健全な特別
太宰治に友達が出来ていたら、死なずに済んだかもしれないな、というお話です。
ハートフルな再生の物語が好きな人は是非。
「恥の多い人生を送ってきました」という出だしにするか随分悩んだ。恥を自分で認められることはある意味人間的な強さの証明でもあるように思われ、それが強さでもなんでもなく真のあきらめから来る自己開示であることを、どうやって表現すればよいのか。話を一通り書き終わった後でさえも、そこのところを表現できているか、結局最後まで自信が持てなかったのである。 それでも自分はその出だしを残した。本として出版する話が決定してからも、折に触れてそれがなぜだったかを考えてみていたのだが「その方が作品として優れていると思えたから」という結論しか、何度自問自答しても出ず、焦った。結局自分は面白いものが書けると示したいという競争心があるということなのだろうか?しかもその承認欲求のせいで、強さ自慢ともとられかねない言葉を書いてしまったのかもしれなかった。もう小説の原稿は渡してしまったというのに、取り返しのつかないことをしてしまったような気持ちが次第に強まっていった。 あの作品を自分の遺作にするか、それとも自分というものを洗いざらい出してしまうことで、人生のやり直しのきっかけとなる作品にするか、実のところ書いている間は自分でも決めかねていた。 しかし現に小説を書き終えた今も、こんな些細で、ほぼ自己満足にしかならないことを考え続けてしまっている時点で、自分にはやはり「生きる才能」はなかったということだろう。それにしても、生きる才能なんて、小説でものを食べている人間にしては、使い古されていそうな表現だよなあ。 神経を鈍らせるために、無性に酒が欲しくなる。 無計画に身支度を一通り済ませ、ぶらりと外に出る。いつの間にかもう夕刻で、夜の時間を楽しむぞという気合に満ちた男たちが点いたばかりの街灯の下を行きかっており、自分にはそれが普通の男の象徴であるかのように感じられて、息苦しかった。 散漫とどの店にするかを考え、なんの気の迷いか以前編集者に連れていかれた大衆居酒屋にいこうとゆるゆると足を向けた。自分が本当に社会に不適合な人間なのか、おみくじを引くような気持ちだったのかもしれない。 すでにほどほどに飲んでいるような体を装いながら店に入り、右から2番目のカウンター席に座る。おしぼりを持ってきた店員に、ほぼメニューを指さすことで日本酒1合と魚の煮つけを注文した。 しばらくして突き出しとともにぞんざいに卓上に置かれた日本酒を飲んでいると、どうしても他の酒飲みたちが視界の脇に入る。また、聞きたいとそう思っているわけでもないのだが、ああいう人間はやたらと大声で話すので、声も耳に入ってきてしまうものだ。 ぐい飲みに唇をあててアルコールの刺激をぼおっと感じながら、聞くとはなしに店内に鳴り響いている話を聞いていると、自分とそういう人間の圧倒的な生命力の差に愕然としてしまう。怒りや悲しみや欲望、そして笑い声。自分の周りはそういう、せいを謳歌している人間で満ち溢れており、自分のようなものは生き物としての席を誰かに譲るべきであるように思われた。 ここにいるような人間に自分の小説は決して理解できないのだろう。そして、このような大衆居酒屋に理解者がみあたらないなら、社会のどれだけの人間が自分の小説で多少なりとも楽しい時が過ごせるというのだ。そう思うと自虐的な笑みがこぼれた。 いや、理解ができないことを、見世物小屋のように楽しまれているのかもしれない。だから自分の小説は売れないというほどでもないのだろう。きっとそうだ。 紗代、、、 驚くべきことなのか、世の中というのはうまくできているというべきなのか、僕には彼女がいた。 自分には到底理解の及ばぬぞんざいさを見せつけられた僕は、女々しく数日前にも会った交際相手のことを懐かしんだ。 もちろんあいつらとは全く違うが、自分ともやはりどこかが違う生き物。しかし彼女はその比較的小さな違いがあることにも我慢ならないようで、僕の話を聞くときはしばしば、無理やり得心がいったというそぶりをしているようだった。 