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「聖女の参道は貴様には渡さん」と追放されましたが、私は潮汐表を作る係なので、明日から参道は現れません ――前世・港湾観測所の潮位測定員、三百年ぶんの干満記録を持って出ていきます

作者: uta
掲載日:2026/10/17

「聖女の参道を、下賤な数字読みの貴様に渡しておけるものか。潮汐記録係ミオラ、今日限りで神領を追放する」


大神官ヴァルドレイ様の杖が、石畳を打ちました。


高い音が本殿の天井に反射して、二度ほど鳴って消えます。この部屋は反響がよいのです。わたくしは十二年、ここで潮位表を手渡し続けましたから、音の返り方まで覚えてしまいました。


わたくしの隣では、義妹のリリシアが、今朝仕上げたばかりの潮位表を両手で握りつぶしていました。


「こんな汚い紙切れ、聖女には必要ありませんわ」


白絹の聖衣。新品のような光沢。緩く巻いた金髪。

紙は、くしゃりと音を立てて丸まりました。


わたくしは、まず羽根ペンを置きました。


泣きませんでした。怒鳴りもしませんでした。

感情がないのではありません。感情より先に、手が動いただけです。


開いたままの観測帳。最終行が、まだ空白でした。


『第四千三百八十回・干潮十六時四十分・潮位マイナス一・〇二・南風弱・月齢二十七』


書き込み、インクが乾くのを待ちます。

十二秒。この季節の神領の湿度なら、だいたい十二秒です。


「何をしている」


「書き終えておりました」


「不要である。今日限りと申したであろう」


「はい。ですから、今日のぶんは書きました」


大神官様は、わたくしの手元を一度も見ませんでした。十二年間、一度もです。この方は、紙を受け取ることはあっても、開いたことがない。


わたくしは観測帳を閉じ、一礼しました。


「承知しました。では、本日十六時四十分の引き潮までに退去いたします」


「——は」


大神官様が鼻で笑いました。顎髭が揺れます。


「そんな細かい時刻、誰にでも言える」


祭壇の隅で、神官補佐のペリム様が書類を抱えたまま、床を見ていました。

十二年間、わたくしの観測帳を大神官様のもとへ運び続けた方です。


この神領でただ一人、紙がどこから来るかを知っている人。


顔を上げませんでした。


わたくしは、少しだけ考えて、こう申しました。


「……そうですね。どうぞ、明日もお言いになってください」


それが、わたくしの唯一の反撃でした。

言い返しは、それだけです。


復讐ではありません。

ただの、事実の予告でした。


本殿を出て、参道へ降ります。

石畳の、七枚目。


そこに嵌まった貝殻の欠けを、わたくしは十二年、基準点にしてきました。ここが濡れ始めたら、残り四十分。ここが完全に沈んだら、もう渡れません。


膝をついて、指で触れました。

乾いています。


十六時四十分。

あと一刻と少し。


わたくしは観測帳だけを抱えて、渡り道を歩きました。

潮は、きっかりその時刻に引いていました。


わたくしが計算したとおりに。


    ◇


対岸の漁村に着いたとき、日はもう傾いていました。


納屋の藁を貸してくれたのは、灯台番のジョナ様です。七十一歳。片目が白く濁っていて、夜の海は見るのではなく聞くのだとおっしゃる方。


毎朝、神領の石段の下まで薪を運んでくださっていました。

そのたび、短い言葉を交わしました。


「追い出されたか」


「はい」


「そうか」


それだけでした。礼も説明も求められませんでした。


「寝ろ。潮はお前さんを待たん」


朝市で小魚を三尾買いました。銅貨二枚です。

塩を振って、借りた炭火で焼きました。皮が縮れて、脂が落ちて、小さな音を立てます。固いパンを汁に浸して、一緒に食べました。


おいしい、と思いました。


十二年ぶりに、食事の味を考えました。

神領では、干潮と満潮の合間に立ったまま押し込むものでしたから。


井戸水で手を洗いました。インクの染みは落ちません。十二年ぶんです。落ちるわけがありません。


藁の上に横になりました。


不思議でした。

明日の干潮は五時五十分。起きなくていい。

起きなくていいのです。


「……起きる時刻を、潮に合わせなくていいんだ」


前世のことを、少し思い出しました。


港湾観測所。検潮儀の目盛り。気圧計。月齢表。

海難の報せが入るたびに、わたくしは記録を遡って、悔やみました。あと十五分早く知らせていれば。あの十五分を縮めるために残業を重ねて、ある晩、机に突っ伏したまま死にました。


