エピローグ トラブルに愛された人間
消毒液の匂いに慣れてしまいそうだ。
ここは、生命の居場所としては、あまりにも清潔すぎる。
日常と病院の輪郭がボヤけるのは、よいことではない。そんな気がしてならない。
病室の窓から差し込むのは午後の光。
磨いたばかりのガラスを通したように淡く、美菜の横顔を非現実的なほど白く透かしている。
彼女を『あちら側』――物語の住人症候群の深淵から引きずり戻して数日が経った。
俺は親切だから、しっかりと病院から早く出られるように、アフターケアをしてやろう。ただし、本人が望むやり方かどうかは別問題だが。
「拝めよ。これが世界限定数、当選者のみに許された『シラユリ』の聖誕祭限定コスチュームだ」
スマホ画面に映るのは、ドットとポリゴンの奇跡。少女が繊細なレースを翻している。
皮肉屋を自称し、他称もされる俺の指先が、その希少価値ゆえに微かに震えていた。
俺が推す『向日葵』の対極に位置する、氷のような美しさを湛えたシラユリ。
その限定衣装にして、美菜の最推しキャラ。
「お前の端末には、もう二度と実装されない奇跡のコスチュームだぞ。しっかり目に焼き付けておくんだな」
俺は唇の端を吊り上げ、彼女の反応を待つ。
これから『いつも』が始まる。『性格が悪い』と罵るだろう。その瞳を羨望に輝かせるだろう。――そう思い込んでいた。
だが、美菜は画面に視線を落とすことさえしなかった。
「……もう、興味ないの」
「……は?」
「だから、興味ない。ただのデータじゃない。ゲームも、シラユリちゃんも、全部。……もう、どうでもいいの」
胸の熱い所に、冷水を注がれた気がした。
『物語の住人症候群』
その爪跡が残ったのだとしたら――。あれほど熱狂していた想いであっても、こんなにアッサリと冷ましてしまうのか。
「そうか……」
俺は画面を消し、スマートフォンの重みをポケットに放り込んだ。
「……いや。お前がそう言うなら、それでいい。実際、俺もヒマワリちゃん一人に注力できるしな。……ただ、これは……そうだな。お前が戻ってきたら、快気祝いにプレゼントしてやろうと思ってただけだ。いらないようだから、俺の方で使うわ」
血の滲むような思い出イベントだった。
何度、同じ戦闘を繰り返したものか。
あの苦難を乗り越えて、ようやく条件を満たしてシリアルコードをもぎ取ったのだ。
それが本来の持ち主である、俺のところに残るだけ。
それだけの話。
用はすんだことだし、もうここにいる必要はない。
俺は踵を返した。
その時。
背後で、カサリとベッドのシーツが擦れる音がした。
俺のジャケットの裾に、重みがかかる。
「……え、ちょ、ちょっと待って」
後ろから、服を引っ張られた感覚があった。
「……ちょうだい」
消え入りそうな声だった。
俺は足を止め、肩越しに彼女を見る。
美菜は俯いたまま、俺のジャケットの裾を強く握りしめていた。
「なにがだ」
「それ……シラユリちゃんの限定コスチューム……。くれるって言ったじゃない。……ちょうだい」
「……お前、さっき興味ないって言ったよな? ただのデータだって、冷めた顔で説教垂れてたのはどこのどいつだ」
俺が問い詰めると、美菜はゆっくりと顔を上げる。
そこには、先ほどまでの氷のような虚無感はない。代わりに、獲物を狙う小動物のような、湿り気を帯びた執念が宿っていた。
「それは……私が欲しがると、余計にくれないじゃない。……ああ言えば、譲ってもらいやすいからに決まってるでしょ」
……絶句。
俺は自分のこめかみが、ピキリと鳴る音を聞いた気がした。
この女。死の淵から生還したその足で、自分の病気すらも交渉のテーブルに乗せてきやがった。
しかし、俺は気付いた。それだけが目的じゃなかったことに。
「お前……。今回の件を、キャラ変に利用しようとしやがったな?」
「キャラ変じゃないわよ。アップデートって言いなさい。シラユリちゃんみたいにクールでミステリアスな女が私にはふさわしいけど、少しだけ足りなかったみたい……やっぱり、あのコスチュームなしで現実は生き抜けないわ」
美菜は掴んでいた俺の服をぐいと引き寄せ、挑発的に口角を上げた。
そのしたたかさは、もはや『物語の住人症候群』の影響など微塵も感じさせない、図太い生命力に溢れている。
「いい度胸だ。だがな、無料配布キャンペーンは終わった。今は獲得条件付きだ」