彼女には、そういうところも含めて感謝している。僕と彼女は、僕の人生には珍しいような、人間的なかかわりと呼べるものを持っている。こんな居酒屋に来る人間には、きっと僕らのように配慮にあふれた関係は育めないに違いない。、、、なんだ、結局自分はプライドが高いんじゃないか。自分が好きなのか馬鹿。 ただ、もし自分が実は自分大好き人間だったとしても、どうしようもなく身体が重いことに変わりはない。 もはや自分が好きだから死にたいのか、嫌いだから死にたいのか、自分でもわからない。自己肯定も自己否定も、結局自分は特殊で、だから疲れすぎるのだという苦痛にしかつながらなかった。 紗代もこの疲れに同調してくれ、死ぬ、という単語こそ出さないまでも、ただ少なくとも2人はもう長生きはしないのだろう、という消極的なコンセンサスがとれていたと思う。 人間失格を書き上げて、その消去法的な人生の選択が、よしやはりそれしかなかったのだ、という確認作業を終えて自分の中で明確な路線となっていた。 そう決めてしまえば考えるべきことが少しは減ったはずなのに、全く頭がスッキリとした感じがしなかった。長らく延々と否定的なことを考えているうちに、処理の残滓のようなものが次第にたまっていき、もはや脳にかかっている負荷が常に限界を超えているようなものなのかもしれなかった。 そんなことをぼんやりと考えていると、横で無遠慮に椅子をひく音がした。反射的に目を向けると、彫りの深い顔をした40代くらいの男が、右手でカウンターの椅子をひきながら左肩にかけていた革のバッグを下ろすところだった。男の動きはなんというか軽やかで、椅子に座るついでといった調子で、10年以来の知己に話しかけるように店員にビールを注文する。 そしてなにかの様子を確認するように、背をそらせて店の中をぐるりと見渡した後、お盆を持った店員からおしぼりを笑顔で受け取っていた。 その男のそぶりを、物音がした茂みをしばらく見つめるような気分で見ていると、常にどこか周りを見ているような男と目が合った。 自分が眺めていた時間が長かったこともあり、目が合ったことは自分に非があるように思われて言い訳かのように会釈をすると、おしぼりを2つ折りにしつつ男は笑顔でどうもと返してきた。 その笑顔をみると何故か目をそらす方が不自然かのように思われたが、今までの人生で培われた自己満足に近い気づかいが瞬時に働き、僕は酒に集中しなおすようなそぶりで向き直ろうとし、、、その途中で男の声でもう一度目を合わせざるを得なくなった。 「お兄さん、女にもてそうだね」 「は、はあ、、」 どうも、と付け加えるべきなのかどうかすらわからず、とっぴな男の発言に間の抜けた音だけを返した。 すると男は一拍間をあけ僕のことを見据えた後なんと、良ければ一緒に飲もう、と言ってきた。唐突すぎる提案だ、少なくとも自分のような男からすれば。 「いえ、、」 自分では全く賛成したつもりはなかったのだが、確かに断るぞときっぱり心の中で思っていたわけでもないのはそうであって、それが表情にも出ていたのかもしれなかった。自分が真に警戒するのは継続的な関係であって、一夜の気の迷いのようなことは通常の人間よりもどこか求めている節があることを、常々救いようのないことのように感じていた。 「おう」 男は佐原と名乗りながら、さっそくといった感じでおしぼりとカバンをそれぞれ持ち、席を一つとなりに移って僕の真横に座り直した。なぜか嬉し気であるようなのは気のせいか。彼は背の高い男で、かつ引き締まった実用的な肉体をしているだろうことが袖口をたくし上げた腕から感じられ、自分のような消え入りそうな男には全く与えられるものがなさそうに見えた。 「やっぱもてそうな顔してんなあ」 「そんなことは、全然」 「え、じゃあ彼女いないの?」 「それは、、」 「やっぱいんじゃねえかよ!」 彼はそういいながら大仰に目をむき身を乗り出してきた後、満足げにわははと笑った。 「そうだろうよ、だって、物憂げ~だもんなお兄さん」 「物憂げな表情をしていたら、ほんとに元の顔まで物憂げになっちまった、って感じの顔だ」 「お、これはいい表現なんじゃねえか。