転生して気づいたことは一つだけです。


この世界の『渡り道』は、神の気まぐれではありません。

月齢と気圧と地形で決まる、ただの物理現象です。


一日に二度、合わせて百二十分ほど。その百二十分のあいだだけ、神域の加護が結界となり浄化となり豊漁となって国中へ流れる。だから国の力は、祈りではなく『今日、何刻に開くか』に懸かっている。


神官たちはそれを『神託』と呼んで占っていました。的中率は半分以下。

わたくしは十二年かけて、月齢ごとの干満パターンを手書きの表にまとめました。


神領が布告していた『神託』の時刻は、全部、わたくしが紙に書いて渡したものです。


誰も知りません。

知ろうともしませんでした。


それでよかったのです。参拝者が死ななければ、それでよかった。


……でも。


藁の匂いの中で、わたくしは十二年ぶりにぐっすり眠りました。

夢も見ませんでした。


翌朝、わたくしは漁村の壁に、一枚の紙を貼りました。


『本日の引き潮・九時二十分〜十時五十分/明日・十時十分〜十一時四十分』


無料です。


漁師頭のトルグ様が、真っ先に鼻で笑いました。


「陸者が潮を当てられるかよ」


「どうぞ、試してみてください」


「嬢ちゃん、外れたらどうする」


「外れません」


声を張ったつもりはありませんでした。

ただ、事実を申し上げただけです。


    ◇


一日目。トルグ様は半信半疑で沖に出ました。

表のとおりでした。


二日目。黙って見ていました。

表のとおりでした。


三日目。朝一番に貼り紙の前に立ち、唇を動かして時刻を読み、船を出しました。

表のとおりでした。


四日目の朝、トルグ様は漁村の男全員を集めて、こう言いました。


「あの紙を剥がす奴がいたら、俺が沈める」


そして、その日の午前。


浜に、子どもが出ました。


ジョナ様のお孫さんです。ナギという六歳の女の子。くせ毛の短い茶髪、裸足、膝に擦り傷。


漁村の大人は、子どもを浜に出しません。

出した家は、だいたい誰かを失っているからです。


でも、今日は出しました。

九時二十分から十時五十分まで。紙にそう書いてあったからです。


ナギは引き潮の砂に膝をついて、夢中で貝を集めました。

声が大きいので、高台まで聞こえてきます。「見て!」「ねえ見て!」


十時四十分。

わたくしは、浜へ降りて声をかけました。


「そろそろ上がってください」


「もうちょっと」


「十分だけです。十時五十分には、ここは膝まで来ます」


ナギは走ってきて、握りしめていた貝を広げました。

砂だらけの小さな手のひら。


その中から、縁の欠けた、使い物にならない一枚を選んで、差し出しました。


「おねえちゃん、これあげる」


わたくしは、受け取り方がわかりませんでした。


十二年。

神領から、報酬らしい報酬を受け取ったことが一度もありません。

寝床と食事はありました。名前は、一度も正しく呼ばれませんでした。


両手で受け取りました。


貝殻は軽くて、砂がざらついていて、縁が欠けていて、濡れていました。


宝石より重い、と思いました。

実際には一匁もありません。でも、そう思いました。


「……ありがとうございます」


「なんで泣いてるの」


「泣いていません」


「泣いてるよ」


ナギは理由を聞かずに、わたくしの手を握りました。

砂だらけの、小さくて熱い手でした。


十時五十分。

浜は、膝まで海になりました。


その夜、ジョナ様が納屋に温かい汁を置いて、何も言わずに去っていきました。

わたくしは貝殻を文鎮にして、明日の潮を計算しました。


一週間後、漁村の水揚げは三割増えました。

近隣の商人が『ミオラの潮見表』を銀貨で買いに来ました。


「この潮見表、銀貨で買おう。言い値でいいぜ」


「売りません」


「金貨でもいいんだぜ」


「売りません。貼り出しますから、写していってください」


「なんでだよ」


「間違った表が出回ると、人が死にます」


商人の肩を、トルグ様が後ろから掴みました。


「聞いたか。写せ。ただし一字でも間違えたら、お前の名前で死人が出る」


それから、トルグ様はわたくしをこう呼ぶようになりました。


「嬢ちゃん……いや、先生。明日はどうだ」


呼び間違えたふりをなさいますが、村中が気づいています。


