皮婚 リコチャン
あーあ、アレンが呆然自失です。生まれて28年、そこから転生して22年、私はこれ程までの呆然自失に陥った人を初めて見ました。大ショック等という言葉ではとてもじゃないが表しきれない。まさしく呆然自失、あ、いや、茫然自失の方かな?とにかく凄まじい衝撃に言葉どころか表情までもを失っています。
アレンはふらりと一歩前に出てリアンに手を伸ばしました。けれどもリアンはわざとらしく私にしがみついてイヤイヤなんかしています。ガツンと叱ったのは私なのにねぇ。
しかもです。たったリアンが発した『おとう、チライ!』は記念すべき初二語文でございまして、首が座っただの寝返りをうっただの、ハイハイやつかまり立ちや伝い歩き、はたまた果汁を飲んだとかおかゆを食べたとかあれやこれやのリアンの発育を書き留めている育児日記に記録すべき事項なのです。
それがなんと『おとう、チライ!』だなんて。アレンはこんなにもリアンを溺愛しているのに。
アレンのライムグリーンの瞳がゆらゆらと揺らいでいます。そりゃあ涙も滲みますよね。可愛くて可愛くて堪らない愛息子なのに、チライ!って言われちゃったんですから。
「ち、違うでしょ?リアンはお父様が大好きよね?」
「チライ!」
私の胸におでこをグイグイ押し付けながら宣言したリアンは、急に顔を上げたかと思うとニパッと笑いました。
「おまあ、チキ!」
おまあ、チキ!ですってよ!
私は喜びのあまりもがきそうになるのを必死で堪えました。この状況で言うのはいかがなものかと思いますが何しろ相手は幼児です。悲しみに打ちひしがれるアレンと途端にご機嫌さんになったリアンのどちらを優先すべきかなんて、火を見るよりも明らか。
私はアレンを遥かに凌ぐ超高速でリアンのおでこにデコちゅーをしまくりました。リアンはデヘヘと嬉しそうな笑い声を上げています。
「にゃーん」
いつの間にか足元に来ていたミロがリアンを見上げて鳴きました。ミロったら、すっかりリアンのお姉さんになったつもりらしく、子猫の世話をやくように毛繕いをしたり尻尾であやしたりするのです。きっと私に叱られている声を聞いて何事かと駆けつけたんでしょうね。
「みうぉ!」
リアンはズルズルと私の腕から滑り降りミロの前でしゃがみこんで満面の笑みを浮かべました。なんだか嫌な予感がします。というか嫌な予感しかしません。
「みうぉ、チキっ!」
リアンは私へのちきよりも更にテンションの高いチキっ!をミロに進呈しました。ミロはシラッとして顔を洗っていますが、心に秘めた興奮が床に激しく打ち付ける尻尾から見て取れます。
『ハハっ!』という明らかにわざとらしく明るい声を上げたアレンは微笑みながらリアンを抱き上げました。
「そうか、リアンはミロが好きか」
「みうぉ、チキっ!」
「リアンはお母様も好きか?」
「おまあ、チキ!」
コクンと喉元を動かしたアレンは大好きな高い高いを連発しました。長身のアレンの高い高いは相当な高さなのでリアンはいつも大はしゃぎ。今もキャッキャと大ウケしています。
最後にポンと放り投げしっかりとキャッチしたアレンは、リアンのおでこにキスをしてから若干引き攣った笑顔で首を傾げました。
「リアンはお父様が」「チライ!」
アレンが言い終わるより先にリアンの叫びが響きました。あんなに笑顔だったのにプニプニのほっぺを膨らませております。
「チライ?」
「おとう、チライ!」
「…………」
アレンは力なくリアンを降ろしました。今度こそ茫然自失どころではなく絶望に打ちひしがれております。だよね、最愛の息子に念押しするように嫌いだと言われたらそうなりますよね?
これは困ったぞ!と狼狽えておりますと
「坊ちゃま~」
とリアンを呼ぶマリアンの声が聞こえて来ました。
「リアン坊ちゃま、おぶぶのご用意ができましたよ!」
知らせに来たマリアンに駆け寄るリアン。リアンはマリアンの入れた泡たっぷりのお風呂が大のお気にいりなんです。
「まいあ、チキ!」
そう言ってマリアンのスカートにしがみつくリアンに、マリアンの目尻は下がりっぱなしです。
しかしそこはベテラン家政婦、デレながらもしっかりとアレンのただならぬ様子を察知したみたいです。
話を聞いたマリアンはフムフムと頷きました。
「心配はございませんわ。お小さくてもリアン坊ちゃまは男の子ですからね」
「男の子?」
マリアンは大きく頷きます。
きっとリアンにも男としての自覚が芽生えて来て、女性には優しく、同性には厳しい目を向けるようになったのだと。
息子さん二人を育て上げたマリアンの話には説得力がありました。そう言われてみれば男の子は父親を、女の子は母親をライバル視する時期があると何かで読んだのを思い出しました。となると『おとう、チライ』も発達の一つなのかしらね?