なあお兄さん、自分でもそう思うだろ?」 ぺらぺらと本当に初対面か疑わしくなる話題を繰り広げる男、、、佐原さんに何も返せない。頭は鈍く回っており、確かに、という結論を出しているのだが、極度の疲れからというべきか、実際に口を動かそうという気にはならなかった。代わりに、頷きにも見えるような中途半端な動きをしつつ、日本酒を一口含んだ。 「繊細で、自分は特別って感じで傷ついてる男のことを、わかってやりたいっていう女は多いもんさ」 「お兄さんみて俺、ぴーんときたんだよね」 こんな無遠慮なことを、彼はさも楽し気に話す。デリカシーがないという見方もできたが、少なくとも今の自分には、彼が自分という人間を勝手に材料にして楽しい時間を過ごしているように見えることが、気楽で、またなんだかうれしかった。 店員の声が後ろから聞こえ、彼が先ほど頼んでいたビールと、お通しの枝豆が入った卯の花をテーブルに置いた。どうもね、と言いながら彼はそれらを自分の好ましい位置に置きなおし、とりあえずお刺身盛合せと鳥皮ポン酢、あと鯛の釜めしねと注文を滑り込ませた。こちらを向き、好きだよな?と念押しのように聞いてきたのでほぼ反射的に好きだとだけ返した。 だそうだよ、という感じで彼は店員に笑顔で向き直り、メモを取りつつ去っていく店員を少しの間見送っていた。 彼は僕にとって、リズミカルなBGMのような存在に映った。こちらが何をしなくても楽しそうにしていてくれるし、意識を彼に向ければ自分の陰鬱な気分を多少なりとも紛らわせることができた。 「あ、おれこういうもの」 佐原さんはわざわざ名刺を渡してきた。名前だけでも十分すぎる情報だと思っていた僕だが、彼のトークの影響か、自然と体が動き名刺を受け取った。 そして、名刺に書かれた職業が目に入った僕は、少し驚いた。 「出版社、、、」 なじみ深いその名前をみてまた一気に体が重くなる。なんだか楽しいことが起こる予感がしていた時間が嘘のように、こんなときまで仕事の、人間失格の話になるかもしれないことを恨めしく思った。 自意識過剰だぞ、と自分に言い聞かせても、その可能性がゼロではないこと自体に耐えがたい苦痛を感じてしまう。 彼はビールを豪快に飲み下している最中で、僕のそのつぶやきが聞こえてはいるようだったが、ちらとこちらに目を向け肯定を一度示した以外は、彼の神経はビールに集中しているようだった。 一度にジョッキの半分以上を飲み、彼が悠々とジョッキを卓上にごとりと置いたときには、もうこの話題は好都合にも終わったのかとさえ思ったのだが、炭酸の刺激に快感を感じているような表情を浮かべながら彼はまたしゃべり始めた。 「お、そうなんだよ、出版社」 「学がねえのに入っちまったもんだから大変でよお」 「お兄さんみたいな人はずっと文学読んでんだろー。参考にさせてくれよ、な」 「あ!そういや名前は?」 的外れなことを少しでも言えばいいのに、この男のいうことはいきなり核心をついてくるようなところがある。 ここまで来ても体は答えることを拒否したが、言わないわけにもいかないと、なぜかその時思った。はぐらかすのにも元気がいるものだ。 ぽつりと太宰と名乗ると、彼は瞬時に確信を得たように、あんたが太宰治かよ!と断定してきた。 一応は僕の反応を確認したようだったが、すぐに彼は、はあ~、と感嘆か何かの声を出しながら、頭を切り替えたらしかった。 「人間失格は会社の中でも話題になってんよ」 「そっか、へえ、すげえわ。大仕事だったなそりゃ」 彼は頷き、またビールをぐびりぐびりと飲んだ。 彼の醸し出す、これはもうおしまい、という雰囲気と、彼が作品について言ったコメントを全く不快と思わなかったことに、なんだか力がふっと緩んだ。 僕はもはや何を言われても疲れてしまう呪いにかかっているのかと思っていたのだが、そうでもなかったようなのだ。 今度は割とはっきりとどうもと返して、拍子抜けした顔で日本酒を口に含んでいると、彼は、俺は場違いってわかってたんだけど入ってみたわけよ、という調子で話題を彼自身のものに繋げた。 「3年前くらいまでは、農家だったんだわ俺」 「実家がそうだったんでね。