4、告白
スペインの旅行から戻ると、シェーンは実家を引き揚げ、シェアアパートへ戻った。そして、ポールが紹介してくれたカウンセラー紹介所のカウンセリングを、まずは週一回から始めることになった。それはポールが忠告していた通り、確かに辛い治療だった。カウンセリングの初回から散々なもので、カウンセリングでは最初に、家族のことや生い立ちのことなどを話すことになるのだが、めまいと吐き気に襲われて中断したのだ。カウンセラーに言わせると、そういうクライエントは少なくないらしい。
その合間を縫ってベンとも会っていた。ロンドンのカフェやパブなどで。シェーンはあのスペインでの一件以来、ベンに対する接し方が少し変わった気がしていた。見えない壁がひとつ消えたような感じだ。あんな恥ずかしい取り乱し方をしたので、もう取り繕う必要が無かったのだ。それでも、ベンと居るのは気まずさや罪悪感が伴った。きっと、ベンに本当のことを伝えていないことが、引っ掛かっているのだろうとシェーンは薄々勘付いていた。
自分の部屋の壁の見やすい位置に貼られた白いカードをしばし見つめたシェーンは大切そうにカバンに入れた。彼のアトリエを訪ねたのはスペインへ行く前のあの一度きりだったが、そこで話がしたいと告げたシェーンに、ベンは二つ返事で快諾した。
ベンの自宅に到着したシェーンは、アトリエではなく本宅のベンのプライベートルームへ案内された。アトリエはまた大掛かりなリフォームをしているらしい。ベンの父親のものだという、ステップに歩ける幅だけを残して積み上げられていた本を蹴らないように気を付けながら上った二階の、初めて入るその部屋は、アトリエのような作業空間ではなく、衣装クローゼットやベッドなどの生活用品が一通りそろった空間だった。シェーンは促されるままアンティーク調の椅子に座り、エレインさんが淹れたという高級そうなティーカップに入った紅茶を貰い、喉を潤した。極めつきはエレインさん手製のスコーンでもてなされ恐縮しているシェーンにベンは微笑みながらも食べてくれと差し出す。
「大丈夫?」
「うん。おいしいよ」
「ふふ。そのことじゃないんだけど」
「何?」
「いや。いいんだ」
「その。聞いてくれるかな」
ベンが神妙な面持ちで頷き、カップを机に戻したのを確認したシェーンはカバンを一瞥した後、あの夜の後のことをぽつぽつと話し始めた。あの夜、ベンの呼びかけを背に家に走って帰った。あんなに急いでいたのは、その日は両親の信仰する宗教の集まりがあったからだ。その集まりには家族で参加する決まりだった。決まりを破れば罰が待っていた。とはいえ、シェーンがその決まりを破ったことは過去に一度きりだった。そのときは数回叩かれる程度だった。しかし、その日の状況はなお悪かった。シェーンが帰宅したときにはすでに在宅していた両親から悪魔が憑りついていると言われ、ひどい折檻を受けたのだ。あの悪い子、ウィリアムとまだつるんでいるのだと母親は怒りに震えながらベルトで息子の頭を殴った。その晩、衝動的にキッチンにあった度数の高いアルコールを大量に飲んだ後、自殺を図って救急病院から精神病院をはしごし約半年後に退院した。親が固辞したため精神的なカウンセリングを受けることなく学校に復帰したものの、一つ下の学年の子たちとやり直した。
ベンはもともとシェーンの一学年上なので先に進学の準備に入り、そのことは知る由もなかった。情報通のトミーからは病気でしばらく学校を休んでいるとしか聞いていなかったし、彼もそれ以上は知らなかったようだ。途中途中で途切れがちになったシェーンを急かすことなく、ベンは辛そうな表情を浮かべながら黙って耳を傾けていた。一通り話すころには一時間が過ぎ、紅茶はすっかり冷めていた。
「ポールから聞いたんだけどさ、もしかして君、昔、俺のこと好きだったの? それだったら、俺のこと嫌いになってくれないか?」
「なぜ? 君は俺の気持ちに注文出来ないよ」
本当に分からないというベンの表情を見て、シェーンはその通りだと思った。
「俺は、俺が嫌いだ。なぜ俺に構うんだ? ベンの周りには適切な人間がたくさんいるだろう?」
ふう、とベンは一つため息を吐いた。
「君は昔、俺が絵を描いていると話したときに、聞いてくれたよね。モデルにもなってくれるって、二つ返事だったし。実際、よく来てくれたし」
「よく、覚えてない」
「覚えてなくても良い。俺が覚えている。君は当時、いつも穏やかで楽しそうに笑っていて、そつない人だった印象がある。今思えばあれは、そうせざるを得なかったのか……。俺のデッサンにも無理して付き合ってくれてたのかな」