「こんなもの、直ぐに落ち着きますわよ!」
というマリアンの心強い断言に、アレンは混乱しながらも希望を見出したようで弱々しく微笑みました。
「おーいマリアン、お湯が冷めてしまうぞ?」
という声に振り向くとそこにいたのはマリアンの夫のジム。これまで登場の機会こそありませんでしたがマリアンと共に我が家で働いてくれています。
「いむーっ!」
リアンは嬉しそうにピョンピョン飛び跳ねながら叫びました。
「いむ、チキっ!!」
子ども部屋のベッドでスヤスヤ眠るリアン。はだけた布団を整えて寝顔を眺めていると、いつの間にかやってきたアレンが私の背中越しに覗き込みました。
「可愛いな……」
心なしか声が掠れているような気がしますが、もしかして隠れて泣いていたのでしょうかね?
アレンはそのまま私を抱きしめて肩に顔を押し当てました。
「ねぇ、あんまり気にしないで。マリアンも直ぐに落ち着くって言っていたでしょ?」
「……でもジムは男だ。マリアンの説とは相違がある」
アレンはスン!と鼻を鳴らしました。
「リアンは本気で言ったんじゃないのよ。ほら、覚えた言葉を使ってみたくなったとか、そんな感じなんじゃない?」
「だが『チライ』と言われたのは俺だけだ……」
そう話すアレンは完全に涙声です。私の背中で泣き出しそうになりながら必死に我慢しているんでしょう。
結婚式の最中に初めて知ったんですけれどね。泣き虫なんですよ、アレン。式の間は参列者の大半が私が嫁に行けると安堵して泣いていたのであまり目立ちませんでしたけれど、リアンがお腹にいるのがわかった時も泣いたし、大難産の末にやっと生まれて来たときなんて半日泣きっぱなしでした。
リアンの前髪を撫でおでこにキスをすると、こっそり涙を拭ったらしいアレンも身を乗り出して来ました。案の定何度も何度もチュッチュチュッチュしているので慌てて引き離しましたけれど。
そのままアレンの手を引いて子ども部屋を出ると、アレンはいきなり私を抱き上げました。
「ねぇアレン、リアンはお父様が大好きなの。今日だってお父様が帰ってきたのが嬉しくて私の肩によじ登ったんだもの」
「え?」
アレンの脚がピタリと止まりました。あれがどういう状況だったのか、そう言えばアレンは知らないままでしたものね。
「リアンは大好きなお父様に叱られたのが悲しかったのよ。それできらいだって言ったんだわ」
アレンは項垂れて深い溜息を吐きました。恐らく私の推測は間違っていません。リアンは紛れもないパパっ子ですからね。
でもここからが肝心です。変な決意を固められたら困りますから。
「でもね、アレン。やっぱり悪いことは悪いと教えるべきよ。そうでしょう?」
「そう……だな……嫌いだと言われても……やっぱり俺は父として……リアンに正しい道を……」
うくぅ……と唇を噛んで顔を背けるアレンの首に私はぎゅっと抱きつきました。愛するリアンの為ですもの。アレンには気の毒だけど仕方ありません。
それにですね。こんな私でも日々溺れかけるほどの愛情を注がれて過ごせば、それなりのスキルも身に付くものでして……
私はアレンの肩に頭を凭せ掛けました。私が、ええ、わたくし、リゼット・コンスタンス・ベンフォードが!
「アレン……私がいるわ」
「……リコ?」
私がいたら何だって言うのか?自分でもよくわかりませんが、こういう時は何となく雰囲気を出しておけば良いのです。
「大好きよ……」
リアンの『おとう、チライ!』問題にはかすりもしていないにも関わらず、アレンはまんまと身体をビクリと震わせました。
チョロいな。でもね、冷静沈着が服着て歩いているようなヤツだと言われる美形の近衛騎士が、泣き虫でチョロいだなんて可愛いったらないじゃありませんか!
思わずニヤけそうになったその時、アレンはいきなり早足で歩き始めました。脇目も振らずにたどり着いた寝室のドアを慌ただしく開きもっと慌ただしく閉め、私はポイッとベッドに投げ出されました。
やられた!アレンめ、これを狙ってわざとイジイジしていやがったのか!
文句を言おうにも既に私のお口はアヒルちゃんにされています。悔しいがアレンの連発デコちゅーを甘んじて受け入れるしかありません。
やれやれ。どうやら私はまだまだ未熟者で、今後もアレンのだだ漏れの愛情を受け止め鍛錬しなきゃならないようですね。