いいよ、農家は」 「次男坊だったこともあって、15、6までは、将来の夢だとか全く真面目に考えないまま過ごした」 ところがだよ、と彼は座り直すことで若干身を乗り出し、こちらの興を誘いたいように見えた。その姿に一瞬、ここしばらくは疲れと諦めからなりを潜めていた自分の道化の精神に近いものを感じた気がしたが、それについての考えを進める前に彼がまた話始めた。 「年の離れた兄貴が昔、自殺してさあ。実家の農場は兄貴がつぐんだって思ってたからそっからてんやわんやよ」 「でも、そん時そういう俺たちの姿を牛や鶏たちがすげえ不思議そうに見てるような気がしたんだよね」 「動物たちが、そりゃもう賢者に見えたよ」 「だけど、いいか悪いか知らんけど、おれはやっぱ人間だからさ」 「もっと納得しくなったんだよ。この世の生き死にとかそういうことについて」 だからこの年でこんな業界に飛び込んでみたってわけ、と重大なはずの話を一気に話終えた彼はグビグビと僕にも聞こえてくるくらいの音を立てて、ビールを堪能していた。 「それで、出版社に、、、」 初対面で話す内容とは到底思えなかったが、僕は本当に自分勝手に、僕が先ほど 『暴かれた』内容と同じ程度の重さのものを提供してもらったように感じていた。一方的に秘密を共有したような不合理なうれしさを感じたものの、そのうれしさを間違えても漏らすわけにもいかなかったし、お悔やみなどの踏み込んだことを言えるほどの関係でもないように思われたので、どちらにせよ二の句が継げなかった 「実は今日ここに来たのも、仕事のためのお勉強っていうの?」 「どういうものを人間が求めてるもんかってのをこういうところでも考えてみようと思ってよ 。で今これ」 そういうと彼はにやりとしてこちらを振り返った。僕に会った自分の幸運を誇るように。 「文学読むような人間が、何を求めてるか俺に教えてくれよ」 彼はなぜかそれからは、最近のラジオに出ている誰それの話し方がどうだの、こだわりを持っている料理屋が最近減っただのという世間話を延々と話していた。さっきの話題と順序が逆だという感じもしたが、僕はその雑談に最初よりも格段に相槌を打ったり思ったままの感想を言ったりするようになっていたのだった。 最後にやっと出てきた釜めしを2人で平らげていると、彼が手帳のページを破って連絡先を渡してきた。 「また話そうぜ。色々と相談もしたい」 「そうだね」 僕が最初に頼んでいた料理を結局彼が食べることはなかったなと、帰り支度を済ませ椅子をカウンターの下に軽く押し込んでいるときに、ふと気づいた。 彼とは店の前で別れ、ただ酔いと戯れながらぶらりと道を歩いた。自宅につき、敷きっぱなしにしていた布団にごろりと寝転ぶ。 佐原さんは本当に自分といることが楽しいのだろうか。 酒で気が大きくなっているのか、やはり彼と自分はどこかが似ている、と思う。おそらく、頼まれてもいないのに他人にサービスをするようなところがだ。ただ、僕はそれを人を恐れるが故自衛のためにやっていたわけだが、彼はどうにも本人もそれを楽しんでいるように見えることを思うと、自分とは似て非なる貴さを感じるのであった。 また、彼の雑談は全てしょうもないものだったが、発想が新鮮で、どこか視点の高さを感じさせた。誰も傷つけない話題を楽し気に話し続ける彼に、いつからか自然な微笑みさえ浮かべていたかもしれないと今更気づいて、はっとする。 彼は頭も回り、健康で、自己開示ができる。 そして、きっと僕にまた会いたいと思ってくれている。 そんなことを考えているうちに、肉体の疲れがじわじわと体を支配していき、いつの間にか眠っていた。頭の疲れではなく、肉体の疲れを認識できたのは、久しぶりのことだったかもしれない。 数日後、期待と不安と半信半疑との気持ちを持て余して早めに約束の飲み屋に入って待っていると、当たり前のように佐原さんが到着した。 彼は早えなあと笑った後、酔う前にざっと読んでみてやと言って、僕の前に原稿用紙の束を置いた。 この彼の話の早さというか、行動の軽やかさをまた思い出し、それをうれしく思う。 