    ◇


一方、神領では。


——と、後から聞いた話です。わたくしは浜におりましたので。


初日。神託を引き継いだリリシアは、本殿の階で高らかに宣言しました。


「明日の渡り道は、正午きっかりに開きますわ」


開きませんでした。


二日目。巡礼者十七名が参道の途中で満ち潮に飲まれかけました。衛士が総出で救助。綱を引きながら、神官補佐ペリム様は吐いたそうです。


三日目。加護の供給が途絶えて、沿岸の結界が三刻落ちました。

ペリム様が進言なさいました。


「あの、観測帳を——ミオラ様の観測帳を、探しましょう」


「不要である」


大神官様の一喝で、話は終わりました。


四日目。大神官様は説教を打たれました。


「潮は聖女の信心で動く。祈りが足りぬのだ」


聖女が祈りました。白絹の裾を濡らさぬよう、階の上から。

潮は、無慈悲に満ちました。


五日目。参拝者が激減。

六日目。奉納金が止まりました。

七日目。神官たちが互いを罵り合いはじめました。


誰も気づきません。


渡り道は、一度も消えていないのです。

毎日、きちんと二度開いています。合計百二十分ほど。


ただ、その時刻を読める者が一人、いなくなっただけ。


——四日目から、ペリム様は初めてご自分の頭で考えたそうです。


潮位表がないなら、作ればいい。


三日かけて、浜に降りて、棒を立てて、水位を測りました。

徹底的に失敗しました。


一日の潮さえ読めなかったそうです。

月齢がわからない。気圧の影響がわからない。地形の補正がわからない。

基準点がどこなのかすら、わからない。


「十二年。……十二年ぶんの、蓄積が」


棒を握ったまま、座り込んだと聞きました。


そして、春。

追放から十四日後。

年に一度の大潮・献上祭。王都から国王エルディス三世陛下が臨席されます。


大神官様は、面子のために布告なさいました。


「正午、開門。神はこの日、必ず道を開かれるに相違ない」


わたくしは漁村の高台で、観測帳を開いていました。

欠けた貝殻を文鎮にして、指で表をなぞります。


月齢十五。春の大潮。そして——南風。


旗の向き。雲の流れ。気圧計の代わりに、井戸水の濁り。

朝から三度、確かめました。


「今日は特殊です」


声に出して、もう一度計算を確かめました。


「大潮と南風が重なると、引きは二刻遅れます。しかも、開いている時間は三十八分しかありません」


正午。

参道は、腰の高さまで海です。


そこへ、王の行列が踏み出すことになります。


わたくしは、観測帳を閉じました。


駆けつけても、間に合いません。

一人で叫んでも、誰も聞きません。わたくしは追放された数字読みです。


ですから、わたくしは紙を書きました。


同じ文面を、五十枚。


『正午に参道へ入るな』


それだけです。理屈は書きませんでした。読む時間がありませんから。


トルグ様に渡しました。


「先生。これを、どうする」


「海沿いの村という村に、届けてください」


「何刻までだ」


「明日の、朝までに」


トルグ様は紙を懐に押し込んで、笑いました。


「四十里だな」


男たちは、一晩で走りました。


    ◇


献上祭の朝は、よく晴れていました。


南風。旗が、きれいに北へ流れています。


神領の岩島では、金糸の祭服が並び、鐘が鳴り、聖衣のリリシアが階の上で微笑んでいました。

参道は、見た目には引いているように見えたそうです。


見た目には、です。


浜には、国王陛下の行列。

白髪混じりの黒髪、海で焼けた肌、外套の裾に塩の染みが残った実務家の王。


正午。


大神官様が杖を打ちました。


「開門である! 陛下、どうぞ御前へ——」


陛下が、一歩、踏み出されました。


その瞬間でした。


浜に並んだ男たちが、一斉に膝をつきました。


漁師です。漁村の男、全員。潮に焼けた背中が、ずらりと砂に並びました。

先頭はジョナ様。白く濁った片目で、王の行列を真っ直ぐ見ています。


「——入れば死にます」


老人の声でした。

それでも、浜のすべてに届きました。


「入れば死にます!」


トルグ様が続きました。四十里を走った男たちが続きました。


そして、祭服のまま膝をついた男が一人。


