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婚約者を譲ります、領地をください  作者:


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第二話 三年分の帳簿と、荒れた村

 翌朝、エルナは夜明けと同時に起きた。


 窓の外が白み始めたころ、すでに机の上には三冊の帳簿と自分のノートが広げてあった。昨夜は食事を終えてからすぐに作業に戻り、気づいたら深夜を過ぎていた。前世でも締め日前はそうだった。数字を前にすると、時間の感覚が消える。


 エルナは昨夜書き写したデータを見直した。


 三年分の収支。収入の推移。支出の内訳。


 整理すると、一つのことが見えてくる。


 二年前を境に、収入が半分以下に落ちている。


 農地からの収益が、突然消えたわけではない。少しずつ、じわじわと減っている。まるで水が砂に染み込んでいくように。そして「雑費」という項目だけが、その分だけ増えている。


 これは経営の失敗ではない。


 意図的な操作だ。


「エルナ様、朝食の準備ができております」


 ベルクが扉の外から言った。


「すぐ行きます」


 エルナはノートに一行書き加えた。


「収入減少の原因、現地確認要。午前中に村を歩く」


 食堂に行くと、テーブルに芋のスープと黒パンが置いてあった。質素だが、温かかった。


「ベルク、昨日の帳簿について聞いていいですか」


「はい」


「二年前から収入が落ちています。農地の収益が主な原因に見えますが、実際はどうでしたか」


 ベルクはスープを運ぶ手を止めた。


「……前の管理人のことを、お話しすべきでしょうか」


「お願いします」


 ベルクは椅子に座った。エルナが促すと、ゆっくりと話し始めた。


 二年前、父が派遣してきた管理人がいた。ハーゲンという四十代の男だ。着任してすぐに村人への税を引き上げ、農地の管理費という名目で別途徴収を始めた。村人が払えなければ農具を取り上げた。農具がなければ耕せない。耕せなければ収益が出ない。収益が出なければさらに払えなくなる。