そういえばまだ佐原さんが出版社で何を書いているかは聞いていなかったな、と思ったがとりあえず原稿を読んでいくと、文学雑誌のコラムのようなものだとわかった。そこには、僕の見知った作家について、こういう人はこの人の作品を読んだ方がいいだの、この作家はこれからこういう作品を書くのではないかという期待だのといった、一風変わった内容が書かれていた。 「面白いよ」 原稿を下ろしつつ、さてどういうことを言おうかと思案した僕は、とりあえず率直な感想を述べた。これは本心で、分析というよりは発展性を探る彼の前向きなスタンスと、確かに知識不足の感は否めないものの、だからこそ自由で、存外的を射た議論を個人的に楽しんで読むことができていた。 そして、本当か!と分かりやすくうれしそうな顔をした後の彼の、それで?という雰囲気から、何が求められているかを頭をフル回転して考えてみた。 「大したことじゃないんだけどね、文章を読ませるってことは結構リズムだったりするから。例えばここ。短い文章が連続しすぎてる感じがしない?しかも文末がだだだの連続。ここで読者は、読み応えみたいなものを一気に失っちゃうんじゃないかなあ」 「あとは、全体から見たときの、話題ごとの文章の配分量とか。文章量が多いほどいいたいことなんじゃないかって、多くの場合多くの人が思うものだから。確かにこの作品は彼の今までの路線をアンチテーゼとすることで彼の思想を浮き彫りにするという意図があって書かれたものだと僕も思ってるけど、アンチテーゼっていう単語だけ書くと、読者は読み飛ばしてしまいかねない。折角核心をついてるんだから、具体的な引用とかで対比構造を示して、ちゃんと強調した方がいい」 彼はしきりになるほど、すげえと言葉を連発し、赤字で原稿用紙にメモを取っていた。留や払いのはっきりした、豪快な字だなあなんてことを思った。 本当は、コラムには従来こういう内容よりも、ある文学派の立場にたっての一方的な批判が繰り広げられるものだということを言った方がよかったのかもしれないし、彼が僕に求めていたものも、そういう種類のものだったのかもしれなかった。しかし、求められたものを差し出さないという積極的な決断を僕はしたのかもしれなくて、その僕にしては大胆ともいうべき行動を自分で不思議に思った。 佐原さんは一通り満足したのか原稿とペンをしまい、通り過ぎようとした店員を呼び止め、ビールを注文した。それが今日の雑談の始まる合図となった。 「いややっぱ、作家ってすげえもんだと思ったわ」 帰り際彼は上機嫌で、僕は安心することができた。彼のさすがの雑談で気持ちの緩んでいた僕は、謙遜などではなく軽い照れたそぶりでそれを受け流した。 「でも、もっと根本から変えようって話でもよかったんだぜ」 僕は一瞬その言葉にドキリとしたが、「佐原さんの書きたいものは面白いよ」というセリフが瞬間的に口をついて出ていた。 人生における好き嫌いで、好きを圧倒的に感じることのなかった僕は、その自分の反応で初めて明確な好きを自覚したのであった。 佐原さんの書きたいものが雑誌に載ればいいという、積極的な自我。 彼は少し驚いた後照れながらおうと返し、次はおかげでもっと面白いですよ先生、と軽くおちゃらけながら返してきた。 僕はこれが一度きりの会にならなかったことに、ただ心から安堵していた。 それから、原稿についてまず議論し、そこから佐原さんの雑談を聞きながら飲むという会が定着していった。 彼はそのたび、もっと根本的に直してくれてもいいからな、と何度も伝えてきたが、彼の言いたいこと自体は崩したくなかった。彼の健全なエネルギーは、新しい視点を文学界にも与えてくれるようにも思った。 だた、もっと作家らしいアドバイスを期待されているのだろうと勝手に心配した僕は、時間を見つけて今までの文学の潮流の変遷をまとめて、それについての自分の分析を書いたものを彼に渡したりもした。 彼はそれを受け取るとひええと慄くふりをしたあと、まだよく中身を見てもいないのに、笑いながら今日は俺がおごるわと言ってきた。 そうこうしているうち、次第に僕の中の、作家としての利用価値がなくなれば佐原さんは離れて行ってしまうのではないか、という、女々しいとしか言えない感情は薄れてきていた。 