第8話 E.C.
自分の体が文字になって消えていく。それは一瞬のはずなのに、やけに長く感じられた。
これが虚構街で、消える感覚なのか。それとも『物語の住人症候群』に――。
「君は、そんなに汚れた頁のままで、物語を終わらせていいのかい?」
不遜を声にしたら、きっとこんな響きになるんだろうな。そんなことを思う。
「望むなら、私がその結末を検閲してあげよう」
その瞬間、熱が死んだ。
激痛も内臓を掻きまわされるような気持ち悪さも、文字と一緒に消えてしまったのか。
気付いたら、文字の海に溺れていた。もしくはカビ臭い呪われた古本にでも、自分が放り込まれたのか。
無数に蝶が舞っているように見えるが、全て白い紙に黒いインクで文字が刻まれているだけ。紙が生きているかのようなシュールな光景。
見上げた先に、天井は存在しなかった。円筒形に広がる本棚が、黒い闇に呑み込まれるまで伸びているだけだ。
壁を埋め尽くしているのは、膨大な数の背表紙。漂うのは、昔の小説家が狂ったように書き続け、仕上げ間近にインク瓶を倒して作品を台無しにしたかのような芳香。
(大概な世界だな)
虚構街もおかしな場所だが、ここほどではなかった。
文字で象った怪物が目の前に立ったら、きっと今と同じ感じなんだろう。
全てが異常だ。
だが、この部屋で最も異質なのは、優雅にアンティークチェアに座って読書にふける人物だった。
十二歳ほどの、精巧な人形を思わせる少女。
深淵をそのままくり抜いたような瞳の彼女は、機能的でありながら豪奢な衣装の裾を揺らし、退屈そうに一冊の本を捲っている。
場違いな見た目。だが、これ以上なくこの場に溶け込んでいた。
「静かにしたまえ」
少女の短い一喝。
刹那、文字たちが一斉に沈黙した。あとに残ったのは、俺の心臓の鼓動だけだ。
「……ここ、は……?」
剥き出しの意識で絞り出した問いに、少女は嘲笑さえ返さない。
「場所を問う前に、まずは自分の立ち位置を定義し直すべきじゃないかな?」
彼女は踊るように指先を回し、虚空に一つの線を引いた。
「まあ、いい。ここは収める書庫であり、同時に、秘密の読書部屋だ」
彼女は椅子に深く腰掛けたまま、品定めするように俺を見下ろす。その瞳には、血の通った人間を映しているという温度が一切なかった。
「君は今、自分が『可哀想な被害者』だと思っているのか、それとも『これから奇跡を起こす予定の主人公候補』だと思っているのか。……まさか、自分がただページを汚すだけのインクの染みだとでも思っているなんてことはないよね?」
違う。
そう、否定しようと動いた喉が、彼女の言葉の圧力に凍りつく。
「自覚することだ。君の物語に、いくらの価値が付けられるのか。それは、作者である君の選択次第であることを」
彼女は顔を上げぬまま、音楽的な調べで告げる。
「私の名前は……そうだね、今の気分なら『E.C.』とでも呼んでもらおうか。何者かを知りたがるのは、伏線が回収されるまで我慢したまえ」
E.C.は本を閉じ、ようやく俺を正面から射抜いた。
「君が『蓮』という名を与えられているのは、泥の中で懸命に咲く姿を期待されているからであって、清らかな水の中にあることを約束されているからじゃないのは分かるかい?」
答えなど期待していないように、その目に興味の色はまったくない。
「むしろ逆だ。泥の中で咲こうとしなければ、蓮という名前は成立しない。ネーミングライツの無駄遣いだね。どうだい? タイトル回収もされずに打ち切られかけている気分は」
彼女の細い指先が、俺の右手を指し示す。
言われてようやく気付いた。手の甲に、鈍い光を放つ黄金の紙片が、皮膚を食い破るようにして張り付いていることに。
引き剥がそうと爪を立てる。
だが、紙の縁はすでに俺の肉の色と同化していた。
「その子は、君と溶け合いかけている。このままだと君は、己という物語そのものを、その紙片に奪われることになるだろうね」
