第10話 血桜舞う
ビルの谷間。
コンクリートの裂け目に、狂い咲く無数の白は、夕焼けの赤に染まっている。
この場所を蓮が訪れたのは、ほんの数時間前。
しかし、数日間――いや、数ヶ月ものあいだ目を離したかのように、厚みを増した蔦が壁面を這い、無数の百合が、死者の肌のような白さで闇を凝視していた。
これは、物語の住人症候群の末期が近付いている証。
早る鼓動は、唾を飲み込むことでこらえて、角を曲がり、その先に――美菜がいた。
静止している。
その佇まいは、人間ではなく、精巧な植物標本の類を見た感覚に似ていた。
――これが最後のチャンスになる。
「……また私の花園を荒らすのね」
また植物の共振を使った、シラユリの声真似。
そして夕闇に揺れる白いドレス。さらに白いリミナ・マスク。
いずれも何も変わっていない。だが、さっきよりも、禍々しい物語を、その姿に宿しているように感じる。
「この花園はしっかり目に焼き付けておけ。今日で見納めになるんだからな」
蓮は日本刀を抜き放ち、地を蹴る。
金属音が夜の静寂を切り裂く。
鋼と蔦、現実と虚構が火花を散らす。
蔦の伸長が伸びていないか?
蓮は足元を這いずる無数の『触手』を紙一重で回避する。
植物操作。
そんな甘美な概念ではない。
これは理不尽なまでの物質変換。
大気中の水分と二酸化炭素が、超高効率の「有機構造体」へと瞬時に組み替えられていた。
だが、辞書に書かれた「立ち止まる」という言葉は、すでに塗り潰されている。
「ハァッ!」
中古――だがしっかりと手入れされた刀を振るう。
だが、蔦を斬っても斬ってもキリがない。行列待ちの殺意が、次々に襲ってくる。
だが、殺意は足元にもあった。
だが、――だが、――だが!
いくつもの『だが』を繰り返した先で気付く。
コンクリートに染み込んでいた樹液が凝集し、超硬度を持った木槌へと変貌したことに。
「あ……」
背後。
死角から伸びた百合の茎が、蓮の足首を払いのけた。
「しまっ……!」
地面から足が浮いた瞬間を狙って、木槌が振るわれる。
「紐解」
マスクの側面を打つ。
――叫ぶ。
目の前に現れたのは幻想の盾。
衝撃が二つ、鼓膜を叩く。
一つは、金属の轟音。もう一つは、ガラスが粉砕されるような、絶望の音。
そして幻想は砕けた。
蓮の身体は、木槌の余波に弾かれ、背後の闇へと転がっていった。
「すごいねえ。ロストしなかったなんて」
指を震わせ、シラユリの声真似をする美菜。
衝撃に抵抗せず背後に飛んだおかげで、最悪のダメージは防げた。
スーツのおかげか、それとも紙片のおかげか。
ノーダメージとまでは行かなかったが、意外と戦えているなと、自分を確認する。
「ねぇ。植物って意外と暴力的だって知っていた?」
美菜は踊るように指を動かす。
その仕草ひとつで、ビルの壁面を覆う蔦が幾何学模様を描き、蓮の退路を丁寧に、かつ悪趣味に塗り潰していく。
「……っ、ぐあ!?」
蔦の棘が、蓮の肩を浅く抉った。
痛みはある。だが、侵食される感覚の方が酷い。彼女の吐き出す言葉の毒が、血管を伝って脳を焼くようだ。
「見逃してあげない。逃げ場なんて、最初からこの鳥籠には存在しないんだから」
それは、緑の死蝕だった。
美菜という女王に従う兵士たち。一斉に蠢きだした蔦は、もはや植物ではない。都市すらも侵食しかねない「幻想の神経系」だ。
口内に広がる鉄の味が、やけに重く感じる。
「は、はは。ビルの谷間がジャングルに様変わりってか!」
蓮は笑うしかなかった。笑い飛ばさなければ、恐怖で膝が笑い出すからだ。
美菜の指先がピアノを弾くように動くと、電柱を糧にした蔦が、高圧電線を巻き込みながら鞭のようにしなった。
「物理法則無視も大概にしろってんだ!」
バックステップで回避。
直後、さっきまで蓮がいた場所は、コンクリートごと植物の奔流が消し飛んだ。
皮肉を言って、自分を奮い立たせることで、なんとか心は折れないようにこらえている。
だが、状況は覆らない。
蔦の檻は三次元的に広がり、上空すらも百合の花弁が覆い尽くしている。
「チェックメイト、って顔だな」
仮面で分からねぇけど、と心の中で毒づく。
蓮は刀を構え直すが、その指先は小刻みに震えている。
四方八方、逃げ場はない。
全方位から襲いかかる緑の「暴力」が、彼の生存戦略を、完膚なきまでに叩き潰そうとしていた。
蓮は走る。
圧殺の柱と化した蔦を、右へ、左へと避けながら。
避ける。
――避ける!
――――避ける!!