神官補佐ペリム様です。


「ペリム! 貴様、裏切り者か!」


大神官様が怒鳴りました。


ペリム様は、初めて顔を上げました。

眼鏡がずれて、手が震えていました。


「……十二年間、運んでいただけの私が言える言葉では、ありませんが」


声が、消えそうでした。

それでも、最後まで言いました。


「——あの紙を書いたのは、神では、ありません」


会場が、静まり返りました。


鐘の音が止み、潮の音だけが残りました。

ざ、ざ、と。石畳の縁を、海が舐める音です。


陛下は、お怒りになりませんでした。

不敬だとも、罵られませんでした。


ただ、足を止めたまま、一言。


「……根拠は」


わたくしは、浜の端から進み出ました。


紺の作業着。インク染みの消えない指。潮風に褪せた亜麻色の髪。

高価なものは、何一つ持っていません。


差し出したものは、二つです。


一つ。十二年分の、手書きの潮位表。

一つ。縁の欠けた、小さな貝殻。


「これは、報酬です」


陛下が、貝殻を見下ろされました。


「……報酬」


「わたくしの仕事に、初めて支払われたものです」


陛下は何もおっしゃらず、目だけで、後ろの青年に指示を出されました。


黒髪を短く刈り込んだ、糊の効いた紺の制服の男。

王室水路測量官、セイレン・クォルト様。


無表情のまま、彼は観測帳を受け取りました。


「裏表紙を」


わたくしが言うより先に、彼の指が縫い糸にかかりました。


「……縫い直されていますね。ここに」


糸をほどきます。


裏表紙の内側から、びっしりと計算式が現れました。

月齢補正。気圧係数。地形による遅延。南風時の修正値。

十二年、誰にも見せなかったものです。


セイレン様は、三行読んで、顔を上げました。


「陛下。……この表は、本物です」


「根拠は」


「月齢と気圧の補正が、王室水路局の算式と一致しています。いえ——」


彼は、わずかに言葉を切りました。


「局の算式より、地形補正が二段階、精密です」


大神官様の杖が、石畳を打ちました。

音が、小さく響いて消えました。


「馬鹿な! 潮は神が——」


「本日の干潮は」


わたくしは、静かに申し上げました。


「午後二時七分。開いている時間は、三十八分です」


「で」陛下が問われました。「今、正午に入ればどうなる」


「参道の中ほどで、腰まで水が来ます。そこから岩島までは四百歩。四百歩を腰の高さの流れの中で歩くことは、できません」


わたくしは、参道の七枚目の石を指しました。


「あの石に、貝殻の欠けがあります。十二年、わたくしの基準点でした。……ご覧ください。もう、沈んでいます」


全員が、同じ方向を見ました。


石畳は、見えていました。

七枚目だけが、薄く水を被っていました。


陛下は、しばらく海を見ておられました。


そして、外套の塩染みを一度払って、おっしゃいました。


「——では、待とう」


    ◇


王と行列は、浜で待ちました。


二時間七分です。


大神官様は何度も「開門は正午であると神が——」と繰り返されましたが、陛下は一度も振り返りませんでした。


待つあいだ、誰も座りませんでした。

陛下が立っておられたからです。


十二時四十分。

参道は、完全に沈みました。

石畳があった場所に、海だけがありました。


「……消えましたわ」リリシアの声が、階の上から降ってきました。「あの女が、呪いを——」


誰も聞きませんでした。


午後一時。潮位はまだ上がっています。

午後一時半。変わりません。


「本当に引くのか」


近衛の誰かが、小さく言いました。


セイレン様が、観測帳を閉じて答えました。


「引きます」


「なぜ断言できる」


「この表が、十二年、外れていないからです」


午後二時。


海が、わずかに退きました。


二時三分。石の角が見えました。

二時五分。七枚目の貝殻の欠けが、水から出ました。


二時七分。


石畳が、一枚残らず現れました。

濡れた黒い敷石が、岩島までまっすぐに伸びて、日を返しました。


表の時刻と、一分の狂いもなく。


浜が、どよめきました。

漁師たちが立ち上がりました。トルグ様が、空に向かって何か怒鳴りました。言葉になっていませんでした。


