第十五話 父が直接来た
父が直接来たのは、手紙を出してから三週間後のことだった。
馬車が二台、従者が四人。アッシェ伯爵家の紋章が入った立派な馬車だ。ロッテンの道には少し大きすぎる。
エルナは農地で麦の記録を取っていた。クルトが走ってきて知らせてくれた。
「エルナ様、王都から馬車が来ています。紋章が……アッシェ家のものかと」
「分かりました」
エルナはノートを閉じて屋敷に向かった。急がなかった。
父がすでに応接室に座っていた。五十代で、髪が少し白くなっている。来るたびに老けた気がする。
「エルナ」
「お父様、お越しいただいたなら事前にお知らせください。準備ができませんでした」
「急な話だ。座れ」
「立ったままで構いません」
父は少し眉を動かした。エルナが言い返すのは、珍しいと思っているだろう。以前は何を言われても黙っていた。
「手紙を読んだ」
「はい」
「断るとはどういうことだ」
「条件が合わないので、断りました」
「条件?」
「私がここに投資した時間と資金と労力の回収が終わっていません。それを放棄してリーナに渡す理由がありません」
父は少し黙った。
「お前はリーナの姉だろう」
「はい。だからといって、姉が何でも妹に渡すべきだということにはなりません」
「リーナは困っているんだぞ」
「承知しています。婚約者との問題については、リーナ自身が解決すべきことだと思います。私にできることは、考え方のヒントを伝えることくらいです」
「冷たいな」
「冷たくはないです。ただ、代わりに解決することが本人のためになるとは思えません」
父はエルナをしばらく見た。
「お前は変わったな」
「そうですか」
「王都にいた頃とは別人のようだ」
「ここで仕事をしているので」
「仕事、か」
父は少し苦い顔をした。令嬢が仕事をするという概念が、受け入れられないのだろう。
「ロッテンの現状を説明します」
エルナはノートを開き、数字を父に見せた。
「着任時の借金残高、現在の残高、農地の回復状況、今年の収益、来年の試算。全部ここにあります。この数字を作るのに三ヶ月かかりました。私の手と時間と、村人の協力で作ったものです」
父は数字を見た。黙って見ていた。
「……これは本当か」
「嘘をつく理由がありません」
「三ヶ月でここまで」
「やることをやっただけです」
父はしばらくノートを見ていた。エルナは待った。
父が顔を上げた。
「……分かった。今回は引き下がる」
「今回は、ということは、また来るつもりですか」
「お前が考えを変えるかもしれない」
「変えません」
「断言できるか」
「はい」
父は立ち上がった。
「エルナ、お前は……」
父が何か言いかけたとき、扉が開いた。
ベルクだった。
「エルナ様、少し、よろしいですか」
「今は話し中です」
「それが……」
ベルクが少し困った顔をした。その後ろに、村人が数人見えた。ヴェラもいる。
「何事ですか」
「お父上がいらっしゃったと聞いて、村の者たちが……」
ヴェラが前に出た。
「伯爵様にお話があります」
父がヴェラを見た。
「なんだ、お前たちは」
「この村の者です」
ヴェラは父を真っ直ぐに見た。
「エルナ様に出ていってほしくありません」
父が少し固まった。
「エルナ様が来る前、この村は終わりかけていました。農具も種もなくて、若い人たちはみんな出ていって。それをエルナ様が立て直してくれました。道を作って、水車を直して、子どもたちに字を教えて」
「字まで教えているのか」
父がエルナを見た。エルナは黙っていた。
「エルナ様はこの土地の領主です。私たちの領主です。それをリーナ様とやらに渡すというのは、私たちには関係のない話ですが、エルナ様がいなくなることは関係があります」
「村人が領主の人事に口を出すのか」
「口を出します」
ヴェラは一歩前に出た。
「エルナ様は三ヶ月で、十年分の仕事をしてくれました。その人を取り上げるなら、理由を聞かせてください」
父は黙っていた。
エルナはヴェラを見た。目が少し熱くなった。泣くような話ではないと思っていたのに、また同じ感覚だ。
「……分かった」
父が言った。声が少し低くなっていた。
「今日は帰る。ただし」
父はエルナを見た。
「これで終わりにはならないかもしれない。覚えておけ」
「覚えておきます」
父は従者を連れて出ていった。
馬車が去る音がした。
エルナはヴェラを見た。
「ありがとうございます」
「当然のことをしただけです」
「それでも」
ヴェラは少し笑った。
「エルナ様が来てから、この村は変わりました。それを守るのは村人の仕事です」
エルナは窓の外を見た。
村人たちが広場に戻っていく。子どもたちが走っている。マリアが何かを叫んでいる。
いつも通りの景色だ。
でも今日、この景色が変わらずにある理由が、また一つ増えた気がした。
エルナはノートを開いた。
父、来訪。村人、立ってくれた。
それだけ書いた。
数字では書けないことが、また一つあった。




