死を待つ患者
夏木は、何時ものように鬼怒川の堤防の上の歩行者専用道路を歩いていた。 勤務先の太平洋病院に行くためだ。
内陸の、ここは宇都宮市なのに太平洋病院とはこれいかに? この病院は分院なのだ。 本院は神奈川県藤沢にあって目の前には太平洋が広がっている。そこに15階建てで、屋上はヘリポートまである巨大病院だ。
分院は全国に多数あり、そのなかの1院が宇都宮太平洋病院というわけだ。
内科医夏木公児の住むマンションから病院までは徒歩15分くらいだから、そんなに遠くない。なので、毎日徒歩通勤をしている。
因みに不動産業界の基準では徒歩10分は800メートルとしている。駅から徒歩10分と言うことは駅から800メートルと言うことだ。なので夏木の通勤距離は1200メートルになる。比較的近い。車は今のところ必要ない。
マンションでは妹由美子と、ちょっと病弱な母親と三人で住んでいる。父親は何年も前に交通事故で他界した。
三月の空は真っ青に晴れていて冷たい風も心地よいが・・、彼の気持ちは重い。 夏木が担当している松島という男性の患者が外科から戻された。末期膵臓癌だった。
一応オペで膵全摘術を試みたが、すぐインオペされたしまった。手の施しようがなかったのだ。後は死を待つのみ。35歳の若さでだ。なんて言えばいいのか、どんな会話をすればいいのか・・、悩む。
病院に着き、いつものように朝礼をして夜勤医師から患者の容体を確認し引き継いだ。
重い足を引きずってその患者の個室に行くと、患者の奥さんと子供が沈鬱な表情でベッド脇に立っている。
夏木が軽く会釈をすると、奥さんと子供が会釈を返してきた。子供は謙治君と言って小学二年生と聞いている。賢そうな子だ。
夏木はかたち通りに脈と血圧を診て、「具合はどうですか?」・・言ってて虚しい。具合がいいわけないのだ。
松島がゆっくりと頭を持ち上げ、細々と「先生いろいろありがとうございます。今日は少し具合がよ・・・、ゴホゴホ」苦しそうに咳をした後、枕に深く頭を落としてしまった。
夏木はあわてて、
「無理に動こうとしないでくださいね」毛布を首までかけ直してやった。
「後で看護師がいつもの薬を持ってきますから、食後にきっちり飲んでください」
それには奥さんが答えた「はい・・」と言ったきり、すぐに目頭をハンカチで覆ってしまった。
「ねえ、お医者さん。お父さん治るんでしょう?元気になるんでしょう?」 子供が私の白衣の袖をつかんでそう言ったので、
夏木は「ああ」と反射的に答えてしまった。(しまった)と思ったがもう遅い。
「わ~い!治るんだね」お父さんの方を向いて「お父さん、今お医者さんが治るって言ってくれたよ」
両親には本当のことをとっくに告げてあった。治るどころか、もってあと2~3週間の命だろう・・。いや、いますぐ死んでもおかしくない。夏木は嘘をついたことになる。この子供には生涯恨まれるかもしれない。しかし、本当のことを面と向かって(お父さんはもうダメだよ)とは子供に絶対言えない。でも、嘘もいけない。
夏木はなんとかこの病室を出て、いつものように10人くらいの外来患者を診た。そして、夕方5時に憂鬱な気分で病院を出た。朝と同じように鬼怒川の堤防の上を、今度は自宅マンションに向かって歩いていたが、今日の子供のことが頭から離れない。
夏木の十メートルくらい先を三人の小学生が歩いている。3~4年生くらいだろうか、それらの後ろ姿をぼんやりと見ることもなく見て後を歩いていると、
「うわー!」と、突然3人の子供が大声を出して三方に飛びのいた。
子供の後ろ姿をぼんやりと見ていた夏木は、突然子供たちの前に何か黒い物体が現れたように見えた。
「何だ? 何か空から落ちてきたのか?」しかし、周りには高層マンションも何もない。
「飛行機?」 上を見上げてもそれらしき物は何も飛んでいない。
すると、子供たちがそれを拾ってワイワイやっていたが、こっちを振り向いて、駆け寄って来た。
「おじちゃん、これ急に目の前に現れてきたんだけど、ビニール袋みたいで破ろうとしたんだけどね破れないんだ。おじちゃん、これ破って中を見せてくれる?」