陛下は、石畳を見てから、わたくしを見ました。


そして、丁寧な口調に変わりました。


「……十二年、よく書き続けられました」


わたくしは、頭を下げました。


「——あと三十八分です。陛下、お急ぎください」


「おお。そうであったな」


陛下は笑って、歩き出されました。


大神官様が、慌てて続こうとして、裾を踏んで転びました。

誰も、手を貸しませんでした。


三十八分後、潮は満ち、参道は消えました。

遅れた者は、一人もいませんでした。


その場で、陛下は宣言なさいました。


「ナギサ神領の潮汐に関する一切を、王室管轄とする。大神官ヴァルドレイを、神託詐称および人命軽視により解任。聖女候補リリシア・ウェンディルを罷免」


大神官様は、最後まで、こうおっしゃっていました。


「潮が……潮が、我を裏切ったのだ」


リリシアは、白絹の裾を持ち上げて、こう言いました。


「わたくしは、濡れるのが嫌いなだけで」


誰も、聞きませんでした。


会場の沈黙が、最大の罰でした。


    ◇


その夜、漁村の納屋に、紺の制服の男が立っていました。


セイレン・クォルト様です。


「道に、迷いました」


「……納屋はそこです」


「はい。三度ほど、浜を往復しました」


無表情でおっしゃるので、冗談かと思いました。冗談ではありませんでした。


彼は、包みを差し出しました。


「花ではありません」


「はい」


「測深錘です。新しいものを」


開けると、磨かれた鉛の錘と、新しい麻紐が入っていました。


「貴女の使っているものは、紐が擦り切れている。危険です」


「……よく、ご存じですね」


「はい」


彼は、少し間を置いてから言いました。


「数年前から、神領の『神託』の精度が異常に高いことに気づいていました。王室水路局の算出より正確だった。ありえないと思い、記録を取り寄せました」


「取り寄せ、ました」


「十二年分、全冊です」


わたくしは、黙りました。


「貴女の字は、三年目から筆圧が安定している。最初の二年は、数字の『七』の横棒が震えている。十四歳でしたか」


「……七歳から、始めました」


「七年目の夏に、一度だけ観測が二日抜けている」


「はい」


「……熱を、出されたのでしょう」


夜風が、納屋の板をかたかた鳴らしました。


潮の音がします。いま、上げ潮です。満潮は二十三時十一分。


十二年。

誰にも見られていないと思っていました。


一人だけ、全部読んでいた人がいました。


「……セイレン様は」


「はい」


「どうして、そこまで」


彼は、しばらく黙ってから、ひどく事務的な声で言いました。


「私は、海が怖いのです」


「え」


「六歳のとき、小舟から落ちた。以来、膝より深い海に入れません。水路測量官でありながら」


「……」


「ですから、海に入らずに海を知る方法に、人生を賭けました。測量と、記録と、計算です」


彼は、わたくしの観測帳を見ました。


「貴女の表は、美しいとは言いません」


「はい」


「貴女の表は、死人を出さない」


わたくしは、顔を伏せました。


前世で、わたくしは間に合いませんでした。

あと十五分、早く知らせていれば。

その十五分のために残業をして、机で死にました。


今日、二時間七分、王が待ちました。

十七名の巡礼者は、もう流されません。

六歳の子どもが、浜で貝を拾います。


「泣いておられますか」


「いいえ」


「そうですか」


彼は、それ以上何も聞きませんでした。

そういう人でした。


    ◇


三日後、王都からの使者が漁村に来ました。


神領は『潮汐観測院』へ改組。

その初代院長に、ミオラ・ウェンディルを任ずる、と。


わたくしは、陛下の御前で、条件を三つ申し上げました。


「一つ。観測助手の給与を、現行の倍にしてください」


「理由は」


「観測は、深夜と早朝に行います。一日二回、三百六十五日です。十二年続けられる給金でなければ、記録は途切れます。途切れた記録は、使い物になりません」


「通す。次は」


「二つ。参道の開門時刻を、全沿岸の村に無料で掲示してください。写しを取る者を妨げないこと。代金を取る者を罰すること」


「売れば国庫が潤うが」


「間違った表が出回ると、人が死にます」


