑んでいました。
参道は、見た目には引いているように見えたそうです。
見た目には、です。
浜には、国王陛下の行列。
白髪混じりの黒髪、海で焼けた肌、外套の裾に塩の染みが残った実務家の王。
正午。
大神官様が杖を打ちました。
「開門である! 陛下、どうぞ御前へ——」
陛下が、一歩、踏み出されました。
その瞬間でした。
浜に並んだ男たちが、一斉に膝をつきました。
漁師です。漁村の男、全員。潮に焼けた背中が、ずらりと砂に並びました。
先頭はジョナ様。白く濁った片目で、王の行列を真っ直ぐ見ています。
「——入れば死にます」
老人の声でした。
それでも、浜のすべてに届きました。
「入れば死にます!」
トルグ様が続きました。四十里を走った男たちが続きました。
そして、祭服のまま膝をついた男が一人。
神官補佐ペリム様です。
「ペリム! 貴様、裏切り者か!」
大神官様が怒鳴りました。
ペリム様は、初めて顔を上げました。
眼鏡がずれて、手が震えていました。
「……十二年間、運んでいただけの私が言える言葉では、ありませんが」
声が、消えそうでした。
それでも、最後まで言いました。
「——あの紙を書いたのは、神では、ありません」
会場が、静まり返りました。
鐘の音が止み、潮の音だけが残りました。
ざ、ざ、と。石畳の縁を、海が舐める音です。
陛下は、お怒りになりませんでした。
不敬だとも、罵られませんでした。
ただ、足を止めたまま、一言。
「……根拠は」
わたくしは、浜の端から進み出ました。
紺の作業着。インク染みの消えない指。潮風に褪せた亜麻色の髪。
高価なものは、何一つ持っていません。
差し出したものは、二つです。
一つ。十二年分の、手書きの潮位表。
一つ。縁の欠けた、小さな貝殻。
「これは、報酬です」
陛下が、貝殻を見下ろされました。
「……報酬」
「わたくしの仕事に、初めて支払われたものです」
陛下は何もおっしゃらず、目だけで、後ろの青年に指示を出されました。
黒髪を短く刈り込んだ、糊の効いた紺の制服の男。
王室水路測量官、セイレン・クォルト様。
無表情のまま、彼は観測帳を受け取りました。
「裏表紙を」
わたくしが言うより先に、彼の指が縫い糸にかかりました。
「……縫い直されていますね。ここに」
糸をほどきます。
裏表紙の内側から、びっしりと計算式が現れました。
月齢補正。気圧係数。地形による遅延。南風時の修正値。
十二年、誰にも見せなかったものです。
セイレン様は、三行読んで、顔を上げました。
「陛下。……この表は、本物です」
「根拠は」
「月齢と気圧の補正が、王室水路局の算式と一致しています。いえ——」
彼は、わずかに言葉を切りました。
「局の算式より、地形補正が二段階、精密です」
大神官様の杖が、石畳を打ちました。
音が、小さく響いて消えました。
「馬鹿な! 潮は神が——」
「本日の干潮は」
わたくしは、静かに申し上げました。
「午後二時七分。開いている時間は、三十八分です」
「で」陛下が問われました。「今、正午に入ればどうなる」
「参道の中ほどで、腰まで水が来ます。そこから岩島までは四百歩。四百歩を腰の高さの流れの中で歩くことは、できません」
わたくしは、参道の七枚目の石を指しました。
「あの石に、貝殻の欠けがあります。十二年、わたくしの基準点でした。……ご覧ください。もう、沈んでいます」
全員が、同じ方向を見ました。
石畳は、見えていました。
七枚目だけが、薄く水を被っていました。
陛下は、しばらく海を見ておられました。
そして、外套の塩染みを一度払って、おっしゃいました。
「——では、待とう」
◇
王と行列は、浜で待ちました。
二時間七分です。
大神官様は何度も「開門は正午であると神が——」と繰り返されましたが、陛下は一度も振り返りませんでした。
待つあいだ、誰も座りませんでした。
陛下が立っておられたからです。
十二時四十分。
参道は、完全に沈みました。
石畳があった場所に、海だけがありました。
「……消えましたわ」リリシアの声が、階の上から降ってきました。「あの女が、呪いを——」
誰も聞きませんでした。
午後一時。潮位はまだ上がっています。
午後一時半。変わりません。
「本当に引くのか」
近衛の誰かが、小さく言いました。
セイレン様が、観測帳を閉じて答えました。