「そんなことは無い。嫌じゃなかった、と思う」
「僕の作品を見て大切そうに扱ってくれたよね。嬉しかった。じっくり見て、目を輝かせながら褒めてさ」
「そんな感じだったか?」
「うん。胸がどきどきしたよ。この間、久しぶりにアトリエに来たときに君もあんな感じだった。あれは本当の君だよね。優しくて好奇心の強い人なんだなって思った。もちろんこうやって君に構うのは俺のエゴだ。取り繕われた外面から時々見え隠れしてた綺麗なものを、引っ張り出したかったのかもしれない」
「綺麗って」
「君、気付いていなかったかもしれないけど、綺麗だよ」
「も、もう、いい」
「届いた? 俺の気持ち」
驚きと喜びの混ざったような声を上げ、ベンはシェーンの顔を覗き込んだ。
「わ、分かったから」
そっと頬にハンカチを当てられて涙がぽろぽろと溢れ落ちていることに気付く。ティッシュ箱を手元に差し出され、それを引き出しながら鼻にあてた。
「君の嫌いな君も君の一部だと思うんだけど、今は嫌いなままでいいんじゃないかな? いつか好きになるかもしれないし、嫌いなままかもしれない。その代わり、君の好きな部分を育てていけばいい。俺はそれを、手伝うと言うか、傍で見ていたい。君がそれを許してくれるなら」
顔が熱くなるのが自分でも分かるくらいにシェーンの体は熱くなった。肌は赤くなっているだろう。カウンセリングを受けるようになってからの効果がこういうところに現れ始めていた。シェーンは、これまで自分に向けられる感情に分厚いカーテンを引いて見ないようにしてきたのだが、そのカーテンが徐々に開かれ、薄くなってきていたのだ。
「あのさ、付き合っている人いる? いないよね? 俺、これまでもロンドンの滞在中に使っていた家があるんだけど、そこで一緒に住まないか? 実はアトリエのものもほとんど移動させた。それでも君のための部屋は余ってるんだ」
「は?」
一息でそう言ったベンは緊張した面持ちでシェーンを見つめていた。
実はシェーンはシェーンで、カウンセリングが一段落ついたころに就職活動を再会させていた。まめに貯金をしていたので当面の生活は問題なかったのだが、いつまでもというわけにはいかない。暇な時間に慣れ始めてきたのもあり、カウンセラーに相談した上で色々と準備をしてきていた。就職活動は、書類と電話面接が通ったところが一つあった。今度、最終面接に行く予定だが、ほぼ決まりと言ってもいいだろう。しかし、まだ決まったわけではない。カウンセリングは続いているし、何かと不安定な状況に変わりはない。スチュの顔が頭を過った。
不安が表情に出ていたのか、ベンがクスリと笑い、そっとシェーンの手を取った。
「急がない。君のタイミングで良い。考えてくれないかな」
ベンの手はシェーンと同じように熱かったが、嫌な感じがしなかった。シェーンは一つ頷き、考えるよと答えた。
中心地を点にするとシェーンが住んでいたシェアアパートのほぼ真逆のより中心地に近い一等地に位置しているベンの住まいは、三階建ての縦長の一軒家だった。一階には小ぶりの庭とキッチンとリビングダイニング、住み込み用の居住スペースがあった。二階に広さの異なるゲストルームが三部屋。三階にマスタールームがある。この邸宅はベンの父親の持ち物で、二階は宿として貸し出しており、通いと住み込みのスタッフが二人きりもりしているそうだ。
子供のころはあまり興味が無かった話なのだが、ベンの父親はシェーンでも知っている名前の本を出版している。学者でもありコンサルタントでもあり、色々と手広く事業をしているそうだ。しかし、この邸宅を含めたロンドンの資産はベンの父方の実家から譲り受けたものだと言う。そこまで来るとどういう世界なのかは雲の上の話に聞こえ、シェーンの与り知らぬところではあった。確かに、ベンには少し裕福なお育ちの子供にありがちな余裕のようなものがあると、成人して数年になる大人のシェーンは理解していた。きっと、育った環境によるものなのだと。ベンに言わせると、そこまでじゃないと否定されるのであえてつつかないが。
シェーンは再就職を果たしていた。職場環境はいまのところ良好で、ささやかな歓迎会を開いてくれたりと人間関係も悪くない。前職と同じく経理職のシェーンの給料ではきっと満額は無理だとしても家賃を払うと申し出ても、ベンは受け取ろうとしなかった。最終的にはシェーンが二人の生活費を持つことでようやく折れてくれた。家事は分担制となった。そして、二人の関係にも少しずつ変化が起き始めていた。