「はいはい、おじちゃんがやってやるよ」 30歳だからおじちゃんて呼ばれても、まあしゃーないか、と思いながら、そのビニール袋らしき物を受け取った。A4サイズくらいの大きさだ。
「どうしてこんなもんが破れないんだ? たかがビニールなのに」と思いながら引きちぎろうとしたが、
「うん?変だな」まったく破れない。「なんだ?これは?」
さらに力をいれたがビクともしない。
「おじちゃん、どうしたの?破れないの」
「ああ、破れない。変だな。ビニールじゃないのかも知れない。でも、見た感じも、触った感じもビニールそのものなのに・・、不思議だな」そのあとなん度引っ張っても同じことだった。
「ごめんね、どうしても破れないね。これ返すよ」
と言って子供に渡した。
「ふ~ん、おじさんに破れないんなら僕らに破れるはずないね」
と言い残して3人は走り出した。そして、途中でそのA4サイズくらいの黒いビニールのような不思議な物体を川に向かって放ってしまった。
「おいおい、捨てちゃだめじゃないか。ゴミになるだろ! しょうがないなあ」
その黒い物体は幸い、幸いと言っていいか分からないが土手の中腹に止まった。もうちょっとで川面だ。夏木は降りて拾おうとしたが、やめた。
「まあ、いいや。誰か拾うだろう」
きれいに雑草が刈り上げられた土手の斜面中腹に場違いな黒い物体が目障りだが、夏木はそれを後にして帰路を急いだ。
途中、スーパーによって好きな日本酒のつまみを買った。夜チビチビやりながら医学書を読むのだ。
「ただいま」 マンションに帰るといつものように母と由美子はすでに夕飯を始めていた。
由美子は近くで友人と共同でベーカリーを経営している。なので朝が早い。
自分も食卓につくと、由美子が、
「お兄さん、浮かない顔をしてどうしたの? なんかあったの?」
そんな表情してたかな、と思いながら今日あったこと話した。
「ふ~ん・・。それで悩んでたの。でも、嘘も方便って言うじゃないの、仕方ないわね」
「嘘も方便って、人の生き死にに関することだぞ、そんな軽々しく言うことじゃないぞ」
「そりゃそうだけど、その葛藤ってお医者さんの宿命でしょう。いちいち気にしてたら身が持たないわよ。その人、絶対に助からないの?」
「ああ、もっていいとこあと1週間だ。あした亡くなってもおかしくない」
「そうなの・・。うちのお父さんの場合は交通事故で即死だったから悲しむ暇もなかったわね。あ、ごめんなさい、よけいなことを言っちゃって。その家族気の毒ね。母さんどう思う?」
「そうね。私なら本当のことを言うわね。絶対に助からないんでしょう。助かると言われた子供にしてみればお父さんの死はものすごくショックだと思うわ。そして、お前は嘘つき医者ってその子の胸に刻まれるのよ」
言いにくいことをズバズバ言う母親だ。
「そうか・・。そうだよな。 やっぱりその子に本当のこと言ったほうがいいかな」 決心したようだ。
次の日、朝から小雨が降っていた。昨日と同じように堤防上の歩道を病院に向かって歩いているとあの黒い物体がまだそこにあった。
ちらっとそれを見て「誰も拾わなかったんだな」と思ったきり小雨の中を急ぎ足で病院に向かった。
白衣に着替えると、「よし!今日はあの子に本当のことを言おう。でも、どういうふうに切り出そうか・・」 気の利いた言葉が見つからない。重い足を引きずって松島さんの病室に向かった。
「おはようございます」 部屋に入ると子供はいなかった。
奥さんが疲れ切った顔で、「おはようございます」と返してきた。やつれた顔を見ると奥さんの体のほうも心配になってくる。
松島さんは弱弱しい寝息をたてながら眠っている。寝てるときは楽なんだろうと夏木は思いながら、
「ご主人の様子はどうですか?」
「はい、起きたり寝たりで、とくに変化はありません」
「そうですか・・。お子さんは今日はいないんですか?」
「ええ、謙治はおばあちゃんにあずかってもらってます。私は夫につきっきりであの子の食事など面倒をみれないものですから」
「そうですか」夏木はちょっとホっとした。でも、問題を先送りしただけだ。