「紐解!」
蔦の影に姿が隠れた、一瞬の死角。
仮面を叩く。
背に現れたのは軽装の槍を構えた突撃兵。
フィクションを現実に上書きする、超越的な加速が、植物が支配した世界を貫く。
一気に間合いを詰め、美菜の首筋に刃が届く――その時、蓮の右手が凍りついた。
――『顔見知りを斬れと言ってんだ』。
賀来の言葉が呪いのように蘇った。
「くっ……!」
躊躇は致命的な隙を生む。
美菜の蔦が蓮の腹部を打ち抜き、彼は大きく後方へ弾き飛ばされた。
その意識の淵で、冷笑するような声が響く。
(俺の中の美菜を殺すか……そうだな)
賀来に言われた言葉を思い出す。
「ああ、そうだ。俺は今から俺の中のお前を殺す。そして現実の美菜を連れ戻す」
『ようやく、その気になったか』
男の声が響いた。
聞き覚えのない声。だが、何者かなど分からぬはずがない。
右手が熱を思い出したかのように疼いた。
「紙片というのは寝ぼすけなんだな。登校時間は、もう過ぎているぞ」
「ふん。お前が手を貸すに値するか見定めていただけだ」
そうなんだろうな。と、納得するしかない。
「手を貸せ。お前の技を、俺が使ってやる」
『百年早い。だが、その気概だけは認めよう』
蓮は刀を収め――祈るかのように刀を引き抜く。
現れるのは、血を吸い尽くしたような赤い錆。
だが、切っ先が鞘を離れるにつれ、死した錆は命を宿して舞う。
それは、夜の闇に産み落とされた、血色の桜吹雪。
殺意を孕み、美しき緋色が戦場を彩る。
「これが、俺の覚悟だ」
蓮が踏み出す。
その瞬間、残像から赤い分身が分離した。
美菜が放つ迎撃の蔦が分身を貫く。だが、それは虚像だ。無惨に散っては、別の座標へ瞬時に結実する。
「な……に……っ!?」
その散りゆく桜吹雪の中に、一筋の輝く「ライン」が見えた。 世界のバグを、物語の歪みを断ち切るための、唯一の軌道。
「ようやく、お前の声が聞けたな」
心を隠していた仮面を、ついに砕いた。植物を使った声真似をする余裕を、美菜は失った。
蔦が次々に襲いかかる。
だが分身と位置を入れ替え、時に回帰する。物理法則を嘲笑う三次元的な攪乱。
人を圧殺する緑の柱が襲うも、コンクリートを砕くことしか出来ない。
必殺の刺突も、身代わりの光を散らすのみ。
そして――。
蓮はすでに、彼女の至近距離にいた。
桜が吹雪のように舞い散る。
赤く、紅く、より鮮やかに。
散りゆく桜吹雪の只中。一筋の、輝く剣閃が浮き彫りになる。
死線。それは赤錆が見る、相手を殺す絶対軌道。
「奪い返すっ!」
蓮の刃がラインをなぞる。
赤い花びらを真っ二つに斬り裂きながら――終いだ。
蓮の背後で、美菜が倒れた。
ドレスの純白が黒い靄へと転じると、幾色もの文字へと解かれて消えた。
残されたのは見慣れた私服を着た美菜。
ただ、未だに着けている新品の仮面は初めて見たが。
「気取ったドレスよりも、そっちの方がお前らしいだろ。仮面については、後でからかってやるから覚悟しておけよ」
彼女の体が文字となって霧散する。
その跡地に、黄金に輝くチップ――『紙片』が、静かに滞空していた。
一つの忌まわしい物語は、結末を迎えた。
その証となる紙片を手にしようとするも、膝が折れる。
偶然にも、倒れ込んだ先に美菜のいた場所――あの『紙片』が落ちていた。
蓮は震える指先でそれを確保し、そのままコンクリートの上に座り込んだ。
美菜を、あいつを物語から奪い返したはずだ。
祈るかのように、手をこすり合せようとも、やはりこの両手から乾いた絶望が離れてくれない。
手に残った感覚をごまかそうと、鞘に刀を収めようとするも、ボロボロに欠けすぎて帰宅拒否をされた。
落ちつかない気持ちのまま、時だけが過ぎていく。
もうしばらく、休んだら戻ろう。
そのような計画を狂わせたのは、リミナ・マスクへの通信だった。
『蓮か。……女の子が保護されたぞ。お前と同じくらいの歳だ。確認してくれ』
映し出されたのは、路上らしき場所で寝ている美菜だった。
無事に外に出られたようだ。
「ありがとうございます。それで、症候群の方は――」
「すまんな。それは分からない。病院で検査はさせるが、プライバシーの問題があるからな、俺の方からは何も言えない。すまん」
「いえ。見舞いに行って直接聞きますので……それと、ありがとうございました」
『実はな、相川の坊主がお前の着弾地点を予測して、交番に手を回しておいたらしい。今度礼を言っておけ』
愉快そうな賀来の笑い声。
相川煌。
あの無愛想な少年の、不器用極まる支援。
(男のツンデレに需要は――いや、一部にあるか)
嫌な気分だ。
「は……はは」
だが、日常の感情が心に入り込み、ようやく解放されたという実感を得た。
美菜も自分も、ようやく。
しかし、虚構街のルールは、未だに蓮を縛り上げたままであった。
コツ、コツ、と。
乾いた、硬質な足音が響いた。
視線を上げる。
三人の男。装備には、先程美菜に蹂躙されていた新入りと同じ「ギルド」の紋章。
だが、彼らの瞳にあるのは感謝ではない。
深手を負った獲物を囲む、野犬の卑俗な殺意だ。
厄介なことになった。と、考えながら、蓮は重い腰を上げ、ボロボロの刀を構え直した。
舌の上に残る鉄の味は、もっと濃くなるという予感を抱きながら。