ある日、象徴的な出来事が起こった。 折角のつながりがある場所であり、流れで飲み屋に向かいやすいことから、いつの間にか僕たちは出版社で話すことも多くなっていた。 その日も応接間で佐原さんが書いた原稿を読み、構成や表現について議論に花を咲かせていると背後から突然、太宰さんですか、とか細く震える声がした。 「毎回作品は拝見しています、、、あ、最近小説を持ち込み始めました奥田と申します!」 「やはり先生の作品の根幹というのは、人間の脆さを慈しむということなのではないかと個人的に思っておりまして、、、!」 完全に舞い上がり、こちらの都合を度外視して話し出す彼をみて、本当に佐原さんに申し訳ない気持ちになる。 実のところ僕には狂信的なファンというものがいた。ただそれがやりがいというものとはうまく接続していなかった。いや、むしろ僕の体についている重りの一部だったと言った方がよい。 「ありがとうございます、ただ、、、」 「先生が以前取り上げられた、貴族階級の没落というテーマですけれどもっ」 「実は私の家系がちょうどそうでして、あの時は本当に自分たちのことを書いていただいたのではないかと思い、先生が書かれていた貴族の美意識を私も体現したいと思い、小説家の道を志して、、、!」 「あ、、、」 最も苦手なパターンであった。好きや嫌いまでならいいのだが、勝手に僕の作品から的外れな啓示を読み解く人がいて、僕がその人の人生の責任を負わされることは耐え難かった。 「先生の思想である、体制の問題に内面のありようで抗うという考えに、それが一番合っているのではないかと思っているのですが、それで大丈夫でしょうか?」 僕はもはや何も言えなくなっていた。この場は早く収めないといけないと思うのだが、その場しのぎに大丈夫だと言う度胸も、うるさいと一蹴できる強い自我もなかった。 それでも何か言わねばと、ああだのええだのという有耶無耶な返答でもしようと体を奮い立たせようとした瞬間、向かいに座っていた佐原さんが立ち上がった。 「人生と小説をごっちゃにするんじゃねえよ。たかが小説だろうが!自分の体験で、自分の心に聞けつってんだ!!」 佐原さんの叱咤に、瞬時に場が静まり返る。持ち込みの彼などは口も開いていた。 それを僕の前で言ってしまうのか。彼のデリカシーのない、矛盾しているようで説得力にあふれたセリフに、あっけにとられた後思わず笑ってしまう。 「そうだよ、好きなようにしなさい」 だが、彼の一薙ぎで完全に一転させられた空気の中で、僕は自然と無責任なアドバイスができたのであった。 奥田という男はそそくさと去っていったが、やはり一応謝っておこうと思い佐原さんにごめんと伝えると、別にだろ、と言って彼はすぐに自分の原稿に集中しなおしていた。 この日から、彼は僕に作家を求めているのではなく、作家になることを求めた僕の結果を求めているのかもしれないと思うようになった。 彼は勝手に僕のあれこれを分析して楽しむようなところがあったが、実際に人のプライバシーに踏み込んでくるようなことはほぼなかった。 代わりに彼は、自分のことについてはざっくばらんに僕に話してくれ、最近は自分の女性関係についてまで相談をしてくれるようになっていた。 「俺の連れが気の強い女でさ」 「でも気のつええ女ってのは、割かし繊細なもんなんだな。最近やっとそれがわかってきたわ」 「そういう人も多いかもしれないですね」 珍しく彼は僕の日本酒を分けてくれるかと頼んできた。彼がビール以外のものを飲んでいる姿を見たことがなく意外に思ったが、すぐにおちょこをもう一つ持ってきてもらい2人で飲み始めると、みるみる彼の顔や体までが真っ赤になっていくことが可笑しかった。 聞けば奥さんと喧嘩中なのだという。 佐原さんが女性に接待をしてもらう飲食店でもらった名刺を、良かれと思ってテーブルに置いていたことが原因だそうだ。 「いつもはそういうとこ行ったって直接いうんだけど、忙しかったからよ」 「変に怒って問い詰めてくる女房に『報告だよ!』