夏木は寝ている松島さんの脈と血圧と体温を測った。結果バイタルは危機的数値だ。
「う~む、ホスピス病棟に移ってもらうか・・」奥さんに聞こえないように口の中で呟いた。
ホスピス病棟に移るということは死の宣告と同じなのだ。医者がサジを投げたってことだ。
ホスピス病棟では患者は自由に過ごしていい、タバコも吸っていい。これを告げるのも医者としては辛い。
「う~む、もう少し様子を見てみよう」 これもまた先送り。
「失礼します」 看護師が入って来た。「夏木先生、院長がお呼びです」
「そうですか。すぐ行きます」
奥さんの顔をじっと見て、「奥さんも少しは休んだほうがいいですよ。そうとう疲れてるようですね」
と言って病室を後にした。
コンコン、ドアをノックし、「夏木です」
「入りたまえ」
夏木が入ると、院長が、
「ま、かけたまえ。実は、君に分院に行ってもらいたいんだ」
「転勤ですか?」
「ま、そうだ。山陰の島根県江津市だ。どうかね?」
「はあ・・。」 夏木は転勤はいやではなかった。それどころか、辺鄙な山の中でも絶海の孤島でもそこに患者がいれば行くのが医者の使命だと考えている。しかし、まだそんな所へ行ったことがないから、そこでの苦労も分からずのんきに思ってるだけかもしれないが・・。でも、その心意気は褒められていいだろう。
「山陰・・、島根・・。島根と言えば出雲とか松江、それに、浜田くらいは知っていますが、”ごうつ”というのは、ちょっと知りませんね。ま、後でしらべてみます」
「あと、世界遺産の石見銀山があるぞ」
「へ~、そうですか。世界遺産ですか・・。あ、思い出しました。安来市がありましたね。安来節の。それに山陰の小京都津和野もありました。それと、最近ではべた踏み坂が有名ですよ」
「べた踏み坂? なんだそれ?」
「望遠レンズのいたずらで、松江市にある橋なんですが、その橋とても車が登れそうにない急こう配に見えるんです」
「へえ~。なんだ、いろいろ詳しいじゃないか。その島根県に行ってくれるかね?」
「はい、行くのはぜんぜんかまいません。何の問題もありません」
「お~!承諾してくれるか!よかった、ありがとう。あちらで住むマンションも分院が用意してくれてるから何の心配もいらない。行く日は君が決めてくれ。早い方がいいが、君にも都合があるだろうからね」
「はい、分かりました。4~5日以内に行けるようにします」
知らない町に行くのは不安もあるが、それ以上に楽しみな部分もある。前向きな性格は夏木の長所といえる。
夏木は院長室を出て、いつものように患者を診た。そして、その日の最後の患者を診終わって帰り支度をしてる時に急患が救急車で運ばれて来た。病院内が急にあわただしくなり、夏木もその対応に追われ、帰路についたのは20時頃だ。
外は朝より雨が強くなっていて、夏木は舌打ちをしたが、徒歩通勤は自分が選んだのだから仕方ない。
「やれやれ、やっぱり車で通勤するかな・・。転勤するんだからそれも必要ないか。なにより車より健康のためには歩いたほうがいいし、なんたって病院ではほとんど座りっぱなしだからな・・」
ぶつぶつ呟きながら雨の中、小走りに外に出た。
堤防の上の歩道を傘をさしてとぼとぼ歩いていると、あのA4サイズの黒い物体がまだそこにあった。街頭に照らされてハッキリ見える。横目でそれを見ながら、
「まだあったのか。しかし、不思議だな。見た目ビニールなのにまったく破れないなんて、何でできてるんだろ?どっかのメーカーの新素材かな?」
独り言をつぶやきながら4~5メートル進んだところでピタリと止まった。
「そんな不思議なビニール袋なんだから、中にはもっと不思議などこかの会社の新製品が入っているかも知れない」
俄然興味がわいてきた。それを拾うと決めた。幸い堤防の上のこの歩道には前後、誰もいない。傘を歩道に置いて、すべりやすい雑草が覆っている斜面をおそるおそる降りて行った、そして、それをやっとのことで拾った。全身ずぶ濡れだ。
「あ~あ、ズボンが汚れてしまった」
そして、その不思議な物体を小脇に抱え急いでマンションに向かった。
つづく