俺は腕を組み、宣告する。こいつにとって、もっとも屈辱的な方法を突きつけてやろう。
「今ここで、『ヒマワリちゃん大好き』って言ってみろ。そうしたら、シリアルコードは、お前の端末へ献上してやる」
美菜の顔が、一瞬で屈辱に染まった。
自分の推しキャラ以外への好意を語る。しかもこの俺の目の前で肯定することは、己の信仰を傷つける行為に他ならない。
それがオタクというものだ。
「……正気? あんた、この病室で私に何を言わせようとしてるのよ」
「嫌ならいい。このデータは永遠に俺のスマホの中だ。決してお前のスマホで見ることはできない……さあ、どうする?」
沈黙が流れる。
美菜は唇を噛み、葛藤に身を悶えさせていた。
だが、彼女の視線は俺の手元にあるスマートフォンから離れない。
ふっ、落ちるな。
そう確信して、見下ろし続けると、ようやくその時が来た。
「言えばいいんでしょ、言えば!」
彼女は深く息を吸い込む。
頬を朱に染めながら、覚悟を決めたように俺を睨みつけながら。
「最高、じゃないならいいよね。『好き』なだけなら、別に裏切りにはならないし……」
自分に言い聞かせているな。
これだけで満足感はあるが、手心を加えてやる気はない。
(さあ、こちら側に堕ちてこい)
待つ。――待つ。――待つ。
そして、ついにそのときが訪れる。
「……ヒマワリちゃん、大好き」
思わずニヤリとなった口元を俺は手で隠した。
勝利の美酒に酔いしれるような――未成年だから酒の味は知らないが。いい気分のまま、さらに追い打ちをかけることを決めた。
「聞こえないなー。そんな小さな声じゃ、ヒマワリちゃんの太陽のような輝きに失礼だ。もっとはっきり、心を込めて言ってみろ。さあ、愛を込めて叫べ、美菜」
「あんた、本当に最低……!」
美菜は涙目で俺を睨みつけてくる。
だが、彼女の指先はまだ、俺のジャケットを離さない。
限定コスチュームという至宝を前にすれば、自意識など紙くず程度の価値しか持たない。それがオタクというものだ。
こいつは、間違いなく、さらに堕ちてくる。
やはり美菜は、ヤケクソ気味に叫んだ。
「わかったわよ! 大好き! 大好きよ! これで満足!?」
堕ちた。
そう確信した直後、静寂は切り裂かれた。
病室のドアが、スライドした音で。
「――まあ! 美菜!」
そこに立っていたのは、果物籠を抱えた美菜の両親だった。
父親は手に持っていたメロンを床に落としそうになり、母親は両手で口を覆い、感激に打ち震えている。
「え?」
美菜の思考が停止する。
俺の思考も停止した。
最悪だ――。
「蓮くん。美菜がそんなに、君のことを……」
父親の瞳には、早くも熱いものが込み上げている。
「『大好き』だなんて。病気を乗り越えて、ようやく素直になれたのね。お母さん、嬉しいわ!」
「違う、待って、今の『大好き』は、こいつじゃなくて、ヒマワリちゃんっていう、その――」
美菜の必死の弁明は届かない。感動の濁流に飲み込まれている。
俺は俺で、この状況を打破しようと口を開いたが、脳が弾きだしたのは、皮肉屋の信条を捨てて素直に状況を説明することだった。
まさか、美菜の信条を傷つけようとしていたのに、自分も巻き込まれるとは。
これは自爆。もしくは誤爆。
「誤解です。俺はただ、彼女に『踏み絵』をさせていただけなんです」
「踏み絵!? 蓮くん。私たちは二人のことを祝福している。だから、照れ隠しなんて必要ないからな!」
もはや、言葉は意味を成さなかった。
美菜は真っ白になり、俺の服を掴んだまま、口をパクパクとさせている。
『トラブルに愛された人間』
虚構街で聞かされた言葉が頭をよぎる。――いや、これは違うだろ。と、ツッコミを入れておいた。
美菜を物語の住人症候群から帰還させた。だが今は、俺も巻き込まれる形で、もっと厄介な「ラブコメ風勘違い」という役を割り当てられてしまった。
それだけの話。
そのはずだ――。
美菜がようやく再起動し、俺の脇腹に全力の拳を叩き込んだ。
「あんたのせいよ! 責任取りなさいよ、このバカ蓮!」
「痛っ……! 責任? ああ、取ってやるよ。とりあえず、その限定コードを親の前で入力してやるから、スマホ貸せ!」
病室に、怒号と、弁明が入り混じる。
これもE.C.の言うところの、物語として消費されるのだろうか。
これで一章は終了となります。