 悪循環だ。


「ハーゲンは今は?」


「半年前に突然いなくなりました。徴収したお金を持ったまま」


「父には報告しましたか」


「いたしました。しかし……」


 ベルクは少し間を置いた。


「お父上は、あまりご関心がなかったようで」


 エルナは黙って芋のスープを飲んだ。


 驚かなかった。父はロッテン領地を最初から捨て地だと思っていた。だからこそエルナが欲しいと言ったとき、あっさり渡した。


 問題は、この土地がそれだけの傷を負っているということだ。


「村人は今、何人いますか」


「二つの村合わせて、九十三人です。三年前は百四十人ほどいましたが、農具を取り上げられた後で、若い人を中心に出ていきました」


「農地の状態は」


「耕せていない区画が全体の三分の一ほどあります。農具が足りないのと、人手が足りないのと」


「種は」


「少しはありますが、今年の分には足りないかと」


 エルナはノートに書き込んだ。課題が三つある。農具、種、人手。この三つが揃えば、少なくとも今年の秋には最初の収穫が見込める。


 問題は資金だ。


 借金がある状態で農具と種を調達するには、誰かから融通してもらうか、あるいは何か売れるものを見つけるか。


「ベルク、この領地に売れそうなものは何かありますか。農産物以外で」


 ベルクは少し考えた。


「森があります。北の丘の向こうに。木材が取れますが、運び出す道がないので今は使われていません」


「他には」


「川があります。魚が取れますが、干した魚を売るくらいで、大きな商売にはなっていません」


「川魚を王都に運んだことは」


「距離がありすぎて、傷んでしまいます」


 エルナはノートに書いた。森、木材、川、魚。すぐには使えないが、可能性はある。


「分かりました。午前中に村を歩いてみます。ベルク、案内をお願いできますか」


 村に入ると、視線を感じた。


 家の陰から、扉の隙間から、こちらを窺う目がある。子どもが一人、道の真ん中に立ってエルナを見ていた。エルナが目を合わせると、すぐに走って消えた。


「警戒されていますね」


「はい。ハーゲンが来たときも最初は貴族の方でしたので」


 エルナは歩きながら農地を見た。


 耕されていない区画は、見ただけで分かった。草が伸びて、土が固くなっている。でも土の色は悪くない。ちゃんと手を入れれば、使える土地だ。


 耕されている区画も、密度が低い。間隔が広すぎて、面積のわりに収量が出ない植え方をしている。


 前世で農業の知識があるわけではないが、効率の悪さは数字で分かる。同じ面積でもやり方次第で収量は変わる。


 村の中心に小さな広場があった。井戸がある。その周りに数人の村人がいたが、エルナを見るとすぐに散った。


 一人だけ残った。


 五十代の女性で、腕を組んでエルナを見ていた。逃げない。


「新しい領主様ですか」


 女性が言った。


「はい。エルナ・フォン・アッシェです」


「また取り立てに来たんですか」


 真っ直ぐな問いだった。エルナは少し考えてから答えた。


「今は取り立てに来られる状況ではないと思っています。帳簿を見ました。今の状態でこれ以上取り立てたら、村が空になります」


 女性はエルナをしばらく見た。


「あなたはいくつ?」


「二十二歳です」


「ひとりで来たの?」


「はい。ベルクがいますが」


 女性はベルクを見た。ベルクが小さく頭を下げた。


「……ヴェラといいます。夫が農地を管理していましたが、二年前に体を壊して。今は私が見ています」


「ヴェラさん、少し聞かせてもらえますか。この村で今一番困っていることは何ですか」


 ヴェラは少し間を置いた。


「農具です。鍬が二本しかない。あとは全部持っていかれました」


「種は」


「麦の種が少しあります。でも人手が足りなくて、全部の畑を耕せないから、植えても意味がなくて」


「他に困っていることは」


「子どもが病気になっても、薬が買えません。王都まで遠いし、お金もないし」


 エルナはノートに書いた。農具、種、医療。それから人手不足。


「ヴェラさん、私は今から三つのことをします」


 ヴェラが少し眉を上げた。


「まず農具を調達します。鍬と鋤を最低でも十本ずつ。次に今年の種を確保します。麦と、できれば芋も。三つ目は、この村から出ていった人たちに連絡を取ります。戻りたい人がいれば、条件を提示します」


「……お金は?」


「今は借金がありますが、方法を考えます。一ヶ月以内に動きます」


 ヴェラはエルナを見た。信じているわけではないだろう。でも、すぐに否定もしなかった。


「やってみてから判断します」


 それだけ言って、ヴェラは井戸の方に歩いていった。


 エルナはその背中を見た。


 当然の反応だ。言葉だけなら誰でも言える。前の管理人も、最初は何か言ったかもしれない。


 信用は実績で作る。前世でも同じだった。


 屋敷に戻ったのは昼過ぎだった。


 エルナはテーブルに地図と帳簿とノートを広げ、今日分かったことを整理した。


 課題は思っていたより多い。農具、種、人手、医療、道、水路の補修。一つ一つは小さいが、全部重なっている。どれかを解決すれば別の問題も動く、という連鎖を見つけることが先決だ。


 前世で会社を立て直すとき、いつも同じ問いから始めた。


 今できることで、一番効果が大きいのは何か。


 エルナは考えた。


 農具だ。


 農具さえあれば、今いる村人が耕せる。耕せれば今年の収穫が見込める。収穫があれば、出ていった村人に戻る理由ができる。人が戻れば、来年はさらに広い農地を使える。


 農具を手に入れるのに必要なのは、お金か、交換できる何かだ。


 森の木材。川の魚。今すぐ使えないが、使えるように動けばいい。


 エルナはノートに書いた。


「明日、北の森を見に行く。木材の状態確認。運び出しの可能性を検討する」


 窓の外で、夕日が荒れた畑を染めていた。


 昨日と同じ景色だ。でも今日は、昨日より少しだけ土地のことが分かっている。


 前世でも、会社を引き受けた最初の一週間はいつもこうだった。分からないことだらけで、課題が山積みで、でも少しずつ解像度が上がっていく。


 その感覚が、嫌いではなかった。


 エルナはノートを閉じ、窓の外を見た。


 遠くで、ヴェラが畑に戻っていくのが見えた。


 一ヶ月以内に動く、と言った。


 必ず動く。


 数字がそう言っている。

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