脳裏をよぎったのは、『物語の住人症候群』という言葉。
その瞬間、全身の血が凍りつきそうなまでに冷えた。自分を失い、とり憑いた紙片に記された亡霊となる恐怖に。
美菜――。あいつと同じように、自分を失い、物語の亡霊となるのか。
「その赤錆びた亡霊はね、君と溶けあって現実の住人になろうとしているのだが――それは君の望む結末かな?」
E.C.は、唇の端を吊り上げて、嘲笑うかのような残酷な笑みを浮かべる。
「取引をしよう。私がその亡霊に『言葉』を与えよう。そうすれば、君の物語は奪われずに済む。代わりに私の依頼を聞いてもらいたい。――もちろん報酬も出そう」
言葉を区切り、彼女は俺の瞳の奥を覗き込むように身を乗り出した。
「それと、その紙片――赤錆君とも契約が必要だね。自分の技を引き継いで欲しいそうだ。君は自分の人生一つに対し、二つの契約責任を負うことになる。……どうだい、いささか不公平すぎる条件だと思わないかい?」
二重の縛り。一方的な搾取。
震える拳を握りしめ、俺は少女を見据え返す。
「……不公平? 笑わせるな!」
勝手に決めた決定事項に、こっちが従わなければならない。それを前提にした上から目線のセリフ。気に喰わない。
「価値が決まっていない商品に、定価なんてないだろ。この条件が妥当かどうかは、俺がこれから書く『結末』で証明してやる。あんたは、その澄ましたツラが剥がれるような衝撃を期待して、俺に投資を持ちかけた。……そうだろ?」
口から出たのは、昔見た安っぽい深夜アニメの台詞だった。
中身など皆無。
俺のように空っぽな言葉だが、E.C.の雰囲気に呑み込まれるよりもはましだ。
「……ふふ。いいね。いい傲慢さだ。その自惚れこそが、予定調和の舞台に変化を与える劇薬になる」
E.C.は椅子から降り立ち、優雅な所作で俺に歩み寄る。
「しかし傲慢が許されるのは、魅力的な登場人物であると相場が決まっている。それ以外は、つまらない終わり方をするものだ」
至近距離で、彼女の体温のない香りが鼻腔を突いた。
「いっそのこと魅力的な主人公になってくれることを祈っているよ。……死にゆく端役に興味はないからね」
ふわり、と死神の如き冷徹な所作で、彼女は俺の胸板にその小さな掌を当てた。
E.C.が、俺の胸に文字を描くかのようになぞる。
それは、俺に書かれていた未来のシナリオが、無慈悲に書き換えられていくような感覚。
取り返しのつかないことになった。心臓が、手遅れな警告音を鳴らしている。
「忘れないことだ。その鼓動、その熱、その絶望。すべては、たった今から私が読む『物語』になった。君が呼吸するたびに、私による批評が成されると思いなさい」
彼女の冷たい指先が離れると、手の甲にあった黄金の紙片が、まばゆい光の粒子となって砕け散った。
「救済とは、時に死よりも残酷な形をとる。君が選ぶのは、美しい死体として物語を閉じる安寧か、あるいは、私の筆先で踊り続ける醜い生か。……この投資でよき作家が育つことを期待しているよ」
砕け散った黄金の飛沫が、血管を逆流する。
そこには透明で、不快なほど綺麗な痛みがあった。しかし、いつの間にか致死量の陶酔へと書き換えられ、脳はそれを当然であると受け入れる。
俺の意味と、黄金の意味。肉と金属がぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。
「さあ、お帰り。……これより先は、君の独壇場だ。せいぜい、読者の期待を裏切るような、最悪で最高のハッピーエンドを綴ってみせたまえ」
風景が歪み、俺の意識が薄れていく。
立っていることすら難しく――俺は、立っていたのか? それすら分からなくなり、この邂逅は終わりを迎えた。
なあ、E.C. 期待の新人作家には、もう少し優しくしてやるべきだろう。
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