第1章 ― 見下ろす階段
三月。冷え込む朝だった。
空は重たく濁り、雲の奥に太陽の存在だけがぼんやりと感じられる。冬の終わりの空気が、学舎にしつこく残っていた。
神代まどかは、旧校舎の階段をゆっくりと上がっていた。
ギシ、ギシ、と踏むたびに音を立てる。今、自分が三階にいることを、足音が確かに教えてくる。
「四階まで、あと一つ」
小さく呟いて見上げると、古びた木製の手すりに、指の形に見える古い汚れが浮かんでいる。誰かが、昔、ここに手をかけていた証。何度も、何度も。
足を止め、背後を振り返る。今登ってきた三階の廊下には誰もいない。
自分の存在だけが、この空間に浮いていた。
昨日、校内放送で呼び出された。
「来週からの準備にあたり、旧校舎に残されている備品の調査を行います。希望者は職員室まで」
好奇心だった。それだけの理由で名乗りを上げた。
誰かと組むのは面倒だったから、ひとりでやると申し出た。教師は少し渋ったが、結局認められた。
四階へと続く最後の階段を一段ずつ踏みしめながら、まどかは考える。
ここは、数年前まで実際に使われていた。今ではもう完全に閉鎖され、誰も近づかない“死んだ空間”とされているが――
「物音がする」と噂があった。
旧校舎の四階に着いた。
左右に廊下が伸びており、左手の突き当たりに理科準備室、右手には古い図書保管室がある。
足元の床板が一段だけ、他より色が濃い。雨漏りか、それとも血か。まどかは特に気にせず右側の廊下へ歩き出した。図書保管室から見る校庭は、いつも逆光で空が白い。
ドアノブをつかみ、ゆっくりと開ける。
そこには――
人がいた。
その存在は、完全に想定外だった。
図書保管室に背を向けて立っていたのは、男子学生のようだった。制服はきちんと着ていたが、襟元が少し緩んでいる。
「……誰?」
問いかけた声に、相手はゆっくりと振り返る。
しかし、返事はない。ただ、まどかの顔をまっすぐに見つめる。
「ここは立ち入り禁止区域だけど」
沈黙が続く。やがて、少年は小さく笑った。
「君は……覚えていないんだね」
その言葉の意味がわからず、まどかは眉をひそめた。
言いようのない違和感。
まるで彼は、最初からここにいることが自然であるかのように振る舞っていた。
「なにを――」
次の瞬間、図書室の奥で、カタンと物音がした。
棚の奥から何かが崩れ落ちたような音。その瞬間、まどかの中に警鐘が鳴る。
「そこに誰か……」
部屋の奥へ踏み出したとき、背後で扉が閉まった。
そして、鍵が――ゆっくりと、確かに――かけられた。
まどかは振り返る。
しかし、もうその少年の姿はなかった。