って返したらなぜかさらにめちゃくちゃ切れられてさ」 「誤解はすぐ解けたみたいなんだがよ、そこから『わざわざそんな報告をしてもらわんでもよろしい』みたいなこと言ってずっと不機嫌なんだよ。いや今まで報告してたのなんだったんだよ、みたいな感じだわ」 なんともかわいらしい話だった。目に見えて彼に酔いが回り、呂律も少し舌足らずのようになっていることも愛しさに拍車をかけ、自分に人を慈しむ心が備わっていたことに僕は静かに感動していた。 「たぶん、一度でも佐原さんを疑ってしまった自分に、自信がないように思われるのが嫌なんじゃないかな」 「だから、佐原さんが報告すること自体、お節介だってことにしてしまいたかった」 彼は、あ~と分かっているようないないような声をあげて、さすがオサムわかってるな~と大げさに感動した後、さらに日本酒を多めに煽った。 「女房の尻の感触が恋しいわ」 全く予想をしていなかった、唐突な彼のつぶやきに吹きだす。 「オサムも好きだろうが、尻」 せき込む僕に追い打ちをかけてくる彼に、せきが終わったらなんと返せばいいのか、と混乱した頭を空転させるがなにも出てこない。 「好き、、、」 「ほらな!」 とりあえず返した言葉に鬼の首をとったように喜ぶ彼。そういう話でもない気もしたが、まあ言わずにおくことにしようと思った。 そこから彼の「尻がいかに人を和ませるか」というトークを延々と聞かされ、最終的に僕は彼と同等の尻好きにさせられてしまった。 「やっぱ尻ってすげえわ~」 仲間を得て極めて満足そうな彼に、本当に、と返す。 どちらかというと胸だが、という一言を加えなかったことが、その日、不思議なほど心残りとなった。 彼と会わない日は退屈であった。もう書かないだろう思っていた小説の案をなんとなく書き留めてみることはあったが、自宅での時間の多くは、彼との会話のことを考えて過ごしていたように思う。 訳知り顔で他人の恋愛相談に乗っていた自分を思い返すと、なんだか自分の恋愛についての見通しもたててみたくなって、紗代のことを考えた。半分自分の運命に同化してしまっている彼女だったが、馬鹿みたいに今更、それでいいのかと思えた。 この2人みたいに阿保みたいな喧嘩ができる関係が、ひどく健康的なものに思われたのだった。 そして、ある日僕は意を決して、昼食をつくりに下宿を訪れてくれた紗代に伝えた。 「本当は、大根の漬物苦手なんだ」 「え、そうなの」 紗代が僕によく大根の漬物を出してくるのは、僕が以前書いたある小説の登場人物の好物が大根の漬物だからだ。そして一部の熱狂的な読者の間で、それが太宰治本人をモチーフに書かれたものではないかと噂されていたのであった。だから、紗代が大根の漬物を僕に出してくることは自分を理解していることを示すための儀式なのだ。 もっと落ち込まれるものとばかり思っていたが、多少気まずそうにした後彼女は、ごめんねよく出してて、と言って自分の食卓の中に僕の小皿を加えた。 「悪いのはこっちだから。今更こんなこと言ってごめん」 「なんだか、言いたいことをもう少し言い合うようになりたくて」 「そう、なんだ」 今のところ彼女に負の感情は、ほぼない。 清水の舞台から飛び降りるとはこのことかというくらいもうどうにでもなれという気持ちで、何度も頭で復唱したセリフをさらに付け加えた。 「ちなみに、僕が小説に行き詰ったとき、お茶を差し入れてくれるよりも、胸をもませてくれる方がありがたいな」 よく噛まずに言えた、と自分をほめ続け、あまりの恥ずかしさに口元を隠し横を向いていると、彼女が吹き出す音が聞こえ、すべてが弛緩した。 「あはは、それも気づかずにごめんね!」 「なんか、うれしいかも」 数日後にまた飲んだのだが、まだ佐原と奥さんはギクシャクしているのだそうだ。 内心、させておけ、と気楽にニヤニヤしていたが、とりあえず何かをアドバイスしたいという気持ちもあった。 そこで僕は、そういう時はサプライズだ、と会ったこともない女性への対応方法を自信満々に示してみた。実のところ自信があるというよりは無責任なだけだったのだが、彼らの関係がちょっとやそっと下手なサプライズをしただけで壊れたりはしないだろうということへの信頼感があった。