「引きます」
「なぜ断言できる」
「この表が、十二年、外れていないからです」
午後二時。
海が、わずかに退きました。
二時三分。石の角が見えました。
二時五分。七枚目の貝殻の欠けが、水から出ました。
二時七分。
石畳が、一枚残らず現れました。
濡れた黒い敷石が、岩島までまっすぐに伸びて、日を返しました。
表の時刻と、一分の狂いもなく。
浜が、どよめきました。
漁師たちが立ち上がりました。トルグ様が、空に向かって何か怒鳴りました。言葉になっていませんでした。
陛下は、石畳を見てから、わたくしを見ました。
そして、丁寧な口調に変わりました。
「……十二年、よく書き続けられました」
わたくしは、頭を下げました。
「——あと三十八分です。陛下、お急ぎください」
「おお。そうであったな」
陛下は笑って、歩き出されました。
大神官様が、慌てて続こうとして、裾を踏んで転びました。
誰も、手を貸しませんでした。
三十八分後、潮は満ち、参道は消えました。
遅れた者は、一人もいませんでした。
その場で、陛下は宣言なさいました。
「ナギサ神領の潮汐に関する一切を、王室管轄とする。大神官ヴァルドレイを、神託詐称および人命軽視により解任。聖女候補リリシア・ウェンディルを罷免」
大神官様は、最後まで、こうおっしゃっていました。
「潮が……潮が、我を裏切ったのだ」
リリシアは、白絹の裾を持ち上げて、こう言いました。
「わたくしは、濡れるのが嫌いなだけで」
誰も、聞きませんでした。
会場の沈黙が、最大の罰でした。
◇
その夜、漁村の納屋に、紺の制服の男が立っていました。
セイレン・クォルト様です。
「道に、迷いました」
「……納屋はそこです」
「はい。三度ほど、浜を往復しました」
無表情でおっしゃるので、冗談かと思いました。冗談ではありませんでした。
彼は、包みを差し出しました。
「花ではありません」
「はい」
「測深錘です。新しいものを」
開けると、磨かれた鉛の錘と、新しい麻紐が入っていました。
「貴女の使っているものは、紐が擦り切れている。危険です」
「……よく、ご存じですね」
「はい」
彼は、少し間を置いてから言いました。
「数年前から、神領の『神託』の精度が異常に高いことに気づいていました。王室水路局の算出より正確だった。ありえないと思い、記録を取り寄せました」
「取り寄せ、ました」
「十二年分、全冊です」
わたくしは、黙りました。
「貴女の字は、三年目から筆圧が安定している。最初の二年は、数字の『七』の横棒が震えている。十四歳でしたか」
「……七歳から、始めました」
「七年目の夏に、一度だけ観測が二日抜けている」
「はい」
「……熱を、出されたのでしょう」
夜風が、納屋の板をかたかた鳴らしました。
潮の音がします。いま、上げ潮です。満潮は二十三時十一分。
十二年。
誰にも見られていないと思っていました。
一人だけ、全部読んでいた人がいました。
「……セイレン様は」
「はい」
「どうして、そこまで」
彼は、しばらく黙ってから、ひどく事務的な声で言いました。
「私は、海が怖いのです」
「え」
「六歳のとき、小舟から落ちた。以来、膝より深い海に入れません。水路測量官でありながら」
「……」
「ですから、海に入らずに海を知る方法に、人生を賭けました。測量と、記録と、計算です」
彼は、わたくしの観測帳を見ました。
「貴女の表は、美しいとは言いません」
「はい」
「貴女の表は、死人を出さない」
わたくしは、顔を伏せました。
前世で、わたくしは間に合いませんでした。
あと十五分、早く知らせていれば。
その十五分のために残業をして、机で死にました。
今日、二時間七分、王が待ちました。
十七名の巡礼者は、もう流されません。
六歳の子どもが、浜で貝を拾います。
「泣いておられますか」
「いいえ」
「そうですか」
彼は、それ以上何も聞きませんでした。
そういう人でした。
◇
三日後、王都からの使者が漁村に来ました。
神領は『潮汐観測院』へ改組。
その初代院長に、ミオラ・ウェンディルを任ずる、と。
わたくしは、陛下の御前で、条件を三つ申し上げました。
「一つ。観測助手の給与を、現行の倍にしてください」
「理由は」
「観測は、深夜と早朝に行います。一日二回、三百六十五日です。十二年続けられる給金でなければ、記録は途切れます。途切れた記録は、使い物になりません」
