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婚約者を譲ります、領地をください  作者:


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第一話 婚約破棄

 婚約破棄の場というのは、もう少し静かなものだと思っていた。


 エルナ・フォン・アッシェは、応接室の中央に置かれた椅子に背筋を伸ばして座りながら、そんなことを考えていた。向かいには婚約者のオスヴィン・フォン・ケルト子爵、その隣に妹のリーナ、そして上座には父のアッシェ伯爵。窓の外では夏の光が庭を照らしていて、どこかで鳥が鳴いていた。


 穏やかな昼下がりだった。


「エルナ、お前も薄々気づいていたと思うが」


 父が言った。


「オスヴィンはリーナを想っている。二人の気持ちを考えれば、婚約の変更もやむを得ないだろう」


 やむを得ない。


 エルナは心の中でその言葉を転がした。


 前世の記憶が戻ってから、もう五年が経つ。前の自分は日本で中小企業を経営していた。十五年間、朝から晩まで働いて、三十八歳のときに過労で倒れた。目が覚めたら十二歳のエルナになっていた。


 五年かけて、この世界のことを調べた。父のこと、家のこと、婚約者のこと。


 分かっていたことがある。


 この家で「やむを得ない」が意味するのは、エルナが黙って従うということだ。


「リーナが泣いているのよ」


 母が横から言った。


「お姉ちゃんなんだから、分かってあげなさい」


 エルナはリーナを見た。


 リーナは俯いて、ハンカチを握りしめていた。泣いているのかもしれないし、そう見せているだけかもしれない。どちらでもよかった。リーナ自身は悪くない。ただ、ずっとそうやって育ててもらっただけだ。欲しいと言えば姉が譲る。それが当たり前の家で育てばそうなる。


「分かりました」


 エルナは言った。


 父の肩から力が抜けた。母がほっとした顔をした。オスヴィンは視線を逸らした。リーナだけが顔を上げてエルナを見た。


「ただ」


 エルナは続けた。


「一つだけ、条件があります」


 父の眉が動いた。


「条件?」


「はい」


 エルナは父を真っすぐに見た。


「婚約を譲る代わりに、北のロッテン領地をいただきたいのです」


 沈黙が落ちた。


 ロッテン領地。アッシェ伯爵家が持つ飛び地の中で、最も価値のない土地だ。土が痩せていて、農業に向かない。村が二つあるが、人口は合わせて百人に満たない。近くに街道もなく、商業的な価値もほぼゼロ。おまけに前の管理人が帳簿を誤魔化していたせいで、いくらかの借金まで残っている。


 誰も欲しがらない土地だ。


 だからこそエルナは欲しかった。


「ロッテンを……お前が?」


 父は少し間を置いてから言った。


「あそこは何もないぞ。借金もある。お前一人でどうするつもりだ」


「それはこちらで考えます」


「嫁の行き先もなく、あんな辺境に一人で行くというのか」


「はい」


 父はしばらく黙っていた。エルナは待った。前世で身につけた習慣だ。交渉の場では、沈黙を埋めようとしてはいけない。相手が動くまで待つ。


「……好きにしろ」


 父は最終的に言った。


「ただし、援助はしない。自分でどうにかしろ」


「もちろんです」


 エルナは立ち上がり、一礼した。


 リーナがエルナの袖を掴んだ。


「お姉ちゃん、ごめんなさい」


 エルナはリーナを見た。泣きそうな顔だった。本当に申し訳なく思っているのだろう。それは分かる。


「謝らなくていい」


 エルナは言った。


「私が自分で選んだことだから」


 それは本当のことだった。


 誰かに奪われたのではない。自分で動いた。


 それだけで、エルナには十分だった。


 ロッテン領地への道は、馬車で丸二日かかった。


 王都を出ると街道は次第に細くなり、舗装が消え、木々が深くなった。同行者は御者の老人一人だけだ。荷物は木箱三つ。着替えと、前世から続けてきた経営ノート数冊と、計算用の紙の束。


