第3章 ― 動かないもの、動いたもの
東棟二階、音楽室。
血の匂いが、床板の木目にまで染みつくように広がっていた。
神代まどかは、すぐにスマートフォンを取り出し、教師控室へ通報した。
だが圏外だった。旧校舎内に張り巡らされた分厚い木材と金属の骨組みが、電波を塞いでいる。
職員室はすぐ隣の部屋――扉ひとつ隔てた先だ。
しかし、足が動かない。久我教員の倒れ方が、明らかに“自然”ではなかったからだ。
音楽室の内部は広く、古いグランドピアノが中央にある。
久我はそのすぐ脇――ピアノの蓋と壁のあいだ、まるで背中を押されて突っ込んだような位置に倒れていた。
「……これは、事故じゃない」
ピアノの天板の端に、血のついた跡があった。
そして、その向かいの壁には――小さな木のブロックが打ちつけられている。
「なにこれ……?」
壁の木材に、円形のくぼみ。そこに収まる形でブロックがくっついていた。
奇妙なのは、ピアノとの位置関係。角度を考えると、蓋が開いた拍子にこれが落ちて、久我教員の頭に当たった……と説明するには、少し不自然だ。
まどかはしゃがみ込み、ピアノの側面に触れた。
「……紐?」
ピアノの脚に、何か細いワイヤーのようなものが巻きついている。
そこから引っ張るようにして、天井へと伸び――やがて壁のブロックへとつながっていた。
「まさか、これ……仕掛け?」
急いで職員室へ駆け込み、呼び鈴を鳴らす。
他の教員たちが駆けつけ、数分後には通報がなされた。
やがて、保健室に搬送された久我由梨の死亡が確認された。
死因は後頭部への強打による脳挫傷。遺体は一見して事故に見えるが、ピアノの蓋が倒れた程度では、そこまでの衝撃にはならない。
「君が、最初に発見したんだね」
若い男性教員――三隅がまどかに問いかけた。
年齢は二十代後半。おとなしげで、いつも何かに気を使っているような印象の人物だ。
「彼女とは、さっきまで一緒に旧校舎を回っていて……急に姿が見えなくなったから、探しに来たんです」
「それは何時ごろ?」
「……たぶん、十時半前後です」
三隅はうなずき、手元のメモ帳に書き込んだ。
「他に、何か気になることは?」
まどかは少し迷い、**図書保管室で見た“少年”**のことを話すべきか考えた。
だが、結局やめた。あれは、自分の錯覚だったのかもしれない――と思い始めていたからだ。
それよりも気になったのは、あの手帳。
『三月六日:音楽室の椅子が倒れた。誰もいなかった。なのに。』
「……音楽室で、前にも“何か”が起きていたってこと?」
まどかはふたたび図書保管室へ向かった。
そこにあの手帳がまだ残されているかもしれないと思ったからだ。
階段を上がり、三階から四階へ。
木の手すりを握って登る自分の指が、いつもより強く力んでいるのがわかる。
廊下の突き当たり、図書保管室。
扉に手をかけ、ゆっくりと開ける。
そして、まどかはそこで――第二の異変を見た。
本棚の列と列のあいだに、誰かが立っていた。
制服姿。だが、顔が見えない。照明が切れていて、シルエットだけが浮かんでいる。
「あなたは――」
その人物は、一言だけ呟いた。
「……君は、本当に思い出さなくていいのかい?」
次の瞬間、その姿はスッと消えた。
まどかが棚の影に駆け込んだとき、そこには誰もいなかった。
確かに誰かがいた。足音もした。声も聞いた。
だがまた、それは“なかったこと”として空間が呑み込んでいく。
「この学校……」
この場所は、何かが狂っている。