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第5話「夜にひらく瞳」

夜のエデンは、昼とは別の景色を映していた。


星のように淡く光る草が、葉陰や水辺にひっそりと灯っている。風は昼よりゆるやかで、木々のざわめきさえ眠りを妨げぬよう小さい。深い眠りに落ちたアダムの傍らで、土はもうひとつのかたちを取りつつあった。


昼の創造が、多くの目に祝福される明るい始まりだったのなら、

この夜の創造は、誰にも声を荒げさせない光景だった。


天使たちは、神がもうひとつの命を記すのを、祈りと共に見守っていた。

 

淡い光が土の上を走り、沈み、輪郭を描いていく。

指先、腕、肩、長い髪の流れ。

昼に生まれた男よりも、どこか緩やかで、それでいて曖昧ではない線。


やがてそのかたちは、夜の底に置かれたまま、朝を待つように眠りについた。


まぶたの向こうが、少しずつ白んでいく。


風が肌を撫でた。

水の音が、遠くと近くで重なっている。

名を持たない花の香りが、遅れて鼻先に届く。


そのひとつひとつを受け取ってから、彼女はゆっくりと目を開けた。


最初に見えたのは、どこまでも澄んだ空だった。

青は澄みきり、どこにも濁りがない。葉の隙間から落ちてくる光には、まだ朝の薄さが残っていた。


彼女はすぐには起き上がらなかった。

仰向けのまま、空を見ていた。宵の空に似た深い菫色の髪が、草の上に広がっている。深紅の瞳は急ぐことなく、ただ青を映していた。

頬を撫でる風。擦れ合う葉の音。どこかで絶えず鳴っている水の音。

世界はまだ何も求めてこず、ただそこにあった。


ふと、視界の端を白いものが横切った。

風に弄ばれるような、不規則な軌跡。

何だろうと思い、手を伸ばしかけた、そのときだった。


空だけを映していた視界へ、不意に別の影が差し込む。


「……あ」


朝の光を背負ったものが、覗き込むように彼女を見ていた。

嬉しさを隠しきれない顔だった。


「君が、僕と共に歩む者なんだね! ああ、なんて素晴らしいんだ。信じられない、僕と同じ形をしている!」


そう言うや、男はためらいなく彼女の手を取った。

強く握ったわけではない。だが、その動きはあまりに自然で、あまりに迷いがなかった。


彼女はそこで初めて、はっきりと目を見開き、身を起こした。


見るのは男の顔ではない。

握られた自分の手だった。


指先に残るぬくもりと重みを、言葉にせず確かめるように見つめる。


「……よかった。ずっとひとりだったんだ」


男はそう言って、安堵したように笑った。

その笑みに曇りはない。ただ、彼女の戸惑いにはまだ届いていなかった。


「アダム」


少し離れた場所から声がした。


振り向けば、神と、その傍らに二人の天使が立っていた。

白を基調とした式服に青を差した天使と、同じく橙を差した天使。どちらも整った姿で、朝の庭の中にまっすぐ立っている。


アダムは彼女の手を取ったまま、顔を上げた。


「父上、あなたは僕がひとりではないと示してくださいました。感謝します」


神は、穏やかに二人を見ていた。

笑っているようにも見える。だが、ただその形を取っているだけのようでもあった。


「目覚めたようだね」


それだけを言って、彼女へ視線を向ける。


「リリス」


与えられた名は、朝の光の中へ落ちてきた。


彼女はしばらく、その音を受け取っていた。

意味を理解するより先に、響きを舌の上で転がすように。


「……リリス」


初めての声は小さい。

だが、かすれてはいなかった。音そのものを確かめるような、静かな発声だった。


神は満足げでも、不満げでもなかった。

ただ、その名が彼女に受け取られたことを見届ける。


ミカエルが一歩進み出る。


「君に、神の祝福がありますように」


まっすぐな声だった。


続いて、ガブリエルも静かに頭を下げる。


「エデンへようこそ、リリス」


その言葉のあと、ガブリエルだけがわずかに長く彼女を見た。

だが何も言わない。


二人からの祝福に、リリスは軽く頭を下げた。


アダムはまた嬉しそうに彼女を見た。


「リリス。向こうに綺麗な場所があるんだ。一緒に行こう!わからないことがあれば、僕に何でも聞いてほしい。僕の方が少し先にここにいたから」


リリスはその言葉を聞きながら、しばらくアダムの顔を見ていた。


「立てる?」


差し出されるというより、もう導くつもりでいる手だった。


それに引かれ、リリスはゆっくりと立ち上がる。

そのとき、さっきの白いものがまた風を切って横切った。


ひらひらと、行き先を決めないように飛んでいく。

リリスはそれを少しだけ目で追い、それから自分とアダムを繋ぐ指先へ視線を落とした。


「……ええ」


それだけを返す。


アダムは嬉しそうに笑い、花の咲く場所や、水の澄んだところや、風の通る木陰を次々と教えてまわった。

空は高く、水は透きとおり、草は足の裏に柔らかい。獣たちは彼のそばに寄り、鳥は枝の上からこちらを見下ろしている。

その庭はどこも美しく整えられ、調和に満ちていた。


「ここは本当にいい場所だよ。父上が全部、僕たちのために用意してくださったんだ」


アダムは心からそう信じている声で、神のこと、この場のことを語って聞かせた。


「ねえ、リリス。向こうにはもっと綺麗なところがあるんだ」

「こっちは水が近いし、あっちは木の実が多い。きっと君も気に入るよ」


そのたびに、リリスは短く頷く。


「そう」

「ええ」


彼女もまた、初めて目にするものには足を止めた。

草に触れ、花弁を見つめ、水面を覗きこみ、枝に留まった鳥の気配に耳を澄ます。

ただ、アダムが手を引くたび、その視線は一度だけそこへ落ちていた。


昼が過ぎ、光が傾いていく。


神と天使たちは、二人が平穏に過ごす様子を見守っていた。

ミカエルは始まりが滞りなく進んでいることに安堵し、ガブリエルは二人の暮らしが正しく巡るよう、どこに手を入れるべきかを静かに考えていた。


夜になるころ、アダムは疲れたようにすぐ眠りについた。

昼のあいだ無邪気に動き回っていたぶん、寝息は深い。


リリスはその傍らに座ったまま、しばらく動かなかった。


アダムの指差す景色を見て、彼の語る名を聞き、彼女はただ、用意された世界をそういうものとして受け取った。

与えられた場所は、たしかに美しかった。

風も、水も、木々も、光も、どこにも綻びはない。


与えられた名も、まだ耳の奥に残っている。


――リリス。


その響きだけが、今日見たどの景色とも違うかたちで胸の内にひろがっていた。


彼女はそっと顔を上げ、夜空を見る。

昼の青とは違う深い色の上に、星が無数に瞬いていた。


「……きれい」


夜の風が、頬を撫でていった。

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