 必要なものは現地で揃える。前世でも、会社を立ち上げたときはそうだった。


 二日目の夕方、馬車が丘を越えると、初めて領地が見えた。


 エルナは窓から身を乗り出した。


 広い。


 それが最初の感想だった。荒れているが、広い。丘の向こうに畑らしい区画が見える。その奥に小さな家々が集まっている。村だ。村の端に、少し大きな建物がある。あれが領主の屋敷だろう。


「着きましたよ」


 御者の老人が言った。


「ありがとうございます」


 馬車が止まり、エルナは外に降りた。


 土の匂いがした。草の匂いと、少し湿った空気。王都とは全然違う。


 エルナは深く息を吸った。


 悪くない、と思った。


 屋敷の扉を開けると、老人が一人立っていた。


 七十代だろうか。白髪で背が曲がっているが、目だけはしっかりしている。執事服を着ているが、かなり古い。


「お待ちしておりました、エルナ様」


 老人は言った。


「ベルクと申します。先代の代からこちらに仕えております」


「よろしくお願いします、ベルク」


 エルナは屋敷の中を見回した。埃っぽく、調度品のいくつかは消えている。売り払ったか、持ち去られたか。


「他の使用人は?」


「……私一人でございます」


「そうですか」


 エルナは驚かなかった。予想の範囲内だ。むしろ一人でも残っていたことに感謝した。


「ベルク、まず帳簿を全部見せてください。それから村の地図があれば」


「帳簿は……少々お恥ずかしい状態でございますが」


「構いません。現実を見るところから始めますから」


 ベルクは少し安堵したような顔をして、奥に消えた。


 エルナは窓から外を見た。夕暮れの光が荒れた畑を染めている。遠くで誰かが歩いている。村人だろうか。こちらを見ている気がする。


 警戒されている。当然だ。


 前の領主が何をしたか、エルナにはまだ分からない。でも帳簿を見れば分かる。数字は正直だ。どんなに取り繕っても、記録は残る。


 ベルクが帳簿を三冊抱えて戻ってきた。


 表紙が薄汚れた、分厚い冊子だ。エルナはそれを受け取り、テーブルに置いて一冊目を開いた。


 最初のページを見た瞬間、眉を寄せた。


 収入欄がほぼ空白だ。支出欄だけが埋まっている。しかも支出の内訳が曖昧で、「雑費」という項目が毎月異常な金額で計上されている。


 二冊目を開いた。同じパターンだ。


 三冊目。これは少し古い。こちらは収入欄もある程度埋まっている。つまり収入がなくなったのではなく、収入が入らなくなった時期がある。


 エルナはノートを取り出し、数字を書き写し始めた。三年分のデータを整理すれば、何が起きたかが見えてくる。前世で何度もやってきたことだ。まず現実を数字で見る。感情は後でいい。


「エルナ様」


 ベルクが心配そうに言った。


「お食事の準備をいたしますが、食材が……あまりございませんで」


「何がありますか」


「芋と、干した魚と、少しの塩だけで」


「十分です。それで作ってください」


 ベルクはまた安堵した顔をした。エルナは少し不思議に思った。


「ベルク、一つ聞いていいですか」


「はい」


「なぜ、ここに残っていたんですか。給与も出ていなかったでしょう」


 ベルクは少し黙った。それから静かに言った。


「村の方々が、まだいるから」


 エルナはベルクを見た。


「そうですか」


 それだけ言って、エルナは帳簿に向き直った。


 窓の外はもう暗くなっていた。遠くで犬が鳴いている。


 この土地には何もない。借金があって、使用人は一人で、村人には警戒されている。


 でも残っている人間がいる。


 前世で会社を立て直すとき、いつも最初に探したのはそれだった。どんなに傾いた会社でも、残っている人間がいれば動かせる。


 エルナはノートに今日の日付を書いた。


 ロッテン領地、着任初日。現状把握、開始。


 数字は正直だ。ここから始めればいい。

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