奇妙なバースデー
男は煙草に火をつけ、外の雨音に耳を傾けていた。
散らかった小さなアパートの一室、足のふみ場もないその部屋は、横になるベッドはあるものの、生活感という観点からみると全く破綻しているであろうと思われる。
彼は混沌とする机の上の書類から、一枚の手紙を探し当てた。
仕事の依頼である。
依頼主は、彼が学生のころからの友人で、人生の良きも悪きも共有してきた戦友といえるかもしれない。
依頼は、ある人物を探してほしいというものだった。この仕事ではよくある案件である。半年以上、家族の待つ家に帰らないという。
(こういう奴はどこにでもいるものだな)
さっそく彼はターゲットについて調べ始めた。
しばらくパソコンに向かい、喧嘩でも売っているかのように画面とにらみ合いを続けていたが、フーっと大きなため息をつくと、ライターで煙草に火を点けた。
「あいつ、面倒なもの持ってきたな」
男以外誰もいない部屋で、ぽつりと呟いた。そのターゲットは存在しないのである。
偽名か、はたまた全くのいたずらか、判断するには材料が足りないが、幸か不幸か、手がかりは依頼主の手紙にいくつか情報が記載されていた。
彼は煙草を、吸い殻で一杯の灰皿に突っ込むと、何年も使い込まれたであろうコートを掴み、玄関に向かっていった。
そこまで来てはっと気づいた彼は、今踏み越えてきた、ゴミといってもさしつかえないもので溢れかえった部屋を、目を細めて2度見渡したが、チッと舌打ちし、雨の降る午後の路地裏に出ていった。
依頼主によると、1つ目の手がかりは、繁華街の脇にある小洒落たカフェだった。
店はあいにくの天気だというのに繁盛していた。
彼は席につき、メニューも見ずにコーヒーを注文した。窓際の席だった。
どんよりとした喧騒を一枚のガラス越しに眺めていると、彼は唐突に、妙な違和感を覚えた。むしろ既視感というべきか、この映像を見たことがあるのだ。だが彼はその感覚の正体がわからない。
この店には来たことはないはずだ。しかし記憶の深い部分に、かすかに同じ景色が刻まれている。
「コーヒーをお持ちしました。他にご注文はございますか。」
若い女性の店員が、テーブルにカップをそっと置く。
「ありがとう。ちょっと聞きたいことがあるんだが。」
彼はターゲットのことを尋ねたが、ほとんど情報は得られなかった。
しかしながら、ひとつわかったことは、このカフェは去年の夏にオープンした、まだ新しい店だということだ。
コートのポケットに手を入れ、目当てのものを掴んだところで、〈No Smoking〉の文字が目に止まり、そのまま反対の手で頭を掻いてから、彼は席を立った。
男は歩道橋の真ん中で手すりに持たれかかり、2つ目の手がかりである一枚の写真を眺めていた。
その写真は10年以上前のもののように見えた。写っているのは3人の男である。
一人は白髪、もう一人は若く背が高い。そして3人目は頭髪が薄くなり始めた中年。
共通することは、彼らは全員、白衣を着ていることである。
後ろに写り込んでいる建物も、全容はわからないがおそらく病院であるということまでは予想できた。
この中にターゲットがいるのかはわからなかったが、男は写真に写る白髪の男に見覚えがあるような気がして、じっとここで写真を睨みつけていたのである。
だがもう少しのところで思い出せずにいた。
彼は何気なく写真の裏を見た。
かなり汚れてしまっているが、なにかテープのようなものが下の方に貼られていることに気づいた。男は丁寧にこれを剥がした。そこには病院の名前の走り書きがあった。
男は急に背筋を伸ばし、もう一度、写真の表を食い入るように見た。
この病院は、娘が生まれた病院だった。
その時、歩道橋の階段の方から、誰かの視線を感じた。
振り返るとそこには黒い傘をさした人間が、半身で階段に足を残した状態でこちらを向いている。傘のおかげで、何者かわからない。
男は反射的にその人影に向かって走った。すると、傘の人物も、階段下に向かって駆け出した。
男が階段の上まで来ると、もう黒い傘は、通りの人混みにまぎれていた。
ここからでも黒い傘は3つも確認できる。
男は濡れた写真をポケットに押し込み、ぼんやりと空を見るようにフラフラと階段を降りた。
3つ目の手がかりは日付だった。
しかもその日付は『今日』を指し示している。
男の足取りは重かった。しかし、行かなければならない。
依頼である、ということよりももっと、大事なものがそこにあるという責任感のようなものに突き動かされていた。
不安と期待で胸を押しつぶされそうになりながら、煙をふかし、暮れかけた街の路地を早足で進んでいく。雨は上がったが、暗い雲が街を包み込み、あちこちの窓からは明かりがぼうと覗いている。
男はろくに手入れしていない革靴が水たまりにダイブしていても気にも止めず歩いていたが、急に立ち止まった。
近くでは、奥様方が今日の夕飯の献立を発表しあっている会話が聞こえてきた。
別の方角では犬が建物の中から吠え立てる声が少し遠くに聞こえる。
男は持っていた煙草をひとふかしすると、見向きもせず水たまりに放り込んだ。
煙草が水面に触れるが早いか、男は駆け出した。すると騒々しい物音に近所の番犬たちが一斉にサイレンをならし始めた。
そんなにぎやかな夕刻の空間に、黒い影が、男が歩いてきた方角から飛び出してきた。
影は男が走り去っていった道を確認し、持っていた黒い傘を捨て、黙々と男の背中を追った。
またしても犬たちの合唱が始まり、夕飯の話題が終わり、夫を愚痴っていた主婦たちは、あまりの五月蝿さに解散を宣言した。
思い返してみれば、1つ目の手がかりである場所は十数年前に結婚披露宴を催した場所だ。そう男は思った。
今はカフェになって様変わりしているが、当時は知り合いがシェフを務めるレストランだった。
その時の光景が、あの既視感の招待だったのだ。
男は慣れた様子でスルスルと小道を抜け、ビルの隙間を猫のように進んでいった。
ある4階建ての建物の前まで来ると、男は一息し、外付けしてある階段を登っていった。
灰色の壁面をした、その建物を3階まで上がってくると扉があり、男は解錠して入っていった。
その部屋は、男が住むアパートの一室だったのである。部屋に入ると薄明かりが灯り、二人の人間が立っていた。男は無言で奥まで入っていった。
すると、慌ただしく今入ってきた扉が開き、息を切らしながら、こちらにいたずらっぽい笑みを向ける依頼主の友人が到着した。男は肩をすぼめて友人に挨拶したが、ゆっくりと、先に部屋にいた二人の人物に視線を向けた。
ぼんやりとした暖かい明かりは蝋燭によるものだとわかった。それはイチゴが5つも飾り付けられたケーキに刺さっており、そのケーキの皿を持っているのは半年以上も顔を見ていなかった娘と妻であった。
「あなた、お誕生日おめでとう。」
男は今までの人生の中で、一番の出来の笑顔を作って応えた。
初投稿です。
評価、感想いただけると嬉しいです。