「通す。次は」
「二つ。参道の開門時刻を、全沿岸の村に無料で掲示してください。写しを取る者を妨げないこと。代金を取る者を罰すること」
「売れば国庫が潤うが」
「間違った表が出回ると、人が死にます」
陛下は、少しだけ笑われました。
「通す。三つ目は」
わたくしは、懐から欠けた貝殻を出しました。
「灯台番ジョナの孫、ナギを——六歳ですが——観測院の見習いとして雇ってください」
「六歳」
「十二年後、十八歳になります。そのとき、十二年分の記録を持つ観測員が、この国に二人になります」
陛下は、しばらく貝殻を見ておられました。
そして、おっしゃいました。
「——三つとも通す。四つ目はないのか」
「ございません」
「地位も、金も、あの女への罰も、望まんのか」
わたくしは、首を振りました。
「わたくしの仕事は、人を裁くことではありません」
潮の音が、窓の外でしていました。
「潮の時刻を、正しく知らせることです」
——後日。
潮汐観測院の、最初の朝礼でした。
事務方として残ったペリム様が、書類を抱えて震えておられました。
「あの、その……申し訳、ありません。私は、十二年、何も言わずに」
「ペリム様」
「はい」
「書類の整理は、あなたが一番早いので」
それだけ申し上げました。
彼は、書類を落としました。拾うのに、ずいぶん時間がかかりました。
それから、紺の制服の男が一人、入り口に立ちました。
「院長」
「セイレン様」
「……私を、助手として登録していただけますか」
「王室水路測量官の職は」
「兼務の許可は取りました」
「理由を伺っても」
彼は、三秒ほど黙りました。
「この表の精度を、国の基準にすべきだからです」
「それだけですか」
「……それだけです」
一人で海辺に来ると迷うからだ、とは、彼は決しておっしゃいません。
先週も、灯台の前で二刻、立っておられたそうですが。
◇
神領の鐘は、鳴らなくなりました。
元大神官ヴァルドレイは位を剥がれ、内陸の寺院の書庫番となりました。
毎日、紙を数えているそうです。中身は読まなくてよい仕事だと聞きました。
リリシアは、内陸の修道院に送られました。
与えられた仕事は、砂時計をひっくり返すこと。
朝と夕、決まった時刻に、ただ返すだけ。
彼女は知りません。
砂時計もまた、潮を測るために生まれた道具だということを。
船の上で、揺れても止まらない時計が必要だったから、人は砂を使ったのです。
「わたくしは、濡れるのが嫌いなだけですのに」
今日も、誰も聞いていないそうです。
——漁村の掲示板には、今日も紙が貼られます。
『本日の渡り道/十五時二分〜十六時三十九分』
トルグ様が、唇を動かして読みます。読み終えると、必ず一度うなずきます。
ジョナ様は、読む前から時刻を当てます。「今日は夕方だろうが」。だいたい合っています。四十年、夜の海を聞いてきた人ですから。
ナギは、観測院の見習い第一号になりました。
採用初日、観測帳の一行目に、震える字で潮位を書き込みました。
字は、汚いです。
でも、数字は合っています。
「おねえちゃん、これでいい?」
「院長とお呼びなさいと、何度も」
「おねえちゃん、これでいい?」
「……はい。合っています」
観測が終わると、彼女は浜へ走っていきます。
貝を抱えて、裸足で、膝に擦り傷をつくって。
大人は、もう止めません。
紙に、時刻が書いてあるからです。
今夜も、わたくしは窓際の机に向かいます。
小魚を焼いて、塩を振って、固いパンと一緒に齧ります。
指のインク染みは、相変わらず落ちません。
欠けた貝殻を文鎮にして、明日の潮を計算します。
月齢。気圧。風向。地形補正。
隣で、セイレン様が二枚目の計算をしています。
彼の数字は、わたくしのものと、いつも小数点三桁目まで同じです。
一度だけ合わなかった日は、彼のほうが正しくて、わたくしは三日間ご機嫌が悪かったそうです。本人にそう言われました。
羽根ペンを置いて、インクが乾くのを待ちます。
十二秒。
窓の外は、上げ潮です。
満潮、二十二時四十八分。
明日の干潮は、六時十一分と、十八時三十二分。
南風は弱く、大潮の名残があります。
わたくしは、観測帳を閉じて、顔を上げました。
「――明日は、よく引きますよ」




