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第1話 あるはずの着信は、今日も鳴らなかった

 あるはずの着信が今日もないことを確認すると、そのままスマホを鞄に入れた。


 表情を取りつくろい、病室の扉を開ける。


 消毒液の匂いが濃くなった気がした。


 それは清潔の証明というよりは、生存以外を余計なノイズとして一切合切排除した無機質な拒絶の香りだった。


 ここにあるものを「生活」とは言わない。あえて言うのなら――そう「生存」という名の作業というべきか。生活を効率化という名のメスで切り分け、もっとも清潔な部分を集めて作られた場所だ。


 カーテンの隙間から夕方の街が見える。


 不自然なほどに白いベッドのシーツを染める赤が、作業の終わりを意味していると思えてしまうのは、この場所に身内が世話になっているせいだろう。


「少ししたら、体調もよくなるから」


 母の声は、喉にひっかかるような掠れを含んでいたが、その響きは穏やかだった。


 自分の明日がないことを知りながら、これまでと同じように午後の雑談をするかのような穏やかさ。そのような不吉な例えが頭をよぎった。


 嫌な予感を振り払いたい。


「父さんも心配して、来たがっていたけど……どうする?」


 俺がそう尋ねると、母はこれまで以上に穏やかな表情を見せる。それでいて一点の曇りもない満面の笑みを浮かべていた。


「迷惑だから、絶対に来させないで」


 あまりにも清々しい拒絶だ。


 否、これはもはや、拒絶という城塞都市への不可侵宣言に近い。


 一歩でも踏み込んだ不届き者には、正義の鉄槌が下ることだろう(父限定)



 だが、俺も同意するしかない。


 父がここに来た時の光景を容易に想像できてしまう。それが父クオリティーなのだ。


 周囲の温度を強引に引き上げる圧倒的な熱量、それに他者の領域を顧みない過剰なまでの献身。


 これらは療養中の母に言わせれば「煩わしい」の五文字でしかない。おかわりとして病院関係者からの冷ややかな視線は「勘弁して」という四文字が差し出される始末。


「……ごめん、父さん。今日も入城許可証(許可)は下りなかったよ」


 心の中に思い浮かぶのは、職場のデスクでソワソワと連絡を待っているであろう哀れな背中。なお謝罪という名のリップサービスを心のどこかで送った気がするから後ろめたさはない。


 これで今日の「息子としてのノルマ」は達成だ。


 いつも通り父は肩を落とすだろうが、家庭カーストのトップでおあせられるお母様たってのご希望だ。俺が口出しすることではない――面倒だし。


「暗くなってきたし、そろそろ帰りなさい。制服のままじゃ、落ち着かないでしょう?」


 促されて視線を向けると、窓の外では残光がすでに消え、空は夜の装いに着替え始めていた。


「父さんには――」「絶対に、何も言わないで」「……だろうね」


 念のため、二度目のノルマをこなしてみたが、やはり例外はなかった。一貫性があるおかげで、カロリーの消費を抑えられてありがたいが。


「じゃあ、帰るよ。母さんもゆっくり休んで」



 父さんと母さんは、仲がいい。いや、良すぎるのだ。


 あと二~三人は俺の弟や妹が出来ても驚かない程度には、彼らは愛し合っている。


 父さんの方には母さんに対して思うところがあるようで、それが360°歪んで一周した結果、面倒臭くなっているが。


 組織を引っ張る優秀な人ではあるが、今ごろ職場でソワソワしている姿を見られて、威厳を落としている頃だろう。



 病室の重い扉を閉めると、母さんとの間にどうしようもない隔たりを作ってしまった気がした。指先に残った金属の冷たい感触が、その錯覚を現実だと思い込ませる。


(温度もなくなるもんだな)



