第九話 父からの手紙
父からの手紙が届いたのは、ロッテンに来て二ヶ月が経った頃だった。
麦の成長は順調で、秋の収穫まであと一ヶ月を切っていた。水車の修繕も半分ほど進んでいた。燻製の魚は王都の市場で好評で、月に一度の納品が定期化していた。
借金の返済も始めていた。少額ずつだが、動いている。
エルナはそういう状況で、父からの手紙を開いた。
内容は短かった。
「ロッテンが少し持ち直したと聞いた。妹のリーナに渡すことを検討してほしい。オスヴィンとの婚約も順調ではなく、リーナには安定した拠点が必要だ。お前はその後のことは、父が考える」
エルナは手紙を読み終えて、テーブルに置いた。
ベルクが紅茶を運んできた。
「お顔の色が変わりましたが」
「父からです」
「何か……」
「ロッテンをリーナに渡せ、と」
ベルクは静かに立っていた。
エルナは紅茶を飲んだ。温かかった。
「驚かないですか」
「……正直に申し上げると、来るだろうとは思っていました」
「そうですか」
「エルナ様は、どうなさいますか」
エルナは少し考えた。
感情的になる必要はない。これは交渉だ。相手が何を求めていて、自分が何を持っていて、どう動けばいいか。
「返事を書きます」
「どのような内容で」
「断ります」
ベルクは少し安堵したような顔をした。
「よかった」
「ベルクは反対しないんですか」
「お父上の言う通りにすることが、エルナ様のためになるとは思えませんので」
「私もそう思います」
エルナは紙を取り出した。
手紙を書くのに一時間かかった。
感情的な言葉は一つも使わなかった。数字だけで書いた。
ロッテン領地の現状。着任時の借金額と現在の残額。農地の回復状況と今年の収穫見込み。村人の人口推移。今後一年の収益試算。
そしてこう締めた。
「この領地は現在、着任から二ヶ月で借金の返済を開始し、秋の収穫後にはさらに加速する見込みです。これは私が資金と時間と労力を投資した結果です。その成果を第三者に渡す理由が見当たりません。リーナに安定した拠点が必要であれば、別の方法をお考えください」
読み返した。
冷たく聞こえるかもしれない。でも嘘はない。
「ベルク、これを送ってください」
「かしこまりました」
ベルクは手紙を受け取り、封筒に入れながら言った。
「エルナ様は、リーナ様のことを恨んでいないのですか」
「恨んでいません」
「なぜ」
「リーナは何もしていないので。欲しいと言っただけで、奪ったわけじゃない。奪ったのは父です」
「それでも」
「それでも、別に恨まないです。ただ、この土地は渡さない。それだけです」
ベルクは少し間を置いてから、うなずいた。
その夜、エルナは珍しく外に出た。
村の広場に井戸がある。その近くに石のベンチがある。昼間は子どもたちが使っているが、夜は誰もいない。
エルナはそこに座って、空を見た。
星が多かった。王都ではここまで見えなかった。
父のことを考えた。
父はエルナのことを、便利な駒だと思っているのだろう。婚約も、領地も、必要に応じて使い回せる存在として。
腹が立つかと言えば、少しは立つ。でも驚きはない。五年前に記憶が戻った時から、そういうものだと分かっていた。
それより今は、ロッテンのことを考えたかった。
「こんな時間に外にいるのか」
声がした。
振り返ると、ガルトが立っていた。
「なぜここに」
「今日、川の状態を確認しに来た。帰ろうとしたらお前がいた」
「視察ですか」
「そうだ」
ガルトは少し間を置いてから、エルナの隣のベンチに座った。
「何かあったか」
「父から手紙が来ました」
「何と」
「ロッテンをリーナに渡せ、と」
ガルトは黙った。
「断りました」
「そうか」
「おかしいですか」
「おかしくない」
二人でしばらく星を見た。
「リーナというのは妹か」
「はい。婚約者を譲った相手です」
「……今はどうしている」
「婚約が上手くいっていないそうです。だから安定した場所が必要だ、と父が」
「それがなぜお前の土地になる」
「父の論理では、私がどうにかした土地をリーナに渡すのが合理的、ということでしょう」
「馬鹿な話だ」
ガルトは短く言った。
「そうですね」
「お前が二ヶ月かけてどうにかした土地だ。渡す必要はない」
「渡しません」
「当然だ」
また沈黙があった。
「ガルト様は、家族と仲がいいですか」
「普通だ」
「普通というのは」
「争いはしないが、特別に親しくもない」
「そうですか」
「お前は」
「……今日、少し整理がついた気がします。父への感情は、もう薄いです。ただ、この土地への気持ちは薄くない」
「この土地が好きか」
エルナは少し考えた。
「好きだと思います。来たときは何もなかったのに、少しずつ変わっていくのを見ているのが、好きです」
「それは経営者の感覚か」
「半分はそうかもしれません。でも半分は違います」
「何が違う」
「前世で会社を立て直したとき、最後は売却しました。手放すことが目的だったので。でもここは、手放したくないと思っています」
ガルトはエルナを見た。
「……それが答えだろう」
「何の」
「なぜここにいるかの」
エルナはガルトを見た。星明かりの中で、ガルトの顔はいつもより少し柔らかく見えた。
「そうかもしれません」
「返事は出したか」
「今日、ベルクに頼みました」
「お前の父親は、また何か言ってくるかもしれない」
「来たら、また数字で返します」
「数字で、か」
「感情より数字の方が、反論しにくいので」
ガルトは短く笑った。
笑うのを初めて見た、とエルナは思った。
「帰る」
ガルトは立ち上がった。
「ありがとうございました」
「何に対して」
「話を聞いてくれたので」
ガルトは少し黙ってから、振り返らずに言った。
「……収穫の頃に来る」
「お待ちしています」
ガルトの足音が遠ざかっていった。
エルナはまた星を見た。
父の手紙のことは、もう整理がついた。
ここは自分の土地だ。
数字がそう言っている。そして今夜は、数字以外の何かも、そう言っていた。




