第4章 ― 音なき誘導
旧校舎、三階。
神代まどかは図書保管室から一歩ずつ後退しながら、目の前で消えた“誰か”の残像を思い返していた。
「……思い出さなくて、いいのかい?」
あの言葉が頭から離れなかった。自分には何も忘れている記憶などないはずだ。
過去にこの旧校舎で何かを体験した記憶は、確かに――ない。少なくとも、今は。
階段を下りる。今は四階から三階へ。
天井の高さが違う。廊下の幅も、床板の軋み方も。
この校舎は、階によってまるで違う建物のように空気が変わる。
二階に着いたとき、誰かが渡り廊下を歩いていくのが見えた。
音楽室のある東棟ではない。西棟へとつながる渡り廊下だった。
「……誰?」
まどかは、無意識のうちにその背中を追いかけていた。
西棟は、食堂や物置、購買の跡地がある場所だ。旧校舎が廃止されたあとも、一部の備品だけはここに移され、時折使われていたらしい。
まどかが渡り廊下を渡ると、ちょうどその人物――制服姿の男子生徒が、物置の扉を開けて中に入るのが見えた。
「ちょっと……待って!」
駆け足で追いかけると、しかし物置には誰もいなかった。
古びた机、いくつかの丸椅子、工具、掃除用具……誰かが身を隠せそうな場所はない。
だが、床を見てまどかは息を呑んだ。
灰色の粉が、まっすぐに引かれている。
まるで線を描くように、一直線。棚の奥で終わっていた。
その棚の背板――壁との隙間に、細い金属線のようなものが伸びている。
慎重に引き出すと、線は小さなぜんまい式のタイマー装置につながっていた。
「……なんなの、これ……」
小型の電子部品と、薄い金属ワイヤー、釘、バネ。
これらを組み合わせると――遠隔的に何かを作動させる仕組みが作れる。
「まさか、これで……殺せるの?」
そう思った瞬間、背後で「カタン」と物音がした。
振り返ると、工具棚から金属の杭が床に落ちていた。
そのとき、まどかの背筋を冷たいものが這った。
――これは「仕掛けの一部」だ。
誰かが、時間をかけてこの旧校舎内に殺人装置を“設置”している。
それも、「事故」に見えるように。
音楽室でのピアノの仕掛けと同じように。
きっとこの物置にも、あるいは別の場所にも、何かがある。
「……だったら、時間で作動する殺人なら、次も“事故”に見せかけるはず……」
そう考えているうちに、どこか遠くからチャイムが鳴った。
旧校舎のチャイムではない。本校舎の正規授業を知らせる音だ。
時間は――11時40分。
そしてまどかは気づいた。
音楽室の事故が発生したのが10時40分過ぎ。
その一時間後、次の“何か”が起こるとしたら――
「12時40分――!?」
その時刻を境に、次の殺人が起きる。
そう直感したまどかは、全速力で物置を飛び出した。
西棟から渡り廊下を走り、中央校舎へ。
階段を一気に三階まで駆け上がる。床がたわむ。手すりが鳴る。今、自分は三階にいる。
そして、その先――階段室の反対側から、誰かが現れた。
「……神代さん?」
三隅教員だった。息を切らしながら彼も三階へ上ってきたようだった。
「どこ行ってたんだよ……心配して探したんだぞ」
「三隅先生……音楽室の、件ですけど……あれ、事故じゃないです。たぶん、仕掛けです。次も、あります。12時40分です!」
「……は?」
「ぜんまい式のタイマーで、時間差で何かが起きるようにしてあるんです。物置に、それらしきものが……!」
三隅は困惑した顔で頭をかいた。
だが、その目はどこか――まどかの言葉を「すでに知っていた」ような色をしていた。
「神代さん……ひとまず落ち着こうか」
「先生……私、本当に――」
その瞬間、またチャイムが鳴った。今度は、12時ちょうどを知らせるものだった。
――次の殺人まで、残り40分。
そして、この旧校舎のどこかには、時限式の仕掛けが動き出している。