 この閉鎖空間から逃げ出そうとする俺の足音を、床が硬質なものに変換して跳ね返す。


 ナースステーションの横を通り過ぎる際には、忙しなく動く看護師たちの衣擦れの音が、この場所を日常の淵にあるのだと思い出させた。



 自動ドアが開いた瞬間に吹いた夜風は、妙に冷たかった。



 同時に、開く。鳴る。押し寄せる。



 病院からの脱出は、そのまま静けさの終了を意味していた。


 車の音。誰かの声。サイレンの悲鳴。


 一歩でも外に出てしまえば、そこは喧騒と名付けられたドブ川。


――賑やかなことだな。


 心の中で皮肉を呟きながら、スマホを覗き込む。 


「……言わない方が、息子としては正しいんだろうけど」


 ただの独り言は、ネオンの光に溶けて消えた。


 画面を見つめ続けるが、待ち人からの通知が届くはずもない。



 ふと、放課後の教室を思い出す。


 いつも通り、騒がしいクラスメイトたちの中で、美菜の机だけがぽっかりと欠落を主張していた感覚。


 あるべき場所に、いるべき人がいない。


 その物足りない空白は、かつて俺が味わったあの感覚――母が初めて倒れた翌日の、家の空気に穴が開いたような、あの空虚に酷似していた。


「手間賃は取るからな……」


 確信はない。だが、大雑把な予想ならついている。


 行方不明という名の非日常に浸っているあいつを、いつまでも放っておけるほど俺は「常識的な一般人」にはなれない。



 メッセージアプリを開き、事務的な文字列を打ち込んだ。


『美菜が帰っていないみたいだ。少し探してみようと思う。何か分かったら教えてくれ』


 送信した直後、画面を埋め尽くす「父」からの大量の着信履歴が目に入った。


 そこには秒単位で送られた未読の壁。


 病院へ寄ったと連絡したことを、俺は深く後悔した。



 とりあえず、「電話は無理だ。また後で」とだけ打ち込み、送信と同時に父という名前の誰かさんのアカウントを一時的にブロック(黙殺)しておく。


 この件は、俺の人生から消去して、次の連絡先をタップする。


「蓮です。今、よろしいですか。――ええ、実は」


 相手は父さんの古い友人であり、俺の幼い頃からの後見人。受話器の向こうで情報の対価として提示されたのは、「ある仕事」だった。



 美菜の行方に関するプライバシーを掴むための、等価交換。


 警察関係者として情報を流すための、あまりに回りくどい口実作り。


 その気遣いに申し訳なさを感じると同時に、父の元同僚であったという事実を申し訳なく感じた。


 きっと、現役時代も父のフォローで相当な、それこそ宇宙的な規模の苦労をしていたに違いない。



 電話を切り、移動を開始する。


 冷えた指先をポケットに押し込み、早足で駅前へ。ネオンに照らされる個性の欠片もない人の群れの中をすり抜けていく。


 向かったのは、病院近くの裏通りにあるコンビニ。


 薄暗い軒先に、目当てのそれはあった。一昔前にはあちこちにあったという電話ボックスの模造品。あるいはその進化版――『ポータル・ボックス』。



 中に入り、扉を閉めると、外部の喧騒が嘘のように消失した。


 スマホを操作し、専用のアプリを起動させる。



 瞬間、世界の解像度が剥離した。



 「現実」という映像が輪郭を滲ませ、量子レベルの原色へと分解されていく。スマホの液晶から溢れ出した青白い発光は、ボックス内の空気を書き換え、再定義していく。


 それは距離を「移動」するのではなく、存在の立脚点を「転移」させる論理的な跳躍。


 「いつもの現実」というマクロな視点から、「並行する現実」というミクロな極彩色の別世界への旅立ち。



 そして、俺はSFの世界に立った。



 もちろん、大げさな例えだが。


 さっきいた場所も、それなりの都会だった。


 しかし今、目の前に広がっているのは、俺の認識を嘲笑うかのような光景。


 物理法則を完膚なきまでに無視した超高層ビル群が無数に天を突き、空さえもビルによって穿たれようとしている。


 街全体が、昼間の温かな陽光とは別種の、冷たく鋭い青白い電光によってオーバーレイされていた。


――『虚構四番街』。


 膨大な情報が量子に影響を与え、現実の延長線上に生じた並行世界。地球が持つ、もう一つの姿。偽物という皮を被った本物の世界。


「明日は休みだ。時間は少しならあるけど……」



 制服の襟を正し、冷たい光に満ちた街へと足を踏み出す。


「まずは、仕事だ」



 ちょっとした校則違反。それでも青春の一ページ、もしくは一紙片。


 校則には若気の至りとして目を瞑ってもらおう。


 そう自己完結させたところで、喧騒の中へと飛びこんだ。



 少し、急がないとな。

最後まで読んでいただきありがとうございます!


面白い、続きが気になると思っていただけた方へ。


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