そこまでわかっていても、自信満々に言っているうちに本当に自信がわいてくるように感じることが不思議だった。 すると彼はじいっと僕を見つめ、言わんとすることを探しながら喋っています、といった様子で僕に伝えた。 「お前、生まれてきたことに逆切れしてるみたいな雰囲気、なくなったよな」 この男の表現は、毎度7割がたあたっている。なんだか違うようにも思える部分がある、つまり表現は粗いのだが、言わんとする方向性だけは間違えているのを見たことがなかった。そして自分にはそういう雑な部分までもが、極めて心地よかったのだった。 もし、自分が周囲から見てもそういう変化があるとしたなら、佐原と出会ったからだというのは明らかだった。 「そうかもしれない」 そういって僕は佐原に負けないような笑顔を返した。 こうやってしっかりと生きて、佐原のように紗代のことを楽しませたいと思ったのだった。 「最近太宰さんとお話ししやすくて助かります」 「これからも、よろしくお願いしますね。」 僕は次の作品の草案を見せるために出版社に出向いていた。そう言って原稿用紙を机で整え、朗らかに去っていく編集長の姿を見送る。 一人応接間のソファに残った僕は、これからも、という編集長の言葉を頭で反芻する。 最近、起きたときから、人生の視点がちがうと感じていた。過度の脳の疲れを疎ましく思っていた時とは全く違う、見通しと言うべき感覚だ。書くという行為が自分に不可欠な行為であると実感する。 はじめは、ものを書いていたことで佐原の役に立てたことがうれしかっただけだったように思うが、一度肯定的な方向から書くということを捉えなおしてみると、やはり自分は書くこと自体が好きなのであった。 そう気づくと、実際に小説でとりあえず生活ができているという今の状況に、感謝のような感動がわいてくるのであった。 早く佐原と落ち合おう、と思った。 今日も共に出版社を出て、何の打ち合わせもなく繁華街へと足を向ける。道々僕は、今なら言えると思い紗代に胸をもませろと言ってみたという話をして、佐原にオサム胸かよ!と言われ、2人で笑っていた。 ふと見上げるときれいな夕焼けがまだ残っていたが、丁度街灯が点くところだった。目線を戻すと、行き交うサラリーマンたちの中に混ざって、彼が少し遅れた僕の前を歩いていた。 いつものように飲み屋に向かう彼のがっちりとした背中を見るうち、何かを言っておかねばならないのではないかという気持ちが一瞬にして大きくなり、はじけた。 「佐原、僕、最近楽しいよ」 言ってみてから自分で吹き出してしまう。今まで書いたすべてのものに謝れと言われてもしょうがないような、表現ともいえない表現。 だが、ただただ10割正確なのであった。 彼は振り返って、少年のように両のこぶしをつくって突っ立っている僕に、おうと答えた。 「そりゃお前、いい友達がいっからだよ」 本当にそうだ。そしてそれをきっかけにすべてが輝きだしたのだ。 こんな当たり前のことが当てはまって、少し前まで自分は人並み外れてどうだこうだ言っていたなんて。 自分の単純さがおかしくなり、一時の決心を完全に翻して楽しんでいる自分の図太さがなんだかうれしくてしようがなくなる。 「長生きしたくなった」 また短文しかしゃべれない僕に彼は、ああそうだそうだ、と頷き、本当にうれしそうに見える彫りの深い笑顔を見せた。目じりのしわまでがうらやましかった。 「生きてるやつはそうじゃねえといけねえよ。」 すると彼は少し照れ臭そうに僕に完全に向き直った。片方の手はいつものようにポケットに突っ込まれていたが、向き直ってくれたことで見えたもう片方の手は、軽くにぎりこまれていたことを僕は見た。 そして、今考え付いたにしては複雑すぎるセリフを、一息で言い終えた。 「おれにはお前みたいな気のこまけえ、ほんっとにこまけえやつが必要だからさ。」 「お互い、今よりちょっとだけ相手を見習おうぜ。」 「んで、ちょっとだけ混ざって、でもお前はお前、俺は俺で、友達でいようや。」
文章のリズム感に私もこだわりました。
読んでいて楽しければ幸いです。
また人情や愛についてのお話を書くと思いますので、何卒どうぞよろしくお願いいたします。