第十九話 一番不器用な言葉
冬になった。
農地の作業は一段落して、エルナの仕事は来年の計画立案と、帳簿の整理と、製粉品の出荷管理が中心になった。燻製魚は冬でも需要があり、月の納品は安定していた。
炭村の高品質炭は、ロルフ商会を通じて王都の茶道家向けに試験販売を始めた。反応は良く、来月から本格的な取引が始まる予定だ。
ガルトは相変わらず頻繁に来た。
冬になってからは、視察という名目が薄くなった。農地が休眠期に入っているからだ。それでも週に二度は来ていた。理由を聞くと「炭村の件の確認」とか「製粉品の品質確認」とか言っていたが、そのほとんどは食堂でエルナと話して終わった。
その日、ガルトはいつもより遅い時間に来た。
夕方だった。
エルナが帳簿を整理していると、ベルクが「ガルト様がいらっしゃいました」と言った。
「通してください」
ガルトが執務室に入ってきた。いつもの服装だが、少し顔が張り詰めている気がした。
「どうかしましたか」
「……少し話がある」
「座ってください」
ガルトは椅子を引いて座った。腕を組んだ。少し間があった。
「何でしょうか」
「……」
「ガルト様?」
「聞いていいか」
「はい」
「お前は、ここにずっといるつもりか」
「はい。ロッテンが正式に私の領地になったので」
「王都には戻らないのか」
「戻る理由がありません」
「婚約の話が出ることもあるだろう」
「父から話が来るかもしれませんが、私が決めることです」
ガルトは少し間を置いた。
「……お前は、隣にいる人間のことをどう思っている」
エルナは少し首を傾けた。
「隣、というのはガルト様のことですか」
「……そうだ」
「頼りにしています。話が早くて、行動が正直で」
「それだけか」
「それだけではないです」
「他には」
エルナは少し考えた。
「毎週来てくれるのが、嬉しいです。村のことを気にかけてくれているのが分かります。怒ってくれたことも、蜂蜜を持ってきてくれたことも、全部、嬉しかったです」
ガルトが少し固まった。
「それは……どういう意味だ」
「どういう意味、とは」
「嬉しい、というのは、どういう感情としての嬉しいか」
エルナは少し考えた。
「ガルト様がいると、安心します。いなくなると、早く次に会いたいと思います。それがどういう感情か、ということですか」
「……そうだ」
「前世では、こういう感情に名前をつけるのが苦手だったんですが」
「今は」
「今は、分かります。たぶん」
「たぶん、か」
「確信が持てていないので」
ガルトはエルナを見た。珍しく、まっすぐに見ていた。
「俺は、お前のことが」
止まった。
「はい」
「お前のことが……」
また止まった。
「ガルト様?」
「……気になっている」
「気になっている」
「それ以上だ」
「それ以上、というのは」
「……」
ガルトが立ち上がった。
「少し待て」
「はい」
ガルトは執務室を出ていった。
エルナは少し待った。
五分後、ガルトが戻ってきた。
「もう一度言う」
「はい」
「お前のことが、好きだ」
短く、はっきりした言葉だった。
エルナは少し間を置いた。
「一度出ていったのは、なぜですか」
「落ち着くために」
「五分で落ち着きましたか」
「落ち着かなかったが、戻った」
「どうして」
「このまま帰ったら、言えなくなると思ったから」
エルナはガルトを見た。
珍しく、顔が少し赤い気がした。この男でも、こういう顔をするのか。
「ガルト様」
「何だ」
「私も、ガルト様のことが好きです」
沈黙があった。
「……本当か」
「嘘をつく理由がありません」
「数字と同じか」
「同じです。数字は嘘をつかない。私もつきません」
ガルトが少し息を吐いた。緊張が解けたような音だった。
「……そうか」
「そうです」
「これからも、ここにいるのか」
「いつまでも」
「ロッテンが、お前の土地であり続ける限り」
「そうです」
「……それなら」
ガルトは少し間を置いてから、続けた。
「もっと頻繁に来てもいいか」
エルナは少し笑った。
「今でも十分頻繁ですが」
「もっとだ」
「どうぞ」
「視察という名目は、そろそろ苦しくなってきた」
「最初から苦しかったです」
「……気づいていたか」
「みんな気づいていました」
ガルトが少し困った顔をした。
「村人も」
「全員だと思います」
「……恥ずかしいな」
「今更ですが」
「今更だな」
二人で少し笑った。
ガルトが笑うのを、エルナは何度か見るようになっていた。最初の頃より、ずっと多くなった。
「今日は帰るか」
「泊まっていきますか」
「……いや、今日は帰る」
「なぜですか」
「少し、整理したい」
「整理、ですか」
「好きだと言って、好きだと言われた日に、そのまま泊まるのは……落ち着かない」
エルナは少し考えてから、うなずいた。
「分かりました。また来てください」
「明日来る」
「明日ですか」
「何か問題があるか」
「ありません。お待ちしています」
ガルトは立ち上がり、玄関に向かった。
扉の前で振り返った。
「エルナ」
「はい」
「……おやすみ」
「おやすみなさい、ガルト様」
扉が閉まった。
ベルクがいつの間にか廊下に立っていた。
「エルナ様」
「聞いていましたか」
「……少し」
「少しですか」
「全部です。申し訳ありません」
エルナは少し笑った。
「ベルク、明日ガルト様が来ます。良い昼食を作ってもらえますか」
「かしこまりました」ベルクは少し声を詰まらせた。「……エルナ様、よかったです」
「ありがとうございます」
エルナは窓の外を見た。
冬の夜空に、星が出ている。
数字では読めない何かが、今夜はっきりした。
ノートを開いた。今日の記録を書く。
帳簿の整理完了。炭村取引、来月から本格化。
最後に一行だけ足した。
「ガルト、好きだと言ってくれた」
それだけで、今夜は十分だった。