陛下は、少しだけ笑われました。


「通す。三つ目は」


わたくしは、懐から欠けた貝殻を出しました。


「灯台番ジョナの孫、ナギを——六歳ですが——観測院の見習いとして雇ってください」


「六歳」


「十二年後、十八歳になります。そのとき、十二年分の記録を持つ観測員が、この国に二人になります」


陛下は、しばらく貝殻を見ておられました。


そして、おっしゃいました。


「——三つとも通す。四つ目はないのか」


「ございません」


「地位も、金も、あの女への罰も、望まんのか」


わたくしは、首を振りました。


「わたくしの仕事は、人を裁くことではありません」


潮の音が、窓の外でしていました。


「潮の時刻を、正しく知らせることです」


——後日。


潮汐観測院の、最初の朝礼でした。


事務方として残ったペリム様が、書類を抱えて震えておられました。


「あの、その……申し訳、ありません。私は、十二年、何も言わずに」


「ペリム様」


「はい」


「書類の整理は、あなたが一番早いので」


それだけ申し上げました。

彼は、書類を落としました。拾うのに、ずいぶん時間がかかりました。


それから、紺の制服の男が一人、入り口に立ちました。


「院長」


「セイレン様」


「……私を、助手として登録していただけますか」


「王室水路測量官の職は」


「兼務の許可は取りました」


「理由を伺っても」


彼は、三秒ほど黙りました。


「この表の精度を、国の基準にすべきだからです」


「それだけですか」


「……それだけです」


一人で海辺に来ると迷うからだ、とは、彼は決しておっしゃいません。

先週も、灯台の前で二刻、立っておられたそうですが。


    ◇


神領の鐘は、鳴らなくなりました。


元大神官ヴァルドレイは位を剥がれ、内陸の寺院の書庫番となりました。

毎日、紙を数えているそうです。中身は読まなくてよい仕事だと聞きました。


リリシアは、内陸の修道院に送られました。

与えられた仕事は、砂時計をひっくり返すこと。

朝と夕、決まった時刻に、ただ返すだけ。


彼女は知りません。

砂時計もまた、潮を測るために生まれた道具だということを。

船の上で、揺れても止まらない時計が必要だったから、人は砂を使ったのです。


「わたくしは、濡れるのが嫌いなだけですのに」


今日も、誰も聞いていないそうです。


——漁村の掲示板には、今日も紙が貼られます。


『本日の渡り道/十五時二分〜十六時三十九分』


トルグ様が、唇を動かして読みます。読み終えると、必ず一度うなずきます。

ジョナ様は、読む前から時刻を当てます。「今日は夕方だろうが」。だいたい合っています。四十年、夜の海を聞いてきた人ですから。


ナギは、観測院の見習い第一号になりました。


採用初日、観測帳の一行目に、震える字で潮位を書き込みました。

字は、汚いです。

でも、数字は合っています。


「おねえちゃん、これでいい?」


「院長とお呼びなさいと、何度も」


「おねえちゃん、これでいい?」


「……はい。合っています」


観測が終わると、彼女は浜へ走っていきます。

貝を抱えて、裸足で、膝に擦り傷をつくって。


大人は、もう止めません。

紙に、時刻が書いてあるからです。


今夜も、わたくしは窓際の机に向かいます。


小魚を焼いて、塩を振って、固いパンと一緒に齧ります。

指のインク染みは、相変わらず落ちません。


欠けた貝殻を文鎮にして、明日の潮を計算します。

月齢。気圧。風向。地形補正。


隣で、セイレン様が二枚目の計算をしています。

彼の数字は、わたくしのものと、いつも小数点三桁目まで同じです。

一度だけ合わなかった日は、彼のほうが正しくて、わたくしは三日間ご機嫌が悪かったそうです。本人にそう言われました。


羽根ペンを置いて、インクが乾くのを待ちます。

十二秒。


窓の外は、上げ潮です。

満潮、二十二時四十八分。


明日の干潮は、六時十一分と、十八時三十二分。

南風は弱く、大潮の名残があります。


わたくしは、観測帳を閉じて、顔を上げました。


「――明日は、よく引きますよ」

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