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婚約者を譲ります、領地をください  作者:


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第三話 使用人が一人もいない

 翌朝、エルナは北の森に向かった。


 ベルクが「お一人では危ない」と言ったので、二人で歩いた。村を抜け、丘を越えると、確かに森があった。杉と広葉樹が混在している。手つかずの森だ。


 エルナは木を一本一本見ながら歩いた。


 太さ、高さ、密度。前世で木材の取引をしたことはないが、数字として見れば価値の判断はできる。これだけの本数があれば、適切に伐採すれば相当な量が取れる。


 問題は、ベルクが言っていた通り、運び出す道がないことだ。


 森から村まで、草が生い茂った斜面が続いている。荷車が通れる道を作るには、人手と時間がかかる。


「ベルク、この森は昔から使われていなかったんですか」


「いいえ。十年ほど前まで、村人が少しずつ木を切り出していたようです。でも道が荒れてしまって」


「荒れた原因は」


「維持する人手がなくなったからです。若い人が出ていったので」


 エルナはノートに書いた。森の木材、利用可能。ただし道の整備が先決。道の整備には人手が必要。人手を確保するには、村から出ていった人を呼び戻す必要がある。


 また同じ場所に戻ってくる。


 何をするにも、人が足りない。


「ベルク、村を出ていった人たちの行き先は分かりますか」


「ある程度は。隣の町に行った人が多いです。あとは王都に出た人も」


「手紙を書けますか」


「書けますが……戻ってくるでしょうか」


「分かりません。でも呼ばずに戻る人はいません」


 ベルクは少し考えてから、うなずいた。


「書き方が分かれば、書きます」


「今夜、一緒に考えましょう」


 森から引き返すとき、エルナは川沿いの道を通った。


 川幅は思っていたより広い。流れも速い。川魚が取れると言っていたが、確かに水は澄んでいる。


 川岸に、小屋があった。


 古い小屋だが、まだ使えそうな造りだ。中を覗くと、網と桶が放置されていた。


「誰かが使っていたんですか」


「以前は漁師が二人いました。でも両方、町に出てしまって」


「燻製は作れますか。川魚の」


「燻製、ですか?」


「乾燥させるだけでは王都まで持ちませんが、燻製にすれば保存が効きます。王都の市場に持ち込めれば、それなりの値がつく」


 ベルクは少し目を丸くした。


「エルナ様は、商売のことをよくご存知で」


「前世で少し」


「前世、ですか?」


「気にしないでください」


 エルナはノートに書いた。川魚、燻製加工の可能性あり。漁師の確保が課題。燻製の設備は小屋を改修すれば対応可能か要確認。


 課題が増える一方だが、可能性も増えている。


 そういうものだ。最初は課題ばかりに見えるが、丁寧に見ていくと必ず使えるものがある。


 屋敷に戻ると、見知らぬ馬が一頭、門の前につながれていた。


 エルナは足を止めた。


「誰か来ているんですか」


「存じません。私は同行しておりましたので」


 二人で屋敷に入ると、食堂の椅子に男が座っていた。


 三十代前半だろうか。体格がよく、短い黒髪、日焼けした肌。軍服ではないが、どこかそれに似た質実な服装をしている。足を組んで、腕を組んで、こちらを見ていた。


 無断で人の屋敷に上がり込んでいるのに、表情は涼しかった。


「エルナ・フォン・アッシェか」


 男が言った。


 名乗りもなく、敬称もない。


「そうです」


 エルナは答えた。


「あなたは?」


「ガルト・フォン・ドレーク。隣領の領主だ」


 隣の辺境伯だ。エルナは聞いたことがある名前だと思った。王都にいたころ、ドレーク辺境伯は厄介な人物として社交界でよく話題になっていた。口が悪く、社交の場に滅多に顔を出さず、でも領地経営は堅実だという評判だ。


「ご用件は?」


「潰れる前に出ていけ」


 短く、はっきりした言葉だった。


「は?」


「お前の父親が何をやってきたか知っているか。あの土地はもう終わりだ。無駄に粘っても村人が迷惑するだけだ。早めに撤退して、村人は俺の領地で引き受ける」


 エルナはガルトを見た。


 失礼な男だ。初対面で、名乗りもせず、いきなりこれだ。


 でも言っていることは、完全に間違いではない。この土地が厳しい状況にあることは事実だ。そしてこの男は、その事実を知った上で来ている。


「帳簿は見ましたか」


「見ていない。見なくても分かる。三年放置された土地の状態は、外から見れば一目瞭然だ」


「外から見ただけでは分かりません」


 ガルトが少し眉を動かした。


「今朝、北の森を見てきました。木材が取れます。川では燻製加工ができます。農地は三分の一が使われていませんが、土の状態は悪くない。農具と種が揃えば今年の秋に収穫が見込めます」


「農具と種を買う金がどこにある」


「今はありません。でも木材を先に売れば資金が作れます。道の整備に人手が必要ですが、出ていった村人を呼び戻す交渉を始めています」


 ガルトは少し黙った。


「一人で来たのか」


「はい」


「令嬢が」


「はい」


 また沈黙があった。


「なぜ、こんな土地を選んだ」


「誰も欲しがらない土地だったので」


「それが理由か」


「それが理由です」


 ガルトはエルナをしばらく見た。値踏みしているような目だったが、馬鹿にしている感じではなかった。ただ、測っている。


「三ヶ月後に、また来る」


「どうぞ」


「そのときまでに潰れていたら、村人は俺が引き受ける」


「潰れていなかったら?」


「その話はそのときにする」


 ガルトは立ち上がり、食堂を出た。玄関で振り返りもせず、馬に乗って去っていった。


 ベルクがエルナの隣に来た。


「……失礼な方でしたね」


「そうですね」


「でも、村人を引き受けると言っていました」


「ええ」


 エルナはガルトが去った方向を見た。


 あの男が嘘をついているようには見えなかった。村人を引き受けると言ったのは、本気だろう。それはつまり、この土地と村人のことを、ある程度気にかけているということだ。


 口は悪いが、行動は悪くない。


 前世でも、そういう人間は信用できた。


「ベルク、今夜の手紙を書きましょう」


「はい」


「三ヶ月以内に動きを見せます。あの男に潰れたと思われる前に」


 ベルクは少し笑った。エルナがここに来て初めて見る笑顔だった。


「かしこまりました」


 エルナはノートを開いた。


 やることが増えた。でも、やれることも増えた気がした。

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