「俺は、一人で寝たい人間なんだ」
「はいはい。だから、週末だけだって。安心してよ」
安心してとはどっちの意味だと頭の中で混乱しながら、シェーンはマスタールームのベッドの横に立っていた。ベンはすでにベッドの中で、先ほどまで読んでいたらしい雑誌を腿の上に置いていた。
ベンに週末だけでも一緒に寝て欲しいと懇願され、今日がその初日だった。まだ二人の間に肉体関係は無かった。ベンは女性と付き合っていたと言うので、肉体的な興味はないのかもしれないと、シェーンは一人でも平気な性質なので無いなら無いでさほど気にしていなかった。
のそのそとベッドに入り、首元まで布を掛ける。
「明日、楽しみだね」
ほとんど自由業のようなベンが会社員のシェーンの休日に合わせて二人で生活用品の買い出しに行くだけのことなのに、ベンは嬉しそうだ。
布の下から手を握られ、手のひらがしっとりと汗ばむ。自分だけがその触れ合いに緊張しているのだろうとシェーンが思っていると、ベンが緊張すると言った。
「俺には、やっぱり君しかいなかったんだ」
「そんなドラマチックなこと言われても困る」
「心配しないで。そういう風に生きればいいだけの話だよ」
ベンは時々、かなり前向きな言葉を発してシェーンを驚かせた。シェーンの知っている十六のベンは、そんな達観していなかったと記憶している。彼の人生では何が起きてそういう成長につながったのか気になった。いつか聞ける日が来ると良いと思う。
「明日は? 何時に出る?」
あくびを噛み殺しながら聞くと、ベンがじゃああそこで朝ごはん食べようよとか、提案してくる。
「起きれたらな」
「そんな疲れてる?」
「ベン、あのさ、今夜は何もしないつもりなのか?」
シェーンは自分で言い出しながらも、やはり取り消せないものかと後悔した。無い場合のことを考えると怖い。ぎゅっと手の平が握られ、顔に影がかかったと思った途端に視界にベンの顔が入り込んだ。
「シェーンって、そうやって誘うんだ」
これは、有りだ。普段余裕ぶっている彼の顔に余裕のなさが見えて心臓が変に騒ぎ立てる。
「し、知らない」
「なにさ、知らないって」
「俺は、知らないんだ」
「それ、本当?」
瞳を覗き込まれ過ぎて、顔を逸らすとベンの嬉しそうな声音が聞こえた。ベンがくしゃくしゃと顔をゆがめ涙をぽろぽろと零すのでシェーンは驚く。
「シェーン! 俺は! 人生最大のギフトをたった今貰った気がする!」
「ちょっと、声大きい」
「ごめん、でもっ、ありがとう、ありがとう。本当はもっとゆっくり丁寧に進めるつもりだったんだけど……」
なんだそれはとシェーンが頭の中で思ううちに、顎に手を添えられてまっすぐ目を向き合わされ、ベンが唇を寄せた。胸がむず痒くなるような優しいくちづけでホッとしたのもつかぬ間。息も継げないほど情熱的なものに変わったのはそこから間もなくだった。
先ほどまでの通り雨はすっかり上がり、一直線に差し込む陽の光が鮮烈だ。窓の外を眺めながらコーヒーを口に運ぶ。同じものを見ていたようで、向かいに座るポールも晴れたねと声を弾ませながらチョコレートを齧った。
「君たちが上手くいってるようで良かった。それにしてもいきなり同棲なんて、ベンのやつ、ちょっと強引じゃない?」
「そうだな、やっぱり芸術家肌の人間というのは気持ちが急いてしまうのかな?」
二人でくすくすと笑い合う。ポールとは何かと気が合い、時々顔を合わせる仲になっていた。今日はこの後、エドワードとベンも一緒に四人で出かけることになっている。
「本当は何度も殻に閉じこもりたくなった。ベンからまた逃げようって。でも、君がくれたメッセージカードに後押しされたんだ。ありがとう」
「あ、あれ? なんか、上から目線な感じのやつだよね」
「実は、スマホに画像を保存しててさ、時々読み返してる。君の小説は全部読んだけど、君って、やっぱりすごいよ」
スマートフォンを取り出して壁に貼られた白いカードの画像を見せると、ポールが顔を赤くした。
「うわあ、照れるよ」
笑いを堪え切れずに吹き出すシェーンにポールも笑う。
「君、君が頑張ったんだよ。僕の言葉はちょっと背中を押しただけ」
世界は、怖いことばかりじゃない。
踏み出してみなければ出会えないことがたくさんある。
傷付いたって、また新たな出会いがそれを癒してくれる。
だから勇気を出して、一歩